第二章 ~『アレクシスの評価』~
割れた花器の片づけは、ほどなく終わった。エレーナは最後に床を確かめると、姿勢を正す。
「湯と軽食は、少し後にお持ちします」
「ありがとうございます」
「お疲れでしょうから、それまではお休みください。何かございましたら、いつでも、お申しつけくださいませ」
エレーナは深く礼をすると、部屋を出ていった。
扉が閉まる直前、彼女の視線が一度だけヴィオラへ向けられる。そこからは、出会った直後のような棘は感じられなかった。
部屋で一人になると、ヴィオラは息を吐く。
長旅の疲れは、自分で思っていたより体に残っていたらしい。肩から力を抜いた途端、足が少しだけ重くなる。
ヴィオラは寝台へ近づき、乱れないよう気をつけながら腰を下ろした。
「……ふかふかですね」
思わず零れた声に、自分でも少し可笑しくなる。
寝具は清潔で厚みがあり、旅で強張った背中を受け止めてくれる。
見た目の豪華さより、使う者の疲れを取ることを考えた寝台なのだろう。靴を脱ぐほどではないと思いながら体を横たえると、扉を叩く音がした。
「ヴィオラ嬢、入ってもいいか?」
アレクシスの声だった。
ヴィオラはすぐに体を起こし、乱れた裾を整える。
「はい、どうぞ」
扉が開き、アレクシスが姿を見せる。彼は室内へ入る前に、片づけられた窓辺へ一度だけ視線を向けた。
「花器の件は聞いた。到着早々、騒がせてしまったな」
「いいえ。私は気づいたことを伝えただけですから」
「エレーナは少し言葉が鋭い。だが職務に対しては誰よりも忠実だ」
「分かります」
その言葉に、アレクシスの口元がわずかに動いた。
「だから侍女長を任せている。もっとも、少し厳しすぎるところはあるが……」
「一人くらい厳しい方が、きっと空気も引き締まります」
「君は前向きに受け取るのが上手いな」
「ふふ、褒めても何も出ませんよ」
軽く返すと、アレクシスは窓辺へ目を向ける。
「それに、エレーナなりに君を歓迎するつもりだったのだと思う。あの花器はグランヴィル領の職人が作った品だ。領内で採れる鉱石を混ぜて焼いていて、光の当たり方で色が変わる特徴がある」
「だから、窓辺に置かれていたのですね」
「おそらく、君にグランヴィル領の品を楽しんでもらいたかったのだろうな」
ヴィオラは、片づけられた窓辺へ視線を向ける。もう花器はない。だが、そこに置かれていた理由を知ると、ただ割れてしまったものとして終わらせるには惜しい気がした。
「アレクシス様にお願いがあるのですが……」
「どうした?」
「割れた花器を、職人の方に修復していただけないでしょうか」
アレクシスは、少し意外そうにヴィオラを見た。
「修復か……」
「新しいものを用意するのは簡単だと思います。ですが、それだと、あの花器が割れてしまった罪悪感が心に残り続けます」
「なるほど……」
「直せるのなら、修復したいのです。壊れたまま終わらせてしまうより、その方がいい気がして……」
アレクシスはしばらく黙ってヴィオラを見つめる。やがて、納得したように頷いた。
「領内の職人に修復できるか見てもらおう」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。さすが、私が見込んだ女性だな」
「……あまり、真っ直ぐに言われると照れてしまいます」
「事実を言っただけだ」
当然のように告げて、アレクシスは満足気に頷いた。
「明日から屋敷の中を案内させる。君ならすぐに皆と馴染めるだろうな」
アレクシスはそう言って、扉へ向かう。
去り際に一度だけ振り返った彼の目は、到着した時よりもいくらか柔らかかった。ヴィオラなら、この屋敷に新しい風を吹き込んでくれるかもしれない。そんな言葉にはならない期待が、その視線に乗っていた。
「では、また明日」
「はい、アレクシス様」
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
グランヴィル辺境伯家での一日目は、予想よりも慌ただしかった。
だが、それも、悪くないと感じていた。
ヴィオラは寝台へ身を預け、深く息を吸う。
新しい屋敷の匂いと、明日への期待を抱えながら、グランヴィル辺境伯家での一日目は、緩やかに終わっていくのだった。




