幕間 ~『グレアムの後悔』~
『グレアム視点』
ヴィオラがグランヴィル辺境伯家へ向かってから、アステリアス伯爵家の書斎に届く手紙の数は、目に見えて減っていた。
グレアムは執務机の前に座り、執事が運んできた封書を見下ろす。
以前なら、茶会や夜会の招待状がいくつも重なり、返事の順を決めるだけでも時間を取られた。
だが今日は、季節の挨拶が二通と、商会からの報告が一通だけだった。
「これで全部か?」
「本日届いた分は、こちらのみでございます」
執事は深く頭を下げたまま答える。
グレアムは一通目の封を切り、文面へ目を走らせる。
季節の挨拶にしては、やけに短い。
以前なら最後に添えられていた茶会の誘いも、近々顔を合わせたいという社交辞令もない。
ただ、先日の夜会ではノエルが疲れていたようだと案じる一文と、セドリックの話しぶりがたいそう立派だったという、褒めているのか皮肉なのか判じがたい言葉だけが残されていた。
「ふん」
グレアムは手紙を机へ置き、次の封書を開いた。
次の手紙にも、似たような遠回しの言葉が並んでいたが、最後の一文がグレアムの目を留める。
そこには、『以前はヴィオラ嬢のお心配りに助けられておりました』という一文が添えられていた。ただそれだけの文章なのに、読み終えたグレアムの指先は、封筒の端をわずかに折っていた。
「旦那様?」
「何でもない」
短く答えたものの、胸の奥に引っかかったものは消えない。グレアムは椅子の背にもたれ、机の上に置かれた封書を睨む。
「招待状はどうした。来月の伯爵夫人の茶会は、例年ならそろそろ届く頃だろう」
「まだ届いておりません」
「侯爵家の夜会は」
「そちらも、まだ……」
執事の返答は淡々としていたが、それがかえって耳に障った。
グレアムは机を指先で叩き、しばらく考える。
セドリックとノエルの婚約は、公爵家との縁を保つためには悪くないはずだった。ヴィオラには不満もあっただろうが、家のために姉として譲らせた。それで丸く収まるはずだった。
だが、そうはなっていない。
ノエルとセドリックの評判が揺らげば、それはアステリアス伯爵家の評判にも跳ね返る。ノエルを婚約者として差し出したのは、他でもないこの家なのだから。
「ヴィオラの部屋は、今どうなっている」
「お荷物は運び出されましたが、机や棚はそのままにしております」
「確認する」
グレアムはそう言って立ち上がった。
廊下へ出ると、使用人たちは慌てて壁際へ寄る。
少し前までなら、ヴィオラの前でだけ伏せられていた視線が、今はグレアムの前でも硬くなっている。屋敷の中に漂う気まずさを振り払うように、彼は娘が使っていた部屋へ向かった。
扉を開けると、そこにはもう生活の気配が残っていなかった。
グレアムは机へ近づき、引き出しを開ける。
中には、何冊かの帳面が残されていた。持っていくほどではないと判断されたのか、あるいは古い記録として置いていったのか。表紙には年ごとの印がある。
「これは……」
何気なく一冊を開いた瞬間、グレアムの目が止まる。
そこには、夜会の出席者の名前が並んでいた。
ただの名簿ではない。細かな文字で、相手ごとの好みや注意点がびっしりと書き込まれている。
グレアムが別のページをめくると、贈答品の記録があった。
誰に何を贈ったか。相手の反応はどうだったか。次に贈るなら避けるべき品は何か。さらに別のページには、セドリックに伝える話題の候補までまとめられていた。
グレアムは、帳面を持つ手に力を込めた。
これは、ただの覚書ではない。
アステリアス家が社交の場で恥をかかず、セドリックが気配りのできる公爵家嫡男として振る舞えるよう、ヴィオラが一つずつ積み重ねてきた記録だった。
「あの娘が、これを……」
声に出した途端、胸の奥で何かが重く沈んだ。
家のために振る舞え。
評判を損なうな。
自分はそう言い続けてきた。ヴィオラに家の役に立つことを求め、ノエルのために譲ることを命じ、最後までアステリアス家の娘として恥ずかしくないようにと告げた。
その時、ヴィオラは何と言ったか。
『……最後まで家のことしか、お考えにならないのですね』
グレアムは帳面から視線を外せなかった。
あの時は、娘が父に逆らったのだと思った。家のために尽くす当然の務めを、感情で拒んだのだと。
だが違う。
家のことしか考えていなかったのはグレアム自身で、その家のことを誰よりも考えていたのは、他でもないヴィオラだった。
「旦那様、いかがなさいましたか」
扉の外から執事の声がする。
グレアムは返事をしようとして、喉が詰まった。手にした帳面を閉じても、中に書かれていた文字が頭から離れない。
招待状が減った理由も、今なら分かる。
ヴィオラがいなくなったことで、アステリアス家はようやく何を失ったのかを見せつけられているのだ。
「……何でもない」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
グレアムは帳面を机の上へ置く。だが、一度閉じたはずの表紙へ、視線は何度も戻ってしまう。
ヴィオラの貢献に気づいた時には、もう彼女はこの屋敷にはいなかった。




