第二章 ~『風と割れた理由』~
屋敷の中へ入ると、ヴィオラは思わず足を止めた。
華やかな装飾はないが、磨かれた床に埃はなく、調度品の配置にも余計な隙がない。日々この屋敷を動かすための配慮が、目に入るものの端々に表れていた。
「ヴィオラ嬢、君に先に紹介しておきたい者がいる。屋敷のことは、私より彼女に聞いた方が早い。少なくとも、備品の場所と使用人の配置に関しては、私より正確だ」
あまりに真顔で言われたため、ヴィオラは笑みを零した。すると、ちょうど廊下の奥から濃紺の侍女服をまとった女性が歩いてくる。
背筋は伸び、歩幅に乱れはない。近づいてくるだけで、屋敷の空気が引き締まるようだった。
「エレーナ」
アレクシスが声をかけると、女性は足を止め、礼を取った。
「お帰りなさいませ、閣下」
「こちらがヴィオラ嬢だ」
アレクシスがそう紹介すると、エレーナの視線がヴィオラへと移る。
「エレーナは侍女の長を務めている。しばらくは、君の担当も兼務してもらう」
アレクシスに紹介され、エレーナはヴィオラへ向き直った。背筋はまっすぐ伸び、礼の角度にも乱れはない。
だが、その表情に愛想はなく、王都から来た伯爵令嬢を前にしても、必要以上にへりくだる様子はなかった。
「エレーナと申します。辺境伯家の者として、不足のないようお仕えいたします」
丁寧な言葉だったが、愛想は感じられない。わがままな令嬢であれば、屋敷の秩序を乱される。エレーナはそれを警戒しているのかもしれない。
「ヴィオラ嬢、私はこのあと執務室へ行く。北の街道の報告を確認しなければならない」
「では、私はエレーナ様のお世話になります」
「ああ。何かあればエレーナに言ってくれ」
アレクシスがそう告げると、ヴィオラはすぐに頷いた。到着したばかりであっても、領主の仕事は待ってくれないのだろう。
アレクシスはそこでエレーナへ視線を移す。一瞬ではあったが、それだけで十分に意思は伝わったらしい。
エレーナは一歩下がり、頭を下げる。
「頼んだぞ」
「お任せください」
短いやり取りだったが、互いの役目を信頼していることは伝わってくる。アレクシスが廊下の奥へ向かうのを見送ると、エレーナはすぐにヴィオラへ向き直った。
「では、お部屋へご案内いたします」
「助かります」
エレーナは一礼すると、先に立って廊下を進む。
案内された部屋は、華美ではない。だが、磨かれた机や手入れの行き届いた椅子、清潔に整えられた寝具には、実用を重んじるグランヴィル家らしい落ち着きがある。
「こちらをお使いください」
「とても過ごしやすそうなお部屋ですね」
ヴィオラがそう答えて室内へ足を踏み入れた直後、窓辺に立つ若い侍女の存在に気づく。
侍女は顔を青ざめさせ、両手を胸の前で握りしめたまま、床の一点を見つめている。
ヴィオラがその視線を追うと、窓辺の床に白い陶片が散っていた。割れた花器のそばには、倒れた花が水を含んだまま横たわっている。
床に広がった水はまだ乾いておらず、陶器の破片が窓から差し込む光を受けて鈍く光っていた。
「あなたっ!」
エレーナが反応する。その一言だけで若い侍女の肩がびくりと跳ねた。
「も、申し訳ございません……」
「謝罪ではなく、まずは何が起きたのかを報告しなさい」
「申し訳ございません、私、その……」
「ヴィオラ様が到着されたばかりのお部屋です。曖昧な報告は許しません。あなたが割ったのですか?」
若い侍女は唇を震わせ、床に散った陶器の破片へ視線を落としたまま言葉を失う。
エレーナの声が厳しくなるのは当然だった。
客人を迎えるための部屋で花器が割れている。しかも、ヴィオラが足を踏み入れた直後に発覚したのだ。侍女長として、この場を曖昧にするわけにはいかない。
(あれは……)
ヴィオラは若い侍女の足元を見て、わずかに目を細める。
破片は拾われておらず、倒れた花もそのままで、水の跡にも手を触れた様子はない。もし自分で落としたのなら、慌てて破片を集めようとするはずだ。
だが、目の前の侍女は何かを隠しているというより、起きていることに理解が追いつけず立ち尽くしているだけに見えた。
「答えなさい!」
「申し訳、ございません……」
「ですから、謝罪ではなく――」
「エレーナ様」
ヴィオラはそこで、穏やかに口を挟んだ。
エレーナが振り返る。若い侍女も、困惑した顔でヴィオラを見た。
「私から聞いてもよろしいでしょうか」
「ヴィオラ様。これは当家の不手際です。すぐに片づけさせます」
「片づける前に、確認しておきたいことがあるのです」
「確認ですか……」
「はい。叱るのは、その後でも遅くありません」
エレーナは一瞬だけ口を閉じた。納得したわけではなさそうだが、ヴィオラの言葉を遮ることはしない。
ヴィオラは破片に近づきすぎない位置で足を止め、若い侍女へ向き直った。
「あなたは、その花器に触れましたか?」
若い侍女は弾かれたように顔を上げ、すぐに首を横に振る。
「触れておりません。部屋に入った時には、もう……」
若い侍女の声は震えていたが、その答えに嘘は感じられなかった。
ヴィオラは頷き、床に散った破片へ視線を落とす。それから、窓辺の風に揺れるカーテンへ目を向けた。
「おそらくですが、この花器は風で倒れたのだと思います」
「風ですか?」
エレーナの声に、わずかな戸惑いが混じる。
「カーテンが揺れれば触れる位置ですし、花器も細長く、重心が高い。安定しているとは言えない場所です。誰かが触れなくても、倒れる条件は揃っていたように見えます」
その一言で部屋の中が静まり返る。
若い侍女は息を呑み、エレーナは窓辺へ近づいて、台の位置と揺れるカーテンを確かめる。指先で細い台の縁に触れたあと、割れた花器の破片へ視線を落とした。
その表情から、険しさが少しずつ消えていく。
「……この花器を窓辺に置くよう指示したのは、私です」
エレーナは床に散った陶片へ視線を向けた。
「窓辺なら光が当たり、色もよく映えると考えました。ですが、風の入り方まで考えが及びませんでした」
そう言うと、エレーナはまずヴィオラへ深く頭を下げる。
「申し訳ございません。お迎えしたばかりのお部屋で、このような不備をお見せいたしました」
それから、彼女は若い侍女へ向き直った。
「あなたにも謝ります。責める前に、確認すべきでした」
「エ、エレーナ様……」
若い侍女は目を見開き、言葉を失った。
エレーナは視線を逸らさない。厳しい人ではある。だが、自分の誤りを認められない人ではないのだと、その姿だけで分かった。
「処分はお受けいたします」
「必要ありません」
「ですが……」
「形あるものは、いつか壊れます。それに、花器よりもエレーナ様の方が大切ですから。きっとアレクシス様も、そうおっしゃると思います」
エレーナの厳しく結ばれていた唇が、わずかに緩む。だが、それは安堵というより、目の前の伯爵令嬢の評価を改めたからこそのものだ。
ヴィオラは、侍女を感情で庇ったわけでも、エレーナを責め立てたわけでもない。事実を確かめ、人を失うことの方が損失だと判断した。
エレーナは背筋を正し、改めて深く頭を下げる。
「この失態は、働きでお返しいたします」
「頼りにしています」
エレーナは先ほどよりも深く頭を下げる。出会った時の礼と同じ形でありながら、その姿勢には確かな敬意が宿っていた。




