第1話(後編)――「祈りの小屋、出帆の塩」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
マルフリート・ファン・ベルゲン〈33〉
ゼーラント沿岸の家の出で、嫁ぎ先はブレダ近郊に所領を持つ騎士家である。港の船主と倉の番頭に顔が利き、帳面も読める。笑う時ほど声を落とす女。
アドリアーナ・ファン・ララーン〈28〉
南方の名家の血を引き、夫は宮廷の書類に近い職にいる。税や関税の話が日常に混じる家で育った。上品な笑みのまま、相手の嘘を削ぐ。
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(2日後、ブレダ、教会裏の小庭、夕方)
石壁の影が伸び、香草の匂いが少し甘くなった。昼の熱がまだ残り、土は湿っている。遠くで鐘が鳴り、町のざわめきが薄い布越しに聞こえる。
アドリアーナは侍女を1人だけ連れ、祈りに向かう顔で歩いてきた。翡翠は胸元で静かに揺れ、金の鎖が白い肌の上で冷たく光る。笑みは崩さないが、目は笑っていない。だからこそ、約束を破らないと分かった。
アドリアーナは歩みを止め、最初に確認した。
アドリアーナは言った。「倉の女には会ったのね」
ディエゴは答えた。「会った。彼女は倉を動かせる」
アドリアーナは頷いた。「なら、私は書類と噂を動かす。あなたの積荷は『布と小物』で通る。ただし、税の口は飢えているから、油断すると噛まれる。だから私は、噛ませないように先に手を打つ」
ディエゴは言葉を選び、相手の誇りが立つように言った。
ディエゴは言った。「あなたは口と紙の扱いが上手い。しかも、上手さを見せびらかさない。そこが強い」
アドリアーナは息を吐き、ようやく少しだけ笑った。「私が上手いのではないわ。夫がそういう世界にいるから、私が覚えただけ」
その言い方には寂しさが混じっていた。夫の側にいても、夫に見られていない女の寂しさだ。だが、彼女は寂しさを涙にせず、刃に変える。だから役所に効く。
アドリアーナは続けた。「あなたがアフリカへ向かうなら、まず港の噂を変える。『香辛料の代わりを探す商いだ』と流す人を作る。それから『金属を積んだが、行き先は地中海だ』とも流す。噂は、1本に揃えなくていい。むしろ、いくつか混ぜた方が、追う側が疲れる」
ディエゴは首を横に振った。「あなたに嘘をつかせない」
アドリアーナの眉がわずかに動いた。
ディエゴは続けた。「嘘はあなたの品を落とす。あなたは事実の並べ方で人を迷わせればいい。事実の順番を入れ替えるだけで、人は違う場所を見始める」
アドリアーナは翡翠に指を当て、静かに言った。
「あなたは女を道具にしないのね。女の値打ちを上げて、こちらへ寄せる」
ディエゴは答えた。「寄せた女が誇りを持てば、逃げない。逃げたら自分の負けになるからな」
アドリアーナは庭の奥へ歩き、低い扉を開けた。外からは空き家に見える小屋だったが、中は乾いた木の匂いがした。湯が沸いていて、湯気が肌に触れる。火の熱が指先の冷えをほどいていく。
アドリアーナは振り返り、ここでようやく本音を出した。
「私が欲しいのは約束の言葉ではない。あなたが、私を女として見たという事実が欲しい。夫は私を、書類の置き場みたいに扱うから」
ディエゴは一歩近づき、いきなり触れずに目で許しを取った。
アドリアーナは小さく頷き、外套の紐を自分でほどいた。肩があらわになり、外の冷えが湯気の熱へ変わるのが分かる。
◇ ◇ ◇
ディエゴは首筋へ口づけた。香草の匂いが肌に移り、湯の湿り気が背中を温める。アドリアーナの手は彼の胸の前で止まり、服の布目を探り、それから落ち着いた。
アドリアーナは囁いた。「私は競い合うのが好きではない。でも、忘れられるのは嫌よ」
ディエゴは囁き返した。「忘れない。あなたの仕事は、海の上より先に効く。私はそれを知っている」
彼女の手がディエゴの腰をたぐり寄せ、外套が静かに床に落ちた。木の床板の感触と湯気の湿り気が肌に絡む。アドリアーナの肌はほんのり熱く、彼女の指がディエゴの背を滑る。彼女はそっと脚を絡め、2人の体温が重なる。湯の匂いと彼女の髪の香りが入り混じり、静かな吐息が部屋に満ちる。
ディエゴはゆっくりと彼女の身体を愛撫し、アドリアーナは静かにその手に応えた。彼女の目が潤み、唇からこぼれる声は抑えきれない熱を帯びている。やがて2人はしっかりと抱き合い、互いの欠けていたものを埋めるように熱を分け合った。小屋の外では鐘が遠く鳴り響き、世界はしばらく2人だけのものになった。
◇ ◇ ◇
アドリアーナは帰り際、目の鋭さを取り戻していた。鋭い目は、役所の机の上で生きる。彼女は扉の前で振り向き、はっきり言った。
「私はあなたの船が疑われないようにする。その代わり、あなたは勝って帰ってきて。私があなたに賭けたことを、私自身が誇れるように」
ディエゴは言った。「誇らせる。あなたの賭けを、損にはしない」
◇ ◇ ◇
(6月下旬の出発前、テセル島〈Texel〉沖、深夜)
風が帆索を鳴らし、船板が静かに軋んだ。潮の匂いは濃く、唇に塩が残る。ディエゴは甲板で足を止め、遠い陸の灯を見た。
マルフリートは倉を動かした。人足の手配は滞らず、番頭の口は塞がり、帳面は整い、余計な噂は港の外へ出なかった。
アドリアーナは役所の口を動かした。税の目は別の荷に向き、こちらの積荷は波に紛れた。
2人は互いを意識している。しかも、意識の仕方が違う。マルフリートは倉で勝ちたい。アドリアーナは机の上で勝ちたい。
ディエゴはその違いを利用し、同じ場所で争わせないようにした。その代わりに、それぞれの勝ちが、彼の出帆を押す形に揃っていくように導いた。
彼は小さく息を吐き、声に出して言った。
「よく動いた。これで港は私の背中を押す」
忠誠を誓わせるために大げさな言葉は要らない。2人はすでに自分の手で札を置いた。札を置いた女は、簡単に引かない。引けば自分が負けになるからだ。
帆がふくらみ、船はわずかに向きを変えた。次はカーボベルデだ。補給と情報と人を揃え、ポルトガルの息の根を止める。ここから先は、海の上で決める。




