第四章 ~『エレーナの過去』~
ハーヴェル子爵への返書を書き終えると、ヴィオラは執務室から自室へ戻った。
部屋に入ると、エレーナが寝台の布を直しているところだった。ぴんと張られた布に皺はなく、枕の位置もきっちり揃えられている。
「お帰りなさいませ、ヴィオラ様」
「ただいま戻りました。いつもありがとうございます」
「お気になさらず。当然の務めでございますから」
エレーナは短く答え、寝台から離れると、机の上に置いていた帳面を手に取った。夕方以降の予定や屋敷内の連絡事項をまとめたものだろう。ヴィオラが椅子に腰を下ろすより早く、彼女は必要な報告を始める。
「本日の夕食は、アレクシス様のご予定に合わせて少し遅らせるとのことです。それから、明日の朝に届く薬草の受け取りについて、担当の者を割り当てました」
ヴィオラが頷くと、エレーナは帳面の次の項目へ指を移した。
「それと、ロイド様とミレーユ様のご婚約についてですが、使用人たちにも正式に通達しておきます。ロイド様ご本人からも、屋敷内に知らせても構わないとの了承を得ております」
「……エレーナ様も、ご存じだったのですね」
「ええ。ロイド様とは、騎士団の備品や負傷者の受け入れなどで話す機会が多くございますので」
ロイドもエレーナも、軽い世間話で距離を縮めるような性格ではない。だからこそ、似た者同士、気が合うのかもしれない。
「ミレーユ様はご結婚後も商会のお仕事を続けられるそうですが、この屋敷では、結婚後も務めを続ける方は多いのですか?」
「職務や相手方の事情によりますね。住み込みの侍女は難しい場合もございますが、通いで務めを続ける者もおります」
「そうなのですね」
ヴィオラは頷き、それからふとエレーナへ視線を向けた。
「エレーナ様は?」
「私は独身です。侍女長としての務めがございますので」
「そうですか……」
ヴィオラは頷いたが、その返答に違和感を覚えた。
エレーナは、結婚に興味がないと口にしなかった。ただ、自分の役目を理由にして、諦めているかのようだった。
「もし相手がいれば、結婚を望みますか?」
「それは……」
エレーナはわずかに目を伏せ、すぐに帳面を胸元へ抱え直した。否定するための言葉を探したのかもしれない。だが、口にしたのは別の言葉だった。
「結婚を望んでいないわけではございません。ただ……」
「ただ?」
「いえ、実は、過去に一度だけ、縁談のお話をいただいたことがございまして……その相手の方は、悪い方ではございませんでした。家柄も悪くなく、周囲からは良いご縁だと言われておりました」
「それで、その方とは……」
「お断りされてしまいました。私と話していると妻というより、上官のように思えてしまったそうです」
エレーナは、まるで過去の記録を読み上げるように淡々と告げる。ヴィオラはすぐに慰めの言葉を返さず、彼女が続きを話せるだけの間を残した。
「相手の方に、私を傷つける意図はなかったのだと思います。ただ、もっと柔らかく、自分を立ててくれる女性を望んでいただけなのでしょう」
「それで、エレーナ様は……」
「はい、結婚には向かないのだと結論付けました」
断定するような口振りだった。一度の縁談の失敗を、エレーナは自分自身への評価として受け入れてしまったのだ。
「エレーナ様は、ご自分の厳しさを欠点だと思っているのですね」
「事実でございます」
「私はそうは思いません。エレーナ様の厳しさは、誠実さの表れでもありますから。あなたの人柄に助けられた方も、この屋敷には大勢いるはずです」
「ヴィオラ様はお優しいですね……もし、あなたが殿方なら、私も結婚を考えていたかもしれません」
軽い冗談として口にされた言葉だった。だが、ヴィオラはその奥に、完全には捨てきれていない望みを見た気がした。
「失礼いたしました。私事を長々とお話ししてしまいましたね」
「私が尋ねたのですから、謝らないでください」
「ありがとうございます。では、私は引き続き仕事がございますので、これで失礼します」
エレーナは深く一礼し、いつもの侍女長の顔に戻って部屋を出ていく。背筋はまっすぐ伸びているのに、その後ろ姿には、誰にも頼らず歩くことに慣れてしまった寂しさが滲んでいたのだった。




