第20話(後編)――「翡翠の鎖、貴婦人の口」
その夜、宴が開かれた。杯の匂いは酸味が強く、肉の脂が甘く香った。銀の皿が灯を返し、楽師の弦が震え、笑い声が天井へ跳ねた。貴婦人たちは香をまとい、髪に花の匂いが残っている。近づけば肌の温度が分かる距離で、指輪の石が火を拾った。
ディエゴの左右に座ったのは、どちらも既婚の女だった。夫の名と家の名を背負い、そのうえで自分の裁量で人を動かす女たちだ。夫の隣で微笑み、夫の背で別の約束を結ぶ。ここでは、それが咎めにならない。咎めにする者が、そもそもこの席へ呼ばれない。
右にいた女が、ディエゴの喉仏へ視線を滑らせ、落ち着いた声で言った。
「あなたがディエゴ様ですのね。噂は港から来ます。港の噂は嘘も混じる。でも、金貨の音は嘘をつけません。今夜はその音が、私の耳の奥で鳴っています」
左の女も笑いながら、少しだけ身を寄せた。香の匂いが濃くなる。甘いだけではない。白檀の熱のような匂いが混じっていた。
「私は音より匂いを信じます。新大陸の港は、どんな匂いがするの。砂糖は白いのに、匂いは黒いって本当かしら」
ディエゴは杯を置いた。逃げずに話す。話しながら、相手の呼吸の変化を拾う。欲しいのは情報ではない。自分の胸が動く瞬間だと、彼は分かっている。
「砂糖は白い。だが、樽の中は湿っている。蓋を開けると、甘さの奥に木と汗の匂いが立つ。染料は赤い。刃物で切った断面が濡れて、指に色が移る。革は乾いて硬いが、港の湿気を吸うと匂いが変わる。夜になれば潮が強くなって、火の粉と一緒に塩が舌へ落ちる。あの匂いは、一度嗅ぐと忘れない」
右の女が、膝の上で指を組み直した。指輪が微かに鳴った。
「忘れない匂いを持つ男は、危ないわね。危ないのに、席へ座ると落ち着いて見える。どちらが本当なの」
「どちらも本当だ。危ないのは海の上で、落ち着いているのは今だ。今、落ち着けない男は、海へ出たら死ぬ」
左の女が、笑いを飲み込み、唇を少しだけ潤した。彼女はその仕草を、見られていると知りながらやる。見せているのだ。
「死ぬって言葉を、そんな顔で言うのね。私の夫の周りの男は、死ぬ話をする時ほど声を大きくします」
「声を大きくするのは、怖いからだ。怖い話を飾るのは男の癖だ。俺は飾らない。飾るなら、別の場所でやる」
言い終える前に、右の女の膝がわずかに動いた。布が擦れる音がした。足先がディエゴの靴に触れるか触れないかのところで止まる。偶然を装った故意だ。
「別の場所、ね。あなたは女の耳元で、よくそんな言い方をするの」
ディエゴは笑わなかった。笑うと軽くなる。軽くすると、この場の緊張が逃げる。
「必要があれば、する。女が望むなら、なおさらだ」
左の女が視線を伏せ、すぐに上げた。目が冷える瞬間がある女だ。だが今は、その冷えが薄く溶けている。
「望む、という言葉は便利ね。女が先に言ったことにしてしまえる」
「便利だから使う。誰も傷つかないように見える。だが、本当に傷つかないかどうかは、今夜のあなたが決める」
そこへ、肉の皿が運ばれ、杯が満たされた。脂が熱い香りを立て、葡萄酒が酸味を増す。周囲の男たちは笑い、ヘンリー3世は高い席から視線だけを投げている。見られている。見られているからこそ、危険が価値になる。
◇ ◇ ◇
右にいたのは、マルフリート・ファン・ベルゲン〈33〉だ。ゼーラント沿岸の家の出で、嫁ぎ先はブレダ近郊に所領を持つ騎士家である。港の船主と倉の番頭に顔が利き、帳面も読める。笑う時ほど声を落とす女だ。
左にいたのは、アドリアーナ・ファン・ララーン〈28〉だ。南方の名家の血を引き、夫は宮廷の書類に近い職にいる。税や関税の話が日常に混じる家で育った。上品な笑みのまま、相手の嘘を削ぐ。
ディエゴは2人に同じ贈り物を出した。差をつければ、女の目が鋭くなる。鋭い目は使いどころがあるが、今夜は別だ。今夜は、同格の扱いで2人とも手元へ寄せる。
贈ったのは大きな翡翠のペンダントである。石は深い緑で、灯を受けると表面の奥に薄い雲のような模様が動く。縁は純金で飾り、細い金線で石を抱くように留めてある。鎖も純金で、指に掛けると冷たく重い。木箱の蓋を開けると赤い布が敷かれ、乾いた木の香りがふっと立った。
ディエゴはまずマルフリートに差し出した。彼女は顔を崩さず、だが指先だけが赤布の上を静かに走った。石の輪郭を確かめる手つきが速い。目利きだ。
「港の女王に、港の色を贈る。飾りだが、飾りは噂を連れてくる。あなたが身につければ、誰もが聞く。誰が贈った、どこから来た、いくらの品だと」
マルフリートは箱を閉じずに言った。
「噂は勝手に走る。でも、走らせる人間がいる。あなたは、私にその役をやらせたいのね」
「やらせたい。だが、ただ働きはさせない」
「私が喜ぶのは、宝石の値段だけじゃない。分かっている?」
彼女はそこで、初めて笑った。笑いは小さい。だが目が濡れたように光る。夫の席が背にある女の笑いだ。軽くはならない。
ディエゴはペンダントを取り出し、鎖を指に掛けた。金が冷たく、指先の汗を吸う。
「分かっている。あなたは、自分がまだ女でいると確かめたい。女として扱われるのが、久しぶりだ」
マルフリートの肩がわずかに揺れた。怒りではない。息だ。彼女は椅子の背にもたれず、背筋を立てたまま言った。
「言い方が上手ね。そういうの、誰に教わったの」
「海に教わった。海では、欲しい物は口に出さないと手に入らない」
彼女は翡翠を胸元へ当て、少し困ったように首を傾げた。
「鎖が長いわ。私の手では、後ろの留め具に届かない」
周囲の侍女はすぐ動ける距離にいた。だが、マルフリートは侍女を見ない。ディエゴだけを見る。頼む相手を、最初から決めている目だ。
ディエゴは立ち上がり、彼女の背へ回った。香が強くなる。衣の奥の体温が、布越しに伝わる。彼は鎖を持ち上げ、指先で留め具を探した。首筋のうぶ毛が揺れ、息が少しだけ早くなった。
「動くな。針の穴より小さい」
「命令は好きよ。夫は命令してこない。私の前では立派な男でいることに疲れているの」
留め具がはまる音がした。金の軽い音だ。だがその音は、今夜の彼女にとって、金の音ではない。
マルフリートは翡翠を指で押さえ、鏡もないのに形を整えた。
「あなた、明るい場所で見ると、もっと怖い顔をするのかしら」
「明るい場所では、もっと用心する。怖い顔をする必要がない」
「では、暗い場所では?」
ディエゴは彼女の耳元へ顔を寄せ、声を落とした。
「暗い場所では、用心を半分にする。その代わり、相手をよく見る」
マルフリートは息を吐き、すぐに整えた声で言った。
「明後日の昼、私の名で運河沿いの倉を見せるわ。あなたが港へ物を流すなら、倉を見るのは理にかなう。夫にもそう言える」
ディエゴは頷いた。
「倉なら行く」
「倉の奥に、小さな部屋がある。帳面を広げられる机もある。そこは、番頭が昼寝をする場所。番頭の昼寝の時間を、私が知っている」
彼女は笑って杯を持った。笑いの中に、約束が入っている。見せるのは倉ではない。倉に隠れる時間だ。
◇ ◇ ◇
次にディエゴは、アドリアーナへ同じ木箱を差し出した。彼女は蓋を開ける前に、箱の角を見た。仕事の粗を探す癖だ。それからゆっくり蓋を上げ、翡翠の緑を見た。目が細くなる。欲が動く時の目だが、欲の出し方が上品だ。
「新大陸の石ね。緑が深い。水の底みたい」
「水の底だ。引き上げた時の冷たさが残っている」
アドリアーナは翡翠に触れ、金の縁を爪でなぞった。かすかな音がした。彼女はその音を聞いてから、視線を上げた。
「あなたは、女に物を渡す時、必ず言葉も渡すのね。言葉のほうが高くつくこともあるのに」
「高くつくから渡す。高い物ほど、相手は簡単に捨てない」
彼女は笑みを崩さず、少しだけ首を傾けた。
「私を捨てないで、と言っているの?」
「あなたが先に捨てないなら、捨てない」
アドリアーナは一拍置いてから、木箱の蓋を閉じた。閉じる音が静かに響く。その静けさが、彼女の決意の形だった。
「私も鎖が届かないわ。侍女を呼べばいいのに、呼びたくない」
彼女は自分の手で髪を持ち上げ、首筋を見せた。見せる角度まで計算している。白い肌に灯が揺れ、香が熱を帯びる。
ディエゴは彼女の背へ回り、鎖を持った。金が冷たい。だが、彼女の首筋は温い。その温さが、危険の中身だ。夫のいる家で、夫の名を背負ったまま、別の男の指先を待つ温さである。
「指が震えていない。怖くないのか」
アドリアーナは、笑みのまま言った。
「怖いから震えないの。震えたら、負けだもの」
留め具がはまった。アドリアーナは翡翠を胸元へ落とし、指先で一度だけ押さえた。まるで鎖ではなく、自分の心を落ち着かせるように。
「これをつけて明日、夫の隣に座る。夫の友人たちが見る。誰が贈ったと聞く。私は答える。あなたが運んだ、と。あなたが動かした、と。そこまでは事実ね」
「事実だ」
「でも、事実だけでは足りない。女は、事実だけでは眠れない」
ディエゴは、彼女の肩越しに目を合わせた。
「眠れない夜は、俺が作ったのか」
「ええ。あなたが作った。だから、あなたが片づけて」
彼女は杯を持ち、周囲の笑い声に合わせて軽く笑った。だが、その笑いは周囲へ向けた仮面で、視線はディエゴから外れない。
「2日後の夕方、ブレダの教会の裏手に小さな庭がある。香草が植えてあって、昼の熱が夜まで残る。私は祈りに行くと言える。夫も疑わない」
ディエゴは即答しなかった。即答すると、安く見える。だが断れば、この女は冷える。冷えた女は敵になる。
「祈りの時間なら、行く」
「祈りのあと、馬車を回す。あなたの宿へは戻らない。私の名で借りた小さな家がある。外からは空き家に見える。中は火が使える。湯も沸かせる」
彼女はそこで初めて、翡翠に指を当て、わずかに息を吐いた。
「私は今夜、夫の隣で笑う。でも、あなたが私の首筋に触れた感触だけは、笑いの中で消えない」
ディエゴは杯を持ち上げ、アドリアーナへ目礼した。彼女の誘いは、金より危ない。危ないからこそ、価値がある。
◇ ◇ ◇
宴の終わりが近づくと、マルフリートは夫の席へ戻り、夫の耳元で何か囁いた。夫は笑い、頷いた。倉の見学は夫の面目も立つ。誰も疑わない形にしたのだ。
アドリアーナも同じだった。彼女は侍女に小さな合図を出し、侍女は別の侍女へ伝え、誰にも見えない速さで手配が進む。夫が気づく前に、祈りの予定が帳面に書き込まれる。
ディエゴは高い席のヘンリー3世へ視線を送った。ヘンリー3世は杯を揺らし、笑っている。笑っているが、見ている。今夜、ディエゴが手に入れたのは翡翠の緑だけではない。女たちの時間と、女たちが動かす家の影である。
翌々日の夕方は教会裏の庭。明後日の昼は運河沿いの倉。日を分けたのは女たちの判断だ。ぶつければ互いが損をする。ずらして、どちらも勝ちを取りに来る。既婚の女は、欲しい物を欲しいと言うだけで終わらない。欲しい物が手に入る形を先に作ってから、笑って手を伸ばす。
ディエゴはその手を、拒まなかった。拒まず、握り返す握り方だけを選んだ。




