第二章 ~『両親との別れ』~
「お嬢様、馬車の準備が整ったとのことです」
マリナの声に、ヴィオラは窓辺から顔を上げる。
荷物はすでに運び出され、部屋には机と椅子、寝台、それから空になった棚だけが残っている。先ほどまで書物が並んでいた場所には薄い跡が残っており、ヴィオラがここで暮らしていた時間を名残として留めていた。
「行きましょうか……」
「はい、お嬢様」
ヴィオラは扉へ向かう前に一度だけ室内を見回す。
もう、この部屋に戻ってくることはない。
そう胸の内で確かめると、ヴィオラは背筋を伸ばし、マリナと共に玄関ホールへ向かう。
辿り着くと、開け放たれた扉の向こうに黒塗りの馬車が待っていた。車体に掲げられたグランヴィル辺境伯家の紋章は日の光を受けて輝いている。
「ヴィオラ、準備は済んだのか?」
玄関ホールで待っていたグレアムが声をかけてくる。父として娘を送り出す顔ではなく、貴族の令嬢として恥ずかしくないかを見定める当主の顔だった。
「はい、お父様。すべて終わっております」
「グランヴィル辺境伯家でも、アステリアス家の娘として恥ずかしくないように振る舞いなさい。お前の態度ひとつで、我が家の評判も左右されるのだからな」
別れの時まで父が口にするのは、ヴィオラが新しい土地でどう暮らすかではなく、アステリアス家の評判だった。
ヴィオラは一度だけ息を吸い、まっすぐグレアムを見る。
「……最後まで家のことしか、お考えにならないのですね」
「何だとっ!」
グレアムの眉間に深い皺が刻まれる。
これまでなら、ヴィオラはすぐに頭を下げ、父の機嫌を損ねない言葉を選んでいた。だが、今日だけは違った。ここを出ていく前に、胸の奥に残っていたものを置いていくと決めていた。
「ご安心ください。グランヴィル辺境伯家のためにも、ご迷惑をおかけするような振る舞いはいたしませんから」
ヴィオラが礼をすると、グレアムは口を開きかけたものの、すぐには言葉が出てこなかった。
その隣で、イザベラが取り繕うように一歩近づいてくる。
「ヴィオラ、あちらへ行っても、ノエルのことを忘れないでちょうだい。あの子はあなたと違って繊細なのよ。何かあれば、姉として支えてあげてね」
ヴィオラは、今度は母へ向き直る。
ノエルの名を口にする時だけ柔らかくなる声。心配そうに寄せられた眉。けれど、その視線がヴィオラ自身を案じるために向けられたことはなかった。
「お母様の中には、ノエルしかいないのですね……」
「ヴィオラ?」
イザベラの笑みが固まる。
「私は、私なりに姉として務めを果たしてまいりました。ですが、それも本日で終わりです」
ヴィオラはそれ以上続けず、ただ頭を下げた。言葉を重ねれば、母はきっとまたノエルの弱さを語るだろう。だからもう、聞く必要はなかった。
ヴィオラは両親に一礼し、玄関ホールから外へ出る。馬車の傍には、ノエルの姿があった。白いハンカチを胸元で握り、潤んだ瞳でヴィオラを見上げている。
「お姉様……」
これまでのヴィオラなら、妹を安心させる言葉を返していた。優しく抱きしめ、気にしなくていいと笑い、ノエルが望む姉の姿を最後まで演じていただろう。
だが、ヴィオラはもう同じことを繰り返さない。
「これからは、ご自分の力で幸せになってください」
ノエルの唇が、ほんの一瞬だけ止まる。
慰められると思っていたのか、許されると思っていたのか。ノエルは何かを言おうとして、結局、ハンカチを握る指に力を込めただけだった。
ヴィオラは視線を外し、周囲を見渡す。
(セドリック様は……いらっしゃいませんね)
彼はこの場に現れなかった。その不在を知っても、ヴィオラの胸は痛まない。むしろ、すでに終わった縁なのだと、はっきりと自覚できた気がした。
「ヴィオラ嬢」
声がかかり、ヴィオラが振り向くと、アレクシスが乗降口の前に立っていた。
「アレクシス様、お待たせいたしました」
「こちらの準備も、いま終わったところだ」
馬車の乗降口に立つアレクシスの姿に気づき、玄関ホールにいたイザベラはすぐに背筋を伸ばした。グレアムも慌てて表情を取り繕い、近くまで歩み出る。
「辺境伯閣下、娘をどうぞよろしくお願いいたします」
「お預かりする以上、大切に扱う。だが飾っておくつもりはない。彼女には、私の隣で能力を発揮してもらうからな」
アレクシスの言葉に、グレアムは一瞬だけ言葉を失った。
ヴィオラは彼らの反応を待たず、馬車の乗降口へ向かって歩き出した。乗り込む直前、階段の端に控えているマリナの姿が目に入った。
「マリナ」
名を呼ぶと、マリナは一歩だけ前へ出る。使用人としての立場を守り、決して近づきすぎない。
「お嬢様、どうかお元気で」
「マリナも、達者で暮らしてください」
ヴィオラがそう告げると、マリナは深く頭を下げた。ヴィオラは胸の奥に残る温かさを抱えたまま、アレクシスの手を借りて馬車へ乗り込む。
扉が閉まると、外の声が一段遠ざかる。
御者の合図に馬が歩き出し、車輪が石畳を踏む音が玄関前に響く。窓の外では屋敷の門が少しずつ離れていく。
やがて、屋敷を出てから、数十分ほどが過ぎた。馬車の中には、車輪が道を踏む音だけが響いている。
向かいに座ったアレクシスが、ヴィオラの手元へ視線を向ける。彼の瞳には気遣うような感情が浮かんでいた。
「寂しいのなら無理をしなくていい」
「お気遣いありがとうございます。でも、無理はしていませんから」
「それならいいが……」
「アレクシス様は、私が泣くと思っていらっしゃいましたか?」
「ああ、もし涙を零すなら慰める覚悟はできていた」
「ふふ、ずいぶん備えがよろしいのですね」
「想定には事前に備える主義でな。令嬢の涙に慣れているわけではないが、心構えくらいはできる」
真面目な顔で言われ、ヴィオラは笑みを零す。張りつめていた空気が、ほんの少し緩んだ。
(アレクシス様は不器用ですが、優しい人ですね)
改めて、この人を選んで良かったと実感していると、やがて石畳を叩く音が土の道を踏む響きに変わった。
王都を囲む城壁が窓の向こうで少しずつ遠ざかり、畑の続く道が見えてくる。麦畑が風に揺れ、遠くでは農夫たちが馬を引いていた。
「王都を出るのは久しぶりか?」
「はい。ここから長いのですか?」
「長旅になる。疲れたら遠慮なく言ってくれ。休憩の予定は組んであるが、無理をさせるつもりはない」
「ありがとうございます」
ヴィオラがそう答えると、アレクシスは少しだけ目元を和らげた。
「グランヴィル辺境伯領は、王都とはまるで違う」
アレクシスは窓の外へ視線を向けながら、話題を変えた。ヴィオラの気持ちが少し落ち着くのを待っていたような、穏やかな間だった。
「魔物が多いと聞いています」
「山道を下りて畑を荒らすものもいれば、街道を狙って商隊を襲うものもいる。だから騎士団は常に動いているし、討伐隊も領内の各地で大忙しだ」
淡々とした口調だったが、語られる内容は穏やかではない。ヴィオラは聞き逃さないようにアレクシスの言葉を待った。
「危険な土地ではあるが、その危険に支えられている面もある」
「魔物に、ですか?」
「討伐で得られる素材だ。魔石、牙、皮、骨。職人にとっては価値のあるものばかりで、状態のいい素材は高値で取引される。グランヴィル辺境伯領は、魔物から領民を守りながら、その魔物から得たものを収益に変えているのだ」
アレクシスの声には、魔物への憎悪だけでなく、領を支えるものとして冷静に見つめる領主の視点があった。
恐れるだけでは民を守れず、利益だけを見れば人命を軽んじる。どちらにも傾かず、危険なものを危険なまま扱い、それでも領の糧に変えていく。その均衡を取る難しさを思うと、ヴィオラは自然と背筋を伸ばしていた。
「私は社交しか知りません。それでも、私に辺境伯夫人の役目が務まるでしょうか?」
アレクシスはすぐには答えなかった。馬車の揺れに合わせて、窓の外の景色が後ろへ流れていく。少し考えるように沈黙したあと、彼はまっすぐヴィオラを見た。
「分からないことを、分からないと言える者なら務まる」
「それだけですか?」
「それが難しい。知らないことを隠す者は判断を誤る。知らないと認められる者は、新しく覚えていける。ヴィオラ嬢は後者だ。そうだろ?」
「ふふ、でしたら、たくさん質問いたしますね」
「望むところだ」
真面目に答えるアレクシスの声に、ヴィオラの肩からも少し力が抜けるのだった。




