幕間 ~『イザベラとノエル』~
『イザベラ視点』
イザベラの私室では、ノエルが長椅子に腰かけ、白いハンカチを両手で握りしめていた。
「お母様……私、もうどうすればいいのか分かりませんわ!」
イザベラは隣へ腰を下ろし、いつものように娘の肩へ手を添える。机の上の紅茶はすっかり冷めていた。
侍女が新しい紅茶を用意しようとした時も、ノエルは首を振るばかりで、カップには一度も手を伸ばしていなかった。
「ノエル、あなたは悪くないわ」
そう言えば、これまでのノエルなら、表情がすぐに和らいだ。
幼い頃からずっとそうだった。泣いているノエルを抱き寄せ、悪いのはあなたではないと言ってやれば、娘は安心したように母の胸に顔を埋めていた。
だが、今のノエルは涙を拭っても、すぐにまた唇を震わせる。
「セドリック様が酷いのです。『ヴィオラなら、こういう場面で迷わなかった』とおっしゃったのです。私だって一生懸命考えているのに、まるで役に立たないと言われているみたいで……」
「セドリック様も、悪気があったわけではないと思うわ。時間をかけて、少しずつ分かり合っていけばいいのよ」
「少しずつなんて……その間に、皆様に笑われてしまいますわ」
「誰もあなたを笑ったりしません」
「いいえ、笑っていましたわ。態度には出さなくても、心の中では馬鹿にしていたに違いありません」
ノエルの訴えは、この数日で何度も聞いたものだった。イザベラはそのたびに娘を慰めてきたが、具体的な解決方法までは思いつかなかった。
「お姉様がいれば……」
「ヴィオラは……もう、グランヴィル辺境伯家へ移ったのよ」
「でも、お姉様ですわ」
当然のように返され、イザベラは言葉を失う。
姉なのだから。家族なのだから。ノエルが困っているのだから。そう言えば、ヴィオラはいつも何とかしてくれた。
イザベラは、それを姉として当然の気遣いだと思っていた。だが、今こうしてノエルに泣かれても、自分には同じことができない。
「お母様からお願いしてくだされば、お姉様も聞いてくださるのではありませんか?」
ノエルが潤んだ瞳で見上げてくる。
イザベラは反射的に頷きかけ、すぐに唇を閉じた。
「……少し、待っていなさい」
そう告げて立ち上がると、イザベラは机へ向かった。引き出しから便箋を取り出し、羽根ペンにインクを含ませる。最初に何と書けばいいのか分からず、白い紙面を見つめたまま、しばらく手を動かせなかった。
元気にしていますか。
そう書こうとして、筆先が止まる。ヴィオラの新しい暮らしを案じる言葉が、すぐには出てこない。
結局、紙面に落ちたのは、別の文だった。
『ノエルが困っています』
イザベラはその一文を見つめ、続けて書く。
『セドリック様とのことで悩んでいるようです。姉として、少しだけ助けてあげてちょうだい』
そこまで書いたところで、指先が強張った。
便箋の上には、ヴィオラへの謝罪がなかった。遠い土地へ移った娘を気遣う言葉もない。あるのは、またノエルを助けてほしいという願いだけだった。
『お母様の中には、ノエルしかいないのですね……』
出立の日、ヴィオラが向けた声が耳の奥で蘇る。
あの時は、寂しさの裏返しだと思った。
妹を大切にする母に対して、姉であるヴィオラが少し拗ねただけなのだと。だが、今、紙面に並んだ文字を見ると、ヴィオラの言葉が正しいように感じられた。
「お母様」
背後から呼ばれ、イザベラは肩を揺らす。
振り返ると、ノエルが長椅子から立ち上がり、期待を込めた顔でこちらを見ている。
「お姉様にお願いしてくださるの?」
イザベラはすぐに返事ができなかった。頷けば、これまでと同じになる。ノエルが泣き、母が庇い、最後はヴィオラに頼り切る。そうして自分は、ノエルを守っているつもりでいただけなのかもしれない。
「ノエル、あなたも、少しは自分で考えなさい」
「……え?」
「セドリック様を選んだのはあなたでしょう。なら、困った時だけヴィオラに頼るのは違うわ」
言いながら、イザベラ自身の胸も痛む。こんな言葉をノエルに向けたことは、今まで一度もなかった。
ノエルは守られる子で、ヴィオラは支える子。その形を当たり前にしてきたのは、イザベラ自身だった。
「お母様まで、私を責めるのですか?」
「責めているのではありません。ただ――」
「酷いですわ!」
ノエルはハンカチを握りしめたまま身を翻した。扉へ向かう足音は普段より荒く、止める間もなく私室の扉が開く。
「ノエル!」
呼び止めても、娘は振り返らなかった。
扉が閉まる音が響き、イザベラは追いかけようと一歩踏み出す。だが、机の上に残された便箋が視界に入り、その足は動かなくなった。
そこに書かれているのは、ヴィオラへの謝罪ではない。
ただ、ノエルを助けてほしいという願いだけだった。




