第三章 ~『解消された誤解』~
ロイドとの話を終えたその日のうちに、ヴィオラはミレーユへ手紙を書いた。
だが、結果は芳しくなかった。
最初に届いた返事は、丁寧な断りの文面だった。面識のない相手から、突然、縁談に関わる手紙が届いたのだ。ミレーユが警戒するのも無理はない。
無理に会おうとすれば、かえって彼女を頑なにしてしまう。そう判断したヴィオラは、新しい便箋を取り出した。
次に書いた手紙では、縁談を進めるためではなく、互いの話を整理するために会いたいのだと伝えた。
ロイドを選ぶべきだとも、断るべきではないとも書かない。ただ、ミレーユ自身が何を望んでいるのかを聞かせてほしいと、できるだけ誤解の余地がないよう言葉を選んだ。
数日後、再び届いた手紙には、面会を承諾する旨が記されていた。
そして約束の日、ミレーユはグランヴィル家を訪れた。
知らせを受けたヴィオラが応接室へ向かうと、ミレーユはすでに席についていた。扉のそばには、彼女を案内したエレーナが控えている。
「お待たせしましたか?」
「いいえ。私の方こそ、一度はお呼び出しをお断りしてしまい、失礼いたしました」
立ち上がって礼をしたミレーユは、華やかさで人目を引く令嬢ではなかった。
だが、身にまとう青のドレスは上質で、余計な飾りを控えた装いには、商会長の娘らしい堅実さと品がある。
「お越しいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」
「失礼いたします」
二人が向かい合って座る。
テーブルの上には、すでに紅茶と焼き菓子が用意されていた。どれも、ミレーユを迎えるためにエレーナが先に用意しておいたものだ。
だが、ミレーユの手は膝の上で重ねられたままだ。視線は一度だけカップへ向いたものの、触れようとはしない。
「ミレーユ様、最初に、はっきり申し上げておきます。私は今日、ロイド様との縁談を無理に進めるために、あなたをお呼びしたわけではありません」
「……本当ですか?」
「はい。結婚は、どちらか一方が納得しないまま進めてよいものではありません。私は、あなたがどう感じているかを知りたいだけなのです」
ヴィオラがそう言うと、ミレーユはしばらく彼女の顔を見つめていた。言葉の裏を探っているのだろう。
だが、ヴィオラが急かさず待っていると、ミレーユはようやく膝の上で重ねていた手をほどいた。
「……ロイド様を、嫌っているわけではありません。真面目で、誠実な方だとは思っています。父も、騎士団の方々も、皆が信頼できる方だと褒めていましたから」
ミレーユはそこで一度、カップへ視線を向けた。だが、まだ手は伸ばさない。
「ただ、縁談の席で言われた言葉が、どうしても引っかかってしまって……」
「『結婚後は働かなくてよい』というお言葉ですね」
「ヴィオラ様もご存じだったのですね」
「ロイド様から伺いました。あの方は、あなたを安心させるつもりだったようです」
ヴィオラの言葉を受けて、ミレーユは初めてカップに手を伸ばす。ただ、飲むためではなく、指先で取っ手に触れただけだった。
「私は商会の仕事が好きなのです。働く人たちも、私をベルナール商会の長の娘ではなく、仕事を任せられる一人の働き手として扱ってくれています」
「それを結婚したら手放さなければならない。そう思われたのですね?」
「はい」
ミレーユはようやくカップを持ち上げ、紅茶を一口含んだ。
「私は守られて暮らすだけの生活を望んでいません。もちろん、家庭を軽んじるつもりはありませんが、商会で得た知識や人脈を何もかも置いていくのは……」
前世の結婚相談所でも、同じような相談はあった。相手に悪気はない。むしろ優しさのつもりで言っている。だが、その優しさが、本人の生き方や誇りを奪う形になれば、受け取る側は安心できない。
「ミレーユ様は、結婚後も商会で働けるなら、ロイド様との縁談を前向きに考えますか?」
「そうですね……もし、私の仕事を理解してくださるなら、もう一度お話ししたいと思います」
「それなら話が早いですね。事前にロイド様からは、商会の仕事を続けても構わないと了承を得ています」
「本当ですか?」
「はい。私がこの耳で聞きましたから。間違いありません」
ミレーユはカップを受け皿に戻し、膝の上で指を重ね直した。先ほどよりも、その手の力は抜けていた。
「実は、縁談の話を貰った時、本当は嬉しかったのです。ロイド様のことは、以前から存じておりましたから」
「そうなのですか?」
「はい、騎士団の備品を納める時、商会の者たちがよく話していたのです。あの方は、下の者の報告も最後まで聞いてくださり、無茶な納期を押しつけたりもしないと」
ミレーユの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「だからロイド様との縁談と聞いた時は……本心では、嬉しかったのです」
小さくこぼれたその言葉に、ヴィオラは頷いた。
ミレーユはロイドを拒みたいわけではない。ただ、自分の大切にしているものを理解されないまま結婚することを恐れていたのだ。
ならば、必要なのは説得ではない。
もう一度、二人が向き合う場を作ることだった。
「では、ロイド様をこちらへお呼びしてもよろしいですか?」
ヴィオラが尋ねると、ミレーユは迷うように唇を閉じてから、ゆっくりと頷いた。
「……お願いいたします」
ミレーユが頷くと、ヴィオラは扉のそばに控えていたエレーナへ視線を向けた。それだけで意図を汲んだエレーナが、一礼する。
「ロイド様をお呼びしてまいります」
エレーナが応接室を出ていく。
扉が閉まると、室内にはしばらく紅茶の香りだけが残った。ミレーユは落ち着かない様子でカップの縁に指を添えていたが、先ほどのように固く身構えてはいない。
ヴィオラはその変化を確かめ、あえて急かさず待つことにした。
「緊張なさっていますか?」
「はい。少し」
「ロイド様も、きっと同じです」
「想像がつきません」
「表には出にくい方ですが、真剣に悩んでいらっしゃいました」
ミレーユはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
やがて扉が叩かれ、エレーナに案内されてロイドが足を踏み入れる。
「失礼いたします」
ロイドは相変わらず隙のない礼をした。礼の角度も、足を止める位置も乱れない。だが、顔を上げてミレーユの姿を認めた瞬間、その動きがほんのわずかに止まった。
「ロイド様。急にお呼びして申し訳ありません」
「いえ、私のためにしていただいていることですから」
ロイドがそう答えると、ミレーユへ向き直った。
「ミレーユ嬢。先日は、私の言葉であなたを不安にさせてしまいました。まず、そのことを謝罪させてください」
ミレーユは驚いたように目を開く。ロイドは姿勢を崩さないまま、まっすぐに彼女へと向き直る。
「私は、自分にあなたを養う力があると伝えることで、あなたを縛りたかったわけではありません。無理をしなくてもよいのだと、そう伝えたかったのです」
そこで一度、ロイドは言葉を切った。
「ですが、あなたには別の意味で届いてしまった。だとすれば、それは私の言葉が足りなかったのだと思います」
「ロイド様……」
ミレーユはしばらくロイドを見つめていた。謝罪の言葉に偽りがないことは分かる。けれど、それだけで自分の不安がすべて消えたわけではない。だからこそ、今度は彼女自身の言葉で伝えなければならない。
「私もロイド様のお言葉を一方的に悪く受け取りすぎていました……ですが、私は商会の仕事をやめたくありません。王都にも、辺境にも、安心して品を届けられる商会を作るのが私の夢ですから」
ロイドは口を挟まなかった。ミレーユが自分の言葉で話し終えるまで、ただ正面から向き合っていた。
「だから、ロイド様の妻になることが、私の夢を諦めることになるのなら……前向きには考えられません」
言い終えたミレーユは、わずかに息を詰めた。拒まれることを覚悟していたのかもしれない。
だが、ロイドはすぐに首を横に振った。
「安心してください。私は、あなたが大切にしているものを奪ってまで、妻になってほしいわけではありません」
ロイドは一度言葉を切り、真正面からミレーユを見た。
「むしろ、商会の仕事に誇りを持つあなたを、心から尊敬しております」
ミレーユは言葉を失ったようにロイドを見つめた。
ヴィオラはそこで口を挟まず、二人の間に生まれた沈黙をそのまま見守る。先ほどまで張りつめていた空気に変化が生じていく。
「ロイド様……」
「はい」
「……父と相談したうえで、前向きに検討させていただきます」
その瞬間、ロイドの表情が変わった。
硬く引き結ばれていた口元がほどけ、目元に素直な喜びが浮かぶ。満面の笑みというには控えめかもしれないが、これまでのロイドを知る者なら、十分すぎるほど分かりやすい変化だった。
「ありがとうございます。あなたに後悔させないように努めます」
低い声に、隠しきれない安堵が混じる。ミレーユはその顔を見て、少し驚いたように瞬きをする。
「ロイド様もそのようなお顔をするのですね」
「そ、それは、お見苦しいものを……」
ロイドはそう言って姿勢を正したが、赤くなった耳だけはどうにもならなかった。
「いいえ。とても、よろしいと思います」
ミレーユがそう返すと、ロイドはさらに言葉に詰まる。
そのやり取りを見守りながら、ヴィオラは冷めかけた紅茶へ手を伸ばした。まだ縁談が決まったわけではない。だが、二人の間にあった固い扉は、確かに少し開いたのだった。




