第1話(前編)――「運河の灯、翡翠の鎖」
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
マルフリート・ファン・ベルゲン〈33〉
ゼーラント沿岸の家の出で、嫁ぎ先はブレダ近郊に所領を持つ騎士家である。港の船主と倉の番頭に顔が利き、帳面も読める。笑う時ほど声を落とす女。
アドリアーナ・ファン・ララーン〈28〉
南方の名家の血を引き、夫は宮廷の書類に近い職にいる。税や関税の話が日常に混じる家で育った。上品な笑みのまま、相手の嘘を削ぐ。
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潮は冷たく、口の中に塩が残った。船は沖合でゆっくりと揺れ、帆索が擦れる音が規則正しく続いていた。甲板は夜露を含み、足裏に木の湿り気が伝わる。
ディエゴは舷側に手を置き、遠くの陸の影を見た。オランダの町は近いが、これから向かう海は長い。だからこそ、出帆の前に港を押さえ、人と金と噂を整えておく必要があった。
彼は自分に言い聞かせた。感情で女を振り回すな。相手が動ける形を用意し、相手が誇りを持てる役を渡せ。そうすれば、相手は自分から働き、しかも自分の勝ちとして動いてくれる。
その相手が、夫に構われずに暮らしている貴婦人なら、なおさらだった。捨てられた寂しさは、ただ甘い言葉で埋めてもすぐに枯れる。けれども、役目と裁量を渡してやれば、寂しさは火に変わり、火は港を動かす力になる。
ディエゴは踵を返し、船室へ降りた。皮袋の水は鉄の匂いがしたが、喉を潤すには十分だった。机の上には、翡翠の鎖を入れた箱が2つ並んでいる。中身を同じにしたのは、片方を持ち上げて片方を落とさないためだ。
彼は箱の蓋を閉じ、船の男に言った。
ディエゴは落ち着いて言った。「今日の夜、アムステルダムで用事を済ませる。人を2つの家へ走らせろ。片方には紙を渡し、片方には口で伝えろ。どちらも侍女の手を通し、余計な者に嗅がせるな」
男は頷き、すぐに階段を上がって行った。
ディエゴは窓の外の光を見た。朝の光は淡く、運河の水面の色を思い出させた。今夜、その水面の近くで女を口説く。だが、目的は恋ではない。港を動かす手と、役所を迷わせる口を手に入れる。
◇ ◇ ◇
(1522年6月下旬、アムステルダム、夜)
宴の熱が残る広間を出ると、外気が頬を引き締めた。運河から上がる湿り気に、タールと魚の匂いが混じり、遠くの炭火の煙が薄く流れてくる。石畳は昼の雨をまだ含み、靴底が控えめに鳴った。
ディエゴは外套の襟を直しながら歩いた。頭の中で段取りを確かめる。今夜はマルフリート。2日後はアドリアーナ。日を分けるのは、ただ慎重だからではない。互いが互いを意識し、しかも正面からぶつからない形を作るためだ。張り合いは残し、争いは避ける。
そして、どちらにも言うべきことは同じだった。私はあなたを飾りにはしない。あなたに任せる。あなたの手で勝ってくれ。
使いの男はすでに戻っていて、帽子を胸に当てた。
男は低い声で言った。「マルフリート様の家へは紙を渡しました。侍女が受け取り、火の近くで目を通していました。アドリアーナ様の方は、紙は嫌がる様子でしたので、教会の裏庭で会うと口で伝えました。侍女は祈りの支度だと理解していました」
ディエゴは頷いた。「それでいい。紙は残る。残った紙は、いつか人の手に渡る。だから、残さない」
◇ ◇ ◇
(同夜、運河沿いの宿、奥の小部屋)
部屋はこぢんまりしていたが、むしろ都合が良かった。窓を閉めれば外の笑い声は水面のきらめきに溶け、こちらの声は逃げない。燭台の蝋が甘く匂い、火が揺れるたび、壁の影が淡く動いた。
マルフリートは外套を外し、椅子の背に掛けた。そうしながらも背筋は崩れない。崩した瞬間に、妻としての自分がどこかへ落ちてしまうと感じているのだろう。
ディエゴは杯を置いた。葡萄酒の酸味が鼻を抜け、舌の奥が温まる。彼は酒で女を鈍らせない。今夜は、酔いの勢いで言わせる言葉ではなく、翌朝も残る約束が欲しかった。
マルフリートは椅子に腰を下ろし、目で訊いた。何を望むのか、と。
ディエゴは先に言った。「あなたの倉が欲しい。あなたの番頭が欲しい。さらに言えば、あなたが『見学』という名目で動かせる男たちの時間が欲しい。私は、それをあなたに任せたい」
マルフリートは鼻で笑うように息を吐いたが、笑い声にはしなかった。
マルフリートははっきり言った。「欲しいものを最初から言う男は珍しいわ。夫はね、私に頼まずに命令するか、何も言わずに黙るか、そのどちらかよ。だから私は、何年も、倉の中でしか勝てなかった」
ディエゴは椅子を少し引き、近づきすぎない位置で止めた。その距離のまま、声を落として言った。
ディエゴは言った。「私はあなたに命令しない。あなたの裁量で動いた方が、港は速く回る。あなたは男の前で笑っているだけの女ではない。倉と人の流れを知っている女だ」
その言葉で、マルフリートの肩がわずかに緩んだ。認められるのは久しぶりなのだろう。
ディエゴは木箱を出し、蓋を開けた。翡翠が火を受け、深い緑の底で薄い雲のような模様が揺れた。金の縁は派手ではないが、確かな重みで光っている。箱の木の匂いがふっと立ち、赤い布がさらりと鳴った。
マルフリートは指先で石の冷たさを確かめ、それから顔を上げた。
マルフリートは言った。「同じ品を、もう1人にも渡したのね」
ディエゴは隠さずに答えた。「同じだ。私は差をつけない。あなたを比べるために会っているわけではない」
マルフリートは箱を閉じずに、視線を外さないまま言った。
「差がないなら、私はどうやって勝てばいいの。私は、あの人みたいに役所の話が得意ではないわ」
ディエゴはゆっくり頷いた。「だからこそ、あなたは倉で勝てる。あなたが勝てる場所で勝てばいい。私はその勝ちが欲しい」
マルフリートは翡翠の鎖を指にかけ、首へ回そうとしたが、留め具のところで手が止まった。
マルフリートは少し苛立ったように言った。「届かない。侍女を呼ぶのは嫌よ。余計な目が増えるから」
ディエゴは立ち上がり、背後へ回った。「私が留める」
金具は冷たく、彼の指に金属の感触が残った。彼女の首筋は温かく、香が濃い。花の甘さの奥に、肌の湿り気と、汗の塩が混じっている。夫の家に戻る女の匂いは軽くならない。だからこそ、近づいた時の熱がはっきりする。
留め具が噛み合うと、金属が小さく鳴った。
マルフリートは翡翠を胸元へ落とし、指で押さえた。宝石を見ているふりをして、鼓動を落ち着かせているのが分かった。
ディエゴは耳元で言った。「明後日、倉を見せてくれ。番頭の動きも、人足の癖も、私に分かるようにしてほしい」
マルフリートは振り返らずに言った。「見せるわ。倉の奥まで案内する。番頭がどこで昼寝をするかも、どこで酒を飲むかも、全部分かるようにする」
彼女はここで初めて体を少し寄せた。肘と肘が触れ、布越しの熱が伝わる。
マルフリートは続けて言った。「ただ、私を口利きの道具にしないで。私は、夫の横で笑っているだけの女ではないの」
ディエゴは頷き、彼女の言葉を受け止めて返した。「分かっている。だから頼む。あなたの手で港を動かしてほしい。私は、あなたの勝ち方を尊重する」
マルフリートは杯を取り、飲まずに匂いだけ確かめた。
マルフリートは静かに言った。「あなたの船が出る朝、私は見送りに行けない。でも、その代わりに、港の中で動かす。あなたが戻る時に困らないように、今のうちに道をならしておく」
ディエゴは言った。「それで十分だ。あなたが動けば、港は動く」
交渉の言葉が終わると、部屋の空気が変わった。今度は、彼女の方が一歩踏み込んだ。出口へ向かうふりをして、手を引いた。指先は硬いが、離れない。
ディエゴはその手を握り返し、扉の陰へ導いた。燭台の光は直接届かず、代わりに衣擦れの音が近くで鳴った。唇が触れ、香がさらに濃くなる。
マルフリートは彼の頬に触れ、骨の形を確かめるように撫でた。それから、声を落として言った。
マルフリートは囁いた。「今夜は、私の名を呼ばないで。名を呼ばれたら、私はここに置いていけなくなる」
ディエゴは頷いて答えた。「分かった。あなたが戻れるようにする」
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彼女の手がディエゴの胸元をゆっくりと滑り、衣擦れの音が部屋の空気を満たしていく。窓の外から微かに運河の水音が届く。ディエゴはマルフリートの背中を抱き寄せ、その温もりを両腕に確かめた。彼女の髪が頬をかすめ、ほのかな香油の香りが漂う。唇が重なり、熱の通う感触にマルフリートの身体が小さく震えた。
灯りが揺れ、2人の影が壁に重なる。マルフリートは自分から腰布をほどき、ディエゴの指を自身の肌へと導いた。彼女の喉がかすかに鳴り、吐息が高鳴りに混じる。ディエゴは彼女の胸元にそっと口づけを落とし、指でその鼓動を確かめる。肌の下で血が巡り、ぬくもりが伝わってくる。彼女は指を絡め、やがて彼の耳元で囁いた。「ここで、私のものになって」
ディエゴは優しく彼女をベッドへ導き、2人の身体が重なり合う。マルフリートの熱と匂いが、ディエゴの心と身体を包み込む。彼女の吐息は次第に荒くなり、手はシーツを強く握る。その一体感の中で、2人は互いの寂しさと欲望を分かち合った。夜は深く静かに、更けていった。
◇ ◇ ◇
マルフリートが去り際に振り向き、はっきり言った。
「私は、倉で勝つ。だから、あなたは海で勝って。帰ってきた時に、私が恥をかかないように」
ディエゴは言った。「恥はかかせない。あなたの勝ちも、私の勝ちも、同じ旗にする」




