救難信号の先で
少女はまだ戸惑った表情のまま、こちらを見ている。
ここがどこなのか。近くに人の住む場所はあるのか。聞きたいことはいくらでもあったが、その前に確かめるべきことがあった。
「本当に、怪我はないんですか?」
「は、はい。転んだ時に、少し手を擦ったくらいで……」
少女は短銃型の魔導具を片手に持ち替え、空いた手のひらを見せた。泥が付き、薄く皮が剝けているものの、大きな傷ではなさそうだった。
そこで気が緩んだのか、腕へ遅れて痛みが返ってきた。スクラップハウンドを打ち払った時の衝撃が、手首から肘の奥に残っている。指先にも痺れがあった。
確かめるように手元へ目を落とす。
特大剣の柄を握る両手が、小さく震えていた。力を込めても、すぐには止まらない。武器の重さや衝撃だけが原因ではないことは、自分でも分かった。
「あなたの方こそ、大丈夫ですか?」
顔を上げると、少女が心配そうにこちらの手を見ていた。
「……大丈夫です。緊張が抜けただけだと思います」
「でも、顔色もあまりよくないです」
「少し休めば……たぶん大丈夫です」
そう答えたものの、自分でも確信はなかった。
ひしゃげた装甲。刀身に付着した黒い油。鼻の奥へ残る、焦げた金属の臭い。戦っている最中には考える余裕もなかったものが、終わった途端に現実味を増して押し寄せてきている。
「助けていただいて、本当にありがとうございました。あなたが来てくれなかったら、私は……」
少女の視線がスクラップハウンドへ向かう。
頭部の赤いレンズは消え、装甲の隙間から漏れていた煙も薄くなっていた。改めて見ても、再び動き出す気配はない。
「間に合ってよかったです」
ようやく肩の力が抜けた。
いつまでも特大剣を構えているわけにもいかない。収納する姿を見せていいものか迷ったが、持ったままの方が相手を警戒させるだろう。
意識を向けると、黒紺の刀身が暗紫色の光へほどけ、手の中から重さが消えた。
「今の……空間収納ですか?」
少女が目を見開く。
「そう呼ばれるものかは、僕にも分かりません」
「分からないんですか?」
「事情があって。僕に何が起きたのか、まだよく分かっていないんです」
少女の表情に警戒が戻った。
無理もない。危険な遺跡に一人でいて、身体より大きな剣を振るい、それを何もない空間へ消した。どう考えても怪しい。
だからといって、オンラインゲームのアバターになって別世界で目覚めたと話すわけにもいかなかった。そもそも、それが本当に起きたことなのか、自分自身まだ整理できていない。
少女は迷った末に、短銃型の魔導具を下ろした。
「私はリネット・アーヴェルです。遺物回収師の見習いをしています」
「リネットさん」
「はい。あなたのお名前も聞いていいですか?」
ほんの一瞬、本名を名乗るべきか迷った。
けれど、今の姿で「奥村珠紀」と名乗れば、余計な説明が増えるだけだ。読みは同じなのだから、今はタマキでいい。
「タマキです」
「タマキさん、ですね」
リネットは確認するように、その名前を繰り返した。
「それで、リネットさんはどうして一人でここに?」
「回収班とはぐれてしまったんです」
リネットは肩に掛けた大きな鞄を押さえ、周囲へ目を向けた。地面には工具や金属製の筒が散らばっている。
「近くの遺構を調べていたら、急に足場が崩れて道を分断されてしまって。皆さんと合流するために迂回していたところを、あの残骸機獣に見つかりました」
「それで、あの信号を?」
「はい。救難信号を上げました。回収班か巡視員が見ていれば、捜しに来てくれるはずです」
ただ助けを待っていたわけではないらしい。壊れかけた武器で抵抗し、逃げながら信号を上げ、それでも追いつかれた。
彼女の短銃へ目を向けると、銃身の側面に細い亀裂が走っていた。埋め込まれた青い結晶も、弱々しく明滅している。
「それ、壊れているんですか?」
「途中で導力器が壊れてしまって。最初は撃てていたんですけど、だんだん出力が落ちて……」
地面や機獣の装甲には、淡く焦げた跡がいくつも残っている。特に右前脚の周辺へ集中していた。
「関節を狙ったんです。でも、装甲を抜けなくて」
リネットの視線を追い、潰れた右前脚へ目を向ける。
ゲームでも、スクラップハウンドは脚へ強い攻撃を受けると体勢を崩し、動きが鈍ることがあった。だが、目の前の個体は、記憶にあるものより関節の隙間が狭く見えた。
焦げ跡の位置を見る限り、狙いが大きく外れていたわけではない。武器が壊れていなければ、もう少し動きを鈍らせられたのかもしれない。
「あの状態で、よくここまで持ちこたえましたね」
「必死だったので……。見つけてもらえなければ、どのみち逃げ切れないと思って」
リネットは視線を伏せた。短銃を握る指には、まだ力が入っている。
倒れた機獣へ近づく。
ゲームなら、撃破した敵はほどなく消え、素材や通貨へ置き換わっていた。だが、ここでは砕けた装甲も、折れた脚も、内部から流れ出した油も、そのまま地面に残っている。
剝がれた外装の奥には、歯車とも骨格ともつかない部品が複雑に絡み合っていた。知っているはずの敵なのに、近くで見れば見るほど、画面越しに覚えていたものとは違って見える。
「これは、どうするんですか?」
「本当なら駆動核や使えそうな部品を回収します。でも、ここで解体するのは危険です」
リネットは森の奥へ視線を向けた。
「戦闘音を聞いて、別の残骸機獣が寄ってくるかもしれません。救難信号を見た人たちと合流するためにも、巡視路まで移動した方がいいと思います」
言われて耳を澄ませる。
風に揺れる枝葉の音に混じり、遠くで金属が擦れるような音がした。先ほどまでは聞こえなかった音だ。
「あれが何なのか、確かめない方がよさそうですね」
「はい。行きましょう」
リネットが散らばった工具を拾い始める。
急ぐなら、一人に任せるより二人で拾った方が早い。近くに落ちていた金属棒へ手を伸ばした。
「あっ、大丈夫です。自分で拾えますから」
「急いだ方がいいんですよね」
「それは、そうですけど……」
「なら、手伝います」
拾った工具を差し出すと、リネットは迷いながらも受け取った。
「ありがとうございます」
二人で周囲の道具を集めていると、遠くで甲高い音が響いた。
顔を上げた先で、森の向こうへ青い光が細く立ち上る。先ほどリネットが上げた赤い信号とは違い、一定の高さまで昇った光は、その場で静かに明滅していた。
「応答信号です」
リネットの表情から緊張が抜ける。
「救難信号を確認してくれたみたいです。回収班か巡視員が、こちらへ向かっています」
「それなら、ひとまず安心ですね」
「はい。でも、ここで待つより巡視路へ出た方が安全です。向こうも、私たちを見つけやすいと思います」
助けが来ることは分かった。それでも、戦闘音を聞いた別の残骸機獣が先に現れないとは限らない。合流するまで、この場で待ち続けるのは危険だった。
残っていた道具を手早く集める。いくつかはスクラップハウンドに踏まれて曲がっていたが、確認している余裕はない。リネットは使えそうなものを次々と鞄へ押し込んでいった。
機獣の残骸も収納できるのだろうか。
試すことはできそうだが、これはリネットたちが回収するはずのものだ。勝手に収納すれば、余計な疑いを持たれるかもしれない。今は触らない方がいいだろう。
「巡視路はこっちです」
リネットを先頭に、森の中を進み始める。
彼女は足元に埋もれた金属片や木の根を避けながら、迷うことなく歩いていく。ただ、右足を着くたびに、かばうような動きが混じっていた。
「足、痛めていますよね」
「……分かりますか?」
「少し」
「転んだ時に捻っただけです。歩けないほどではありません」
鞄を持とうかとも考えたが、中には壊れやすい回収品が入っているらしい。扱い方も分からないまま手を出すより、歩調を合わせた方がいい。
「無理に急がない方がいいと思います」
「でも、さっきの音が……」
彼女の足では、また敵が現れた時に逃げ切れない。そうなれば、自分が前へ出るしかなかった。
「さっきと同じくらいの相手なら、少しは時間を稼げると思います」
「……また戦うつもりですか?」
「必要なら、です」
複数で現れた場合や、さらに大型の敵が来た場合まで対処できる保証はない。《イグニッション》を使えば戦えるかもしれないが、今の身体にどれほどの負担がかかるのか分からない以上、安易には頼れなかった。
リネットはしばらくこちらを見ていたが、やがて頷いた。
「分かりました。でも、本当に危なくなったら、タマキさんも逃げてください」
「できるだけ、そうします」
素直に約束できる内容ではなかった。
しばらく歩くと、木々の間からひび割れた石畳が見えてきた。古い道路のようだが、脇には折れた金属柱や、魔法陣に似た線が刻まれた石板が並んでいる。
「ここが巡視路です。この道を進めば、こちらへ向かっている人たちと合流できると思います」
森の中より見通しはいい。少なくとも、敵が近づいてきても先ほどより早く気づけそうだった。
道の脇に立つ石柱へ目を向ける。表面は苔に覆われていたが、その下には見覚えのある紋様が刻まれている。
ゲーム内の星骸炉心外縁で使われていた、旧文明の施設標識によく似ていた。
「あの、ここは……何という場所なんですか?」
自分でも不自然な質問だとは思った。
リネットは足を止め、首を傾げる。
「星骸炉心跡地です。ここは北東外縁の回収区ですが」
予想していた名前だった。
それなのに、現地の人間の口から聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。ついさっきまでゲームの中で攻略していた場所が、ここでは現実の遺跡として存在している。
「星骸炉心……」
「ご存じなんですか?」
「名前だけは」
反射的にそう答えた。
名前だけではない。内部の構造も、出現する敵も、最深部に何があったのかも知っている。少なくとも、VAの中では。
だが、目の前に広がる遺跡は、ゲームで見たものと完全には一致しない。道の位置も、木々に埋もれた施設も、あの時には存在しなかった。
ゲームの記憶だけを頼りに歩けば、いずれ取り返しのつかない勘違いをするかもしれない。
「タマキさんは、どうしてこの辺りにいたんですか?」
来ると思っていた質問だった。
「気づいた時には、森の中にいました」
「一人で?」
「はい。ここへ来た方法も分かりません」
リネットの表情が再び硬くなる。
「ここへ来る前のことは、覚えているんですか?」
「覚えています。ただ、ここへ来るまでの間だけが分からなくて」
「転移術式の事故……でしょうか」
リネットは考え込むように目を伏せた。
転移術式。
この世界には、本当に人や物を移動させる術があるらしい。けれど、今の自分に起きたことを、その一言だけで説明できるとは思えなかった。
「今の話、合流した人たちにもした方がいいと思います」
声は穏やかだったが、先ほどより慎重な響きがあった。
「分かりました」
無理に信用してもらおうとは思わない。立場が逆なら、自分だって同じ反応をする。
星骸炉心跡地で目を覚まし、身元を証明するものもない。しかも、ここへ来た方法すら説明できない。相手からどう見えるかを考えれば、歓迎だけを期待するわけにはいかなかった。
やがて、巡視路の先から複数の足音が聞こえてきた。装備同士が触れ合う硬い音も混じっている。
「来てくれたみたいです」
リネットの表情が明るくなる。
助けが来た。そう考えていいはずなのに、胸の奥では緊張が強くなる一方だった。




