第2話(前編)――「塩の筋、鉤の音」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
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(1522年7月中旬、テセル島〈Texel〉沖、朝)
ディエゴがハバナを出た時、船団は20隻だった。旗艦を含むガレオン8隻、武装商船8隻、連絡用のキャラベル4隻だ。兵と船員は計2,240名だった。船倉には砂糖1,200樽、糖蜜600樽、タバコ400俵のほか、カカオ豆、染料、獣皮、真珠、エメラルド、金銀を積み、火薬樽300も抱えていた。
この積荷はアムステルダムで全量を売り切った。机に積まれたのは銀貨と金貨、それに信用状だ。
続けて、アフリカ向けの買い付けに回った。麻布は300反、毛織物は180反だった。鉄材は棒鉄を240束、銅板は90枚、真鍮線は60束そろえた。鏡は200枚、鈴は600個、針は20,000本、刃物は短刀と小刀を合わせて400本、鍋は鋳物鍋を120口、ガラス玉は大小の混ぜ玉で8,000粒を木箱に詰めて積ませた。
ブレダでヘンリー3世に渡した金は金貨で350万ギルダーだった。それでも、売買と買い付けを終えた時点で、手元には金貨で2,650万ギルダー〈日本円で22億円相当〉が残っていた。
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(1522年7月中旬、テセル島〈Texel〉沖、朝)
テセル島が背後へ沈むころ、船団は南西へ針路を取った。旗艦を先頭にガレオン8隻、武装商船8隻、キャラベル4隻が、灰色の海に長い列を作る。ロープは潮を吸って重く、帆布は風を受けて腹を張り、滑車が乾いた音を刻んだ。甲板には潮とタールの匂いがこびりつき、時おり火薬庫から苦い匂いが上がってくる。
兵と水夫は2,240名いる。ディエゴは毎朝、見回りのあとに炊事場へ顔を出し、鍋の塩加減を確かめ、病人の数を聞いた。遠くへ行くほど、こういう手順が命を救うと知っているからだ。
航海は35日を見込んだ。北海の湿った冷えが抜け、英仏海峡を越えるころには風が変わった。昼は眩しく、夜は骨に冷える。波が荒い日には甲板が水を噛み、革靴の中がぬるくなる。凪の日には帆がたるみ、船団がじりじりと進む。ディエゴはそのたびに声を掛けた。
「喉が乾く前に飲め。喧嘩は腹の中から始まる。腹が荒れると、手元も荒れる」
兵たちは笑い、手が動く。笑い声が出るうちは、隊は崩れない。
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出帆から6日目の昼、見張りが帆を見つけた。空は薄い雲で白く、陽は弱いのに海面の光だけが刺さる。相手はポルトガルの商船で、舷側が煤け、帆に塩の筋が残っていた。近づけば近づくほど、船の中身が匂いで分かる。家畜の糞の酸っぱさ、油の粘ついた匂い、そして鉄が擦れる冷たい匂いだ。
ディエゴは砲列を見もしない。大砲は撃たない。撃てば沈む。沈めれば、積荷も人も海に消える。
「帆を絞れ。距離を詰める。縄を用意しろ。鉤は前へ。甲板の上は俺が掃く」
命令は低い声だったが、甲板の動きが一斉に変わった。濡れた麻縄が引かれ、鉄鉤が木箱の上で鳴った。船が並びかけた瞬間、相手の甲板から火縄銃の火花が見えた。乾いた破裂音が風に裂け、鉛が空気を切る嫌な音がした。弾が帆柱の脇を掠め、木片が跳ぶ。塩の匂いに火薬の苦さが混じる。
ディエゴは前へ出た。背中越しに味方の火縄銃が短く鳴り、湿った煙が重く垂れて目を刺した。敵の甲板が伏せる。そこへ縄が飛ぶ。鉤が舷側に食い込み、木を噛む鈍い音がした。船腹が擦れ、板がきしんで腹に響く。
「行くぞ」
ディエゴは自分で最初の綱を踏み、舷側を越えた。靴底が濡れた甲板を叩き、滑りそうになる。潮で冷えた板の上に焦げた火縄の匂いがこびりついている。短槍が突き出された。ディエゴは半身で受け流し、剣先を返して手首を切った。血が飛ぶより早く、槍が落ちる音がした。斧が振られた。刃が空を裂く風音が耳元で止まり、剣が柄の付け根へ入る。木が割れる鈍い感触が掌に残り、敵の肩が崩れる。
敵が火縄銃を構える気配が見えた。火縄の赤が揺れ、銃口がこちらへ寄る。味方の援護が先に鳴った。耳の奥を叩く銃声で、敵の帽子が跳ねる。怯んだところへディエゴが踏み込む。剣は重く振らない。短く速く、当たる角度だけを作る。刃が噛み合う高い音がして、相手の剣が手から抜けた。
「提督はどこだ」
言い放つだけで、敵の目が揺れた。階段は狭く、湿った木の匂いが濃い。柱に弾が当たって木が裂け、粉が舞う。頬に細かな欠片が当たる。痛いが止まらない。
「上だけを止めろ。撃ち過ぎるな」
援護の火縄銃が階段の上の影を叩き、煙が狭い空間に溜まって喉を焼いた。ディエゴは煙の中へ入った。奥の男は羽根飾りの帽子をかぶり、短剣を握っていた。目は逃げる目をしている。提督だ。
男が何か叫んだが、ディエゴは返事をしなかった。剣を前に置き、足だけで距離を詰める。短剣が跳ねた。刃が肩へ来る角度を読む前に、剣が手首を叩いた。金属が落ちる音が板に吸われ、提督の顔が青くなる。次は胸元だ。刺すのではない。逃げる息を止めるだけの一撃だった。提督が膝をつき、羽根が床に落ちた。
甲板へ戻ると、戦いは片付いていた。水夫は武器を捨て、潮で濡れた板の上に息だけが残る。ディエゴは周囲を見回し、指を2本立てた。
「幹部を出せ。指揮をした者だ。水夫は縛るだけでいい」
幹部将校は並べられた。裁きは短い言葉で済んだ。処刑は手早く終わり、甲板の水で血の筋が薄まった。潮の匂いが勝ち、タールの匂いが残る。兵は目を逸らさずに見て、余計な口を出さない。規律の形が、そこにあった。
船室の扉を開けると、香油の甘さと布の湿り気が押し返してきた。提督の妻、ルイーザ・デ・カルヴァーリョ〈36〉が立っていた。髪は乱れているのに、背筋だけは折れていない。
ディエゴは帽子を取り、距離を残した。
「あなたを傷つけない。人質として預かる。だが礼儀は守る。必要なものは言え」
ルイーザは唇を結び、短く言った。
「私は捕虜なのね」
「そうだ。ただし乱暴は許さない。私の兵はそれを知っている」
ディエゴはすぐに手当てを命じた。鍵のかかる小さな船室を与え、寝具を替え、湯を回し、医師に体調を見させた。見張りは扉の外に1人だけ置き、無用な視線が入らないようにした。兵たちは無礼を言わず、通路ですれ違う時は道を譲った。




