第二章 ~『マリナとのお別れ』~
要望をたくさん頂いたので、続きを書くことにしました
楽しんでいただけたら嬉しいです!
婚約が成立し、グランヴィル辺境伯家へ移ることが決まると、アステリアス伯爵家の空気は目に見えて変わった。
今までなら、屋敷の者たちはヴィオラの前を通るたび、どこか気まずそうに視線を伏せていた。
ノエルの用事があれば、ヴィオラが後回しにされることも珍しくなかった。それなのに今は、廊下で出会う使用人たちが慌てて壁際へ寄り、荷物を運ぶ手つきまで、急に丁重になっている。
「こちらの荷物を、馬車まで運んでください」
「かしこまりました、ヴィオラ様」
少し前までの態度を思えば、過剰なほどに丁寧な返事だった。
使用人が荷物を抱えて廊下を去るのを見送ってから、ヴィオラは私室へ戻る。
机の上に広げていた手紙や書物、帳面を確認し、持っていく物を選び分けていく。胸の内に怒りはない。今さら大切にされているのだと勘違いするほど、彼女はこの家に期待していないからだ。
彼らが丁重に扱っているのは、ヴィオラ自身ではない。
グランヴィル辺境伯家へ迎え入れられる令嬢。辺境伯アレクシスの婚約者となる女。その肩書きが、彼らを動かしているだけだ。
「お嬢様、こちらのドレスはお持ちになりますか?」
背後から声がして、ヴィオラは振り返った。
侍女のマリナが、淡い青のドレスを両手で広げている。王都の夜会で何度か袖を通したものだ。
「持っていきます。グランヴィル家でも使えるでしょうから」
「では、衣装箱に入れておきます」
マリナは頷くと、寝台の端にドレスを広げ、裾をそろえる。
いつもなら、支度の合間に流行の飾りや新しい仕立ての話をしてくれたが、今日は手際よくドレスを畳むばかりで、必要なこと以外は口にしなかった。
「マリナ、急ぎませんから、少し休みましょうか」
「いえ、まだ畳むものが残っておりますので」
「それは後でも大丈夫ですよ。急いで畳まなくても、ドレスは逃げませんから」
少し冗談めかして言うと、マリナはようやく顔を上げた。笑おうとしたのだろうが、口元がわずかに動いて、すぐに俯いてしまう。
「こうして荷物をまとめていると、本当にお傍を離れるのだと実感してしまって……お嬢様の門出なのに、申し訳ございません……」
「マリナ……」
「本心では、これからもずっとお仕えしたいです」
その一言を口にした瞬間、マリナは目を伏せた。言ってしまったことを悔いるように、肩がわずかに縮こまる。
「ですが、私はアステリアス家に雇われております。両親もこの近くにおりますし、私の一存でお嬢様についていくことはできません」
「分かっています。あなたには、あなたの暮らしがありますから」
マリナは黙り込む。畳みかけのドレスを押さえる指先に力が入った。
「私はお嬢様に何もできませんでした……セドリック様がノエル様を優先なさった時も、旦那様や奥様がお嬢様のお気持ちを見ようとなさらなかった時も……本当はもっと何かできたのではないかと……何度も後悔しました」
部屋の外では、使用人たちが慌ただしく動いている。荷物を運ぶ足音が遠ざかるたび、ヴィオラがこの屋敷を出る時が近づいていた。
マリナは、畳みかけのドレスに視線を落とす。
「それなのに、私は……」
「マリナが私のことで自分を責める必要はありません」
「ですが!」
「セドリック様に約束を破られた日、あなたは温かいお茶を運んでくれました。家族の誰も私の言葉を聞こうとしなかった時も、あなたは何も聞かずにそばにいてくれました。あなたがいてくれたから、私は孤独じゃなかったんです」
そう言い切ると、ヴィオラは、荷物の収まった衣装箱へ視線を移した。
「セドリック様への未練はありませんし、ノエルに奪われたものを取り返したいとも思っていません。ですが、この家で過ごした時間のすべてを、なかったことにするつもりはありません。あなたがそばにいてくれたことを忘れたりしませんから」
「本当にお嬢様は、お優しい方ですね……」
マリナは胸元に手を当て、ゆっくりと頷く。
「どうか、今度こそ、ご自分のために幸せになってください」
「はい、お約束します」
ヴィオラはほんの少し肩の力を抜き、笑みを零す。
荷造りはその後も続いた。
必要なものを箱に収め、不要なものを処分していく。荷造りが進むたびにヴィオラの部屋は少しずつ彼女の部屋ではなくなっていった。
やがて、夕刻になり、最後の箱が閉じられる。
マリナは扉のそばで深く礼をした。
「出立までの準備に不足がないか、もう一度確認してまいります」
「ありがとうございます、マリナ」
彼女が部屋を出ていくと、ヴィオラは机の上に残していた手紙を取り、荷箱の一番上に置いた。
蓋を閉じる前に、もう一度だけ部屋の中を見渡す。
この部屋を出ると、自分はもうアステリアス家で我慢するだけの娘ではなくなる。
ヴィオラは箱の蓋を下ろし、留め具を掛ける。金具の音が、空になりつつある部屋に響くのだった。




