第三章 ~『ミレーユからの話』~
「ロイド、ここから先はヴィオラ嬢に任せる」
訓練場から談話室の前まで二人を案内したアレクシスは、扉に手をかけることなく、その場で足を止めた。
中へ入るつもりはないのだと分かり、ロイドの肩がわずかに強張る。
「辺境伯様は同席されないのですか」
「私がいれば、お前は堅苦しい話しかしないだろう」
アレクシスの指摘に、ロイドはすぐ反論しようとした。だが、開きかけた唇は途中で止まる。
「ヴィオラ嬢は、私が見込んだ相手だ。正直に話せ」
「……承知しました」
ロイドが短く答えると、アレクシスはそれ以上言葉を重ねず、今度はヴィオラへ視線を向けた。
「頼んだぞ」
「お任せください」
ヴィオラが応えると、アレクシスは満足そうに廊下の先へ歩き出す。残された二人の間に、わずかな沈黙が広がる中、先に動いたのはヴィオラだった。
「では、参りましょうか」
「はい」
二人は談話室へ足を踏み入れる。
室内には、すでに紅茶の支度が整えられていた。磨かれたテーブルの上にはカップが並び、窓辺から差し込む光が淡く照らしている。
部屋の隅には、支度を終えた使用人が控えていた。
「ロイド様、どうぞ、おかけください」
「失礼いたします」
ロイドは椅子の前で足を止め、ヴィオラが席に着くのを待ってから腰を下ろした。動きに無駄はないが、くつろぐために椅子に座るというより、報告の場に臨む姿勢に近い。
「紅茶をいただけますか」
ヴィオラがそう告げると、控えていた使用人が二人のカップに紅茶を注ぐ。そして、これから大切な話をすると察したのか、一礼して廊下へと下がった。
その背中を見送ってから、ロイドはカップを手にする。香りを確かめるでもなく、作法通りに口をつけて、すぐに受け皿へ戻した。
紅茶で緊張をほぐすつもりだったが、この様子では、あまり効果はなさそうだった。
「ロイド様、少しは落ち着かれましたか?」
「はい。問題ありません」
そう言いながら、ロイドの背筋はますます伸びたように見えた。ヴィオラはカップを受け皿に戻し、張りつめた空気をほどくようにロイドへ顔を向ける。
「では、さっそく、ミレーユ様とのお話を詳しく聞かせてください」
「縁談の席では、差し障りのない話をしました。その上で、ミレーユ嬢を幸せにしたいとお伝えしました」
「幸せに、ですか……」
「はい。騎士団長の妻となれば、生活に困ることはありません。商会の仕事は忙しく、責任も重いと聞いておりましたので……結婚後は無理に続けなくてもよいと……」
ヴィオラはすぐには口を挟まなかった。ロイドの言葉に悪意はなく、むしろ彼は、本気でミレーユの負担を減らそうとしたのだろう。
騎士団長として十分な収入があり、穏やかに暮らせる環境を用意できる。それを示せば、相手を安心させられると考えたのだ。
「それが、ロイド様にとっての優しさだったのですね」
「……何かまずかったでしょうか?」
「いえ。ただ、ミレーユ様がお仕事に誇りを持っている方なら、『働かなくてもよい』という言葉は、誤解されてしまうのではと思いまして……」
「誤解ですか……」
「『あなたの仕事は、結婚後には必要ない』。そういう意味に受け取られてしまった可能性があります」
「それは……」
ロイドは言葉を飲み込んだ。すぐに否定しなかったのは、縁談の席でのミレーユの表情から心当たりがあったからだろう。
ヴィオラは、その沈黙を確かめてから、もう一つ尋ねた。
「ロイド様は、本心からミレーユ様と結婚したいとお考えなのですか?」
「はい。それは間違いありません」
「領地のためではなく、ですか?」
「はい、私個人の気持ちとして、そう望んでおります」
きっぱりとした返答に、ヴィオラはわずかに目を見開いた。
ロイドは、領地の利だけで縁談に臨んでいるわけではない。ならば、その気持ちがどこから来たのかを確かめる必要があった。
「ですが、縁談の席が初対面だったのではありませんか?」
「いえ。ミレーユ嬢のことは、縁談の前から存じておりました」
ロイドは少しだけ言葉を切る。
テーブルの上のカップではなく、少し先の一点へ視線を置く。初めて会った相手を条件だけで選んだのではないと、記憶の中に残る場面を確かめるように、彼は続けた。
「騎士団の仕事で、商会へ備品の買い付けに行ったことがあります。その時、荷運びの少年が箱を落とし、中の商品が床に散らばりました」
ロイドはそこで少しだけ言葉を切った。
「急ぎの品でしたし、商品を落としたのですから、周囲の者が少年を叱ったのも無理はありません。ですが、ミレーユ嬢は違いました。まず少年のそばへ行き、怪我をしていないかを確かめたのです」
ヴィオラは黙って耳を傾ける。
「その時、ミレーユ嬢は少年にこう言いました。『商品は替えが利きます。ですが、あなたに代わりはいません。まずは怪我をしていないか見せなさい』と。商会の娘として、品物を軽んじたわけではありません。けれど、品物より先に人を思いやれる方なのだと思いました」
飾り気のない言葉だった。だからこそロイドがその場面を鮮明に覚えていたことが伝わってくる。
「それを、ミレーユ様にはお伝えしましたか?」
「伝えておりません……買い付けの場での行動を覚えていたと伝えれば、不快に思われるのではと思ったので……」
彼はミレーユを軽んじていたわけではない。むしろ、彼女の仕事ぶりを見て、人柄を評価していた。だがその大切な部分を本人には伝えず、結婚後は働かなくてよいと告げてしまった。
それでは、ミレーユから見れば、自分の仕事を知らないまま遠ざけようとしている男性に映ってもおかしくない。
「もしミレーユ様に誤解されているなら、それを解かないといけませんね」
「仰る通りです。ですが、何からお伝えすればよいのか……正直、分かっておりません」
「でしたら、私がミレーユ様とお話ししてみます」
ロイドの目がわずかに見開かれる。
「ヴィオラ様がですか?」
「同じ女性だからこそ、ロイド様の前では言いにくかったことを話してくださるかもしれません。ロイド様の言葉をどう受け取ったのか。商会の仕事をどう考えていらっしゃるのか。まずは聞いてみます」
「しかし、それではヴィオラ様にご負担が……」
「これは、私に任された初仕事ですから。お気になさらないでください」
ヴィオラは紅茶のカップを手に取り、まだ温かさの残る茶を一口含んだ。訓練場の熱とは違う穏やかな温度が、胸の奥へ広がっていくのだった。




