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目覚めた先で

 頬に、ひやりとした感触があった。


 星骸炉心(アストラルコア)をクリアした後、気が抜けて眠ってしまったのだろうか。机に突っ伏したまま寝落ちしたのなら、頬の冷たさにも説明はつく。


 けれど、鼻の奥へ入り込んできた匂いは、自分の部屋のものではなかった。湿った土と草。雨ざらしになった金属のような錆臭さ。


 嫌な予感を振り払うように、ゆっくりと瞼を開く。


 目の前にあったのは、机ではなく露に濡れた草だった。薄暗い木々の隙間から、青白い空が覗いている。


「……どこ、ここ」


 見慣れた自分の部屋ではない。知らない建物の中ですらなかった。


 あまりにも不自然な光景に、思わず声が漏れる。そして、その声にも違和感があった。


「……え?」


 自分でも驚くほど高く、か細い声だった。


 上体を起こすと、淡い色の髪が肩から滑り落ち、視界の端を覆った。自分の髪はこんな色でも、こんな長さでもない。


 慌てて顔の前へ手を持ち上げる。黒い手袋と、そこから伸びる細い指。見覚えはあった。ただし、現実で見慣れたものではない。


 画面の向こうで、何度も見てきた手だった。


「そんなわけ……」


 ゲームで使っていた自分のアバター。タマキの手だ。


 あるはずがないと思いながら立ち上がると、違和感はさらに強くなった。視線が低い。地面までの距離も近く、周囲の草や土に半分埋もれた金属片が、妙に大きく見える。


 手足が縮んだというより、身体そのものが別のものへ変わっていた。いや、別のものという表現も少し違う。この身体を、僕はよく知っている。


 近くに転がっていた金属板へ目を向ける。錆びた表面の一部だけが、鈍い鏡のようにこちらの姿を映していた。


 腰近くまで流れる淡い髪。灰色を薄く混ぜた金色にも、柔らかなミルクティー色にも見える。髪は低い位置で半分ほどまとめられ、片側には黒紺の細いリボンが結ばれていた。


 長い前髪の隙間から覗くのは、淡い琥珀色の瞳。頬にはまだ幼さが残り、目元は少し眠たげだった。


 何度も画面越しに見てきた顔だった。


「……タマキだ」


 口に出しても、現実味は生まれなかった。


 意識は奥村珠紀のまま。二十七歳の男だった僕が、ゲームで使っていた少女アバターの身体になっている。


 そう理解した途端、心臓が大きく跳ねた。胸の奥が縮み、その後から鼓動が急に速くなっていく。


 とりあえず、落ち着こう。こんな時に慌てても仕方がない。


「スー……ハー……」


 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。


 無理だ。全然落ち着かない。


 それでも、何もせずに固まっているわけにはいかなかった。


 まず、ゲームのメニューを開けないか試してみる。頭の中で「メニュー」と念じてみたが、何も起こらない。ステータスや装備画面、スキル一覧、それにマップと順番に思い浮かべても、見慣れたウィンドウは一つも現れなかった。


「……メニュー」


 今度は声に出してみる。返事も、システム表示もない。


「ログアウト」


 続けて口にしてみたが、やはり何も起こらなかった。


 そこでふと、星骸炉心をクリアした直後に表示された文字を思い出した。


 Axiom Sync:Failed

 Visitor Registration:Pending


 意味は分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。


 少なくとも、これまで使っていた方法ではログアウトできない。


「……困った」


 小さく呟く。


 いや、困ったどころではない。これが現実なら、叫んでも、頭を抱えてもおかしくない。それなのに声は出なかった。頭の中だけが忙しく動き、身体の方が置いていかれているような感覚がある。


 ひとまず周囲を見回した。


 今、自分がいるのは森の中らしい。ただし、普通の森ではない。


 木々の間から折れた金属柱が突き出し、地面には古い機械回路のような模様が半分埋もれている。その上へ重なるように、魔法陣に似た線が走っていた。


 苔むした装甲板に、砕けた歯車。木の根元に散らばる、青白く発光した結晶片。


 この景色には見覚えがあった。


「星骸炉心……?」


 ゲームで何度も訪れた、星骸炉心《アストラル・コア》。


 ただし、見覚えのある最深部ではない。炉心施設の外周に広がる遺跡が、長い年月をかけて森へ呑み込まれたような場所だった。


 似ているが、ゲームのマップそのままではない。ゲームの設定に存在した場所が本当にあり、そこへ自分が放り込まれた。そんな想像が浮かぶ。


 自分で考えておいてなんだが、あまりにも嫌な想像だった。


「あ、装備は……」


 自分の身体へ視線を落とす。


 白い胴衣の上に重ねられた、黒から濃紺を基調とする装備。短い上着と腰回りの装具、前腕を覆うガントレット。短いスカートの横からは、暗紫色を差した非対称の腰布が垂れている。


 ゲームでタマキに設定していた外見装備だった。見た目用の衣装と実際の防具性能は別に設定していたが、その内部まで引き継がれているかは分からない。


 腰のポーチへ手を入れてみる。中にあるのは、いくつかの小物だけだ。ゲームで持っていた所持品を収められるような大きさではない。


 インベントリまで消えてしまったのだろうか。


 そう考えた瞬間、意識の奥に妙な感覚が浮かんだ。


 手元にあるわけではない。けれど、自分のすぐ近くに、持ち物を収めた見えない空間がある。


 画面は表示されない。アイテム名の一覧も見えない。それでも意識を向ければ、消耗品や素材、予備の装備がそこにあることだけは分かった。


 そして、愛用していた特大剣も。


 剣を思い浮かべる。


 次の瞬間、右手へ一気に重さが落ちてきた。


「っ……わ」


 慌てて左手も柄へ添える。


 黒から濃紺を基調とした、機械仕掛けの特大剣。タマキの身長を明確に上回る刀身には、暗紫色の魔力光が細く走っている。


 画面越しに何度も見てきた武器が、今は本当に手の中にあった。切っ先が地面へ触れ、その重さを受けた土がわずかに沈む。


「……重い」


 当たり前だ。特大剣なのだから、軽いはずがない。けれど、持ち上がらない重さでもなかった。


 両手の間隔を空けて柄を握り、右足を半歩引く。腰を落とし、剣の重さが腕だけへ集中しないように身体の軸を傾ける。


 考えるより先に、身体が動いていた。


「……あれ?」


 奥村珠紀は、現実で剣を握ったことなどない。まして、自分の身長より大きな武器を扱った経験などあるはずもなかった。


 それなのに、足の位置も、剣の重さをどちらへ逃がせばいいのかも分かる。僕が動こうとすれば、タマキの身体が必要な動きを返してくる。


 周囲に何もないことを確認し、特大剣をゆっくりと持ち上げた。腕や肩には確かな負担がかかるが、構えを維持できないほどではない。


 腰を回し、刀身を横へ動かしてみる。軽く振ったつもりだった。それでも、幅広い刀身が空気を押し退け、低い音を響かせる。


 剣の重さに身体が引かれた。


 反射的に足を踏み替え、振り切った勢いを無理に止めず、切っ先を地面へ落とす。湿った土が深く削れた。


「……使える」


 軽々と、とは言えない。好きな瞬間に軌道を変えたり、何度も高速で切り返したりするのは難しいだろう。


 それでも、構えられる。振るうこともできる。通常の攻撃や迎撃なら、この状態でも問題なく行えそうだった。


 自己強化スキルの《イグニッション》も残っているのだろうか。あれが使えれば、この剣も今よりずっと扱いやすくなる。


 だが、MPも負荷も見えない状態で、いきなり試す気にはなれなかった。現実の身体へどれほど負担がかかるのかも分からない。必要になるまでは使わない方がいい。


 剣を収納しようと意識すると、特大剣の輪郭が暗紫色の光へほどけ、手の中から重さが消えた。


 姿は見えなくなったが、意識を向ければそこにあることは分かる。少なくとも、装備の出し入れはできるらしい。


 耳を澄ませる。


 風が木々を揺らす音。鳥の鳴き声に似た、聞き慣れない声。


 ここが安全だという保証はない。


「ここにいても仕方ない。とりあえず、安全な場所を探そう」


 見通しの悪い森の中で、誰かが偶然通りかかるとも思えない。しかも、ここは星骸炉心に似た遺跡の近くだ。


 慎重になる必要はある。けれど、慎重になりすぎて動けなくなるわけにもいかなかった。


 そう考えた時だった。


 遠くで、何かが爆ぜるような音がした。


 続いて、赤い光が空へ昇っていく。木々の隙間から細い煙が見えた。赤い光は一定の高さまで上がると、弾けるように広がった。


 現実では見たことがない。けれど、知識としては知っている。おそらく、信号弾の類だ。


 少し遅れて、何かを二度撃つ音が響いた。


 誰かが戦っている。あれが救援用の信号なら、助けを求めている可能性が高い。


 問題は、どうするかだ。


 ここがどこなのかも、相手が何に襲われているのかも分からない。自分の能力がゲームと同じように使える保証もない。


 それでも、ここで考え込んでいる場合ではないことだけは確かだった。


 まずは近くまで行き、状況を確認する。助けられるかどうかは、それから判断すればいい。


「……行こう」


 声は変わらずか細い。けれど、足は前へ出た。


 煙の上がった方向へ急ぐ。


 森の中は歩きにくかった。木の根が地面から突き出し、足元には金属片が埋まっている。ところどころに古い回路のような線が走り、踏むたびに一部が淡く光った。


 腰から垂れた布が後ろへ流れ、長い髪が何度か枝へ引っかかりそうになる。


「ゲームだと、髪が枝に引っかかったりしなかったんだけどな……」


 見た目としては気に入っていた。実際にこの身体で森を走るとなると、少し邪魔だった。


 タマキの身体は元の身体よりも軽快で、足もよく動く。体格が小さい分、木々の隙間も抜けやすかった。


 ただ、慣れない身体と緊張のせいか、呼吸はすぐに浅くなる。


 少なくとも、自分が知っているゲームマップとは違う。ここが本当にVAと同じ世界なのか、それともゲームによく似た別の場所なのか。


 まだ、何も分からない。


 煙へ近づくにつれ、再び発射音が響いた。今度は、助けを求める声もはっきり聞こえる。


「誰か――!」


 少女の声だった。


 木々の間を抜けた先に、一人の少女がいた。茶色がかった髪を後ろでまとめ、片方の肩へ大きな回収鞄を掛けている。短銃のような魔導具を両手で構えながら、地面に散らばった工具を避けて後退していた。


 少女の正面には、四本脚の機獣がいる。


 錆びた装甲に覆われた身体は、狼よりも一回り大きい。頭部らしき部分にはひび割れたレンズが埋め込まれ、その奥で赤い光が点滅している。


 ゲームにも登場した残骸機獣種《スクラップモンスター》であるスクラップハウンド。


 けれど、名前表示はない。HPバーもなければ、攻撃の前兆を教える色も出ていなかった。


 少女が引き金を引く。


 淡い光弾が飛び、スクラップハウンドの肩口へ命中した。甲高い音が響き、光弾は装甲の表面で弾ける。


「また弾かれた……!」


 周囲の地面や装甲には、同じような焦げ跡がいくつも残っている。少女はただ助けを待っていたわけではない。自分が来る前から、何度も抵抗していたらしい。


 それでも、短銃では装甲を抜けていない。


 少女がもう一度引き金を引いた。今度は何も出なかった。


「そんな……今?」


 魔力切れか、故障か。どちらでも同じだ。少女には、もう有効な攻撃手段がない。


 スクラップハウンドが身を低くする。前脚が地面を噛み、後脚へ力が溜まった。


 跳びかかる前の動き。


 そう考えた瞬間、機獣が地面を蹴った。


 迷っている時間はなかった。


 インベントリへ意識を向ける。右手へ特大剣の重さが戻り、左手も柄へ添える。


「伏せて!」


「え――」


 少女が驚いたようにこちらを振り向く。


「早く!」


 重ねて叫ぶと、少女は弾かれたように身を縮めた。


 タマキは機獣の正面へ入らず、横から踏み込む。振り上げる余裕はない。低く構えていた特大剣を、身体の回転ごと横へ押し出した。


 幅広い刀身の腹が、空中のスクラップハウンドへ叩きつけられる。


 金属同士が衝突する轟音。


 両腕へ重い衝撃が返ってきた。


「っ……!」


 骨の内側まで響くような感覚に、思わず息が詰まる。それでも剣は止まらない。


 華奢な身体からは想像できない力と、刀身そのものの重量に押し切られ、スクラップハウンドの巨体が横へ弾き飛ばされた。


 機獣は地面へ叩きつけられ、土と錆びた破片を撒き散らしながら転がる。


 画面越しでは分からなかった。武器を当てた感触も、手の中へ返る衝撃も、現実にははっきりと存在する。


 金属を叩き潰した音が耳から離れない。指先が痺れ、踏み込みも想像より深くなっていた。


 一瞬、足が止まりかける。


 その間にも、スクラップハウンドは起き上がろうとしていた。右肩の装甲が大きく潰れ、前脚の動きが鈍っている。それでも、頭部の赤いレンズは消えていない。


 タマキは息を吸い、踏み込んだ。


 特大剣を振り切った勢いへ逆らわず、足を踏み替える。身体を半回転させ、重い刀身を次の振り下ろしへ繋げた。


 黒紺の刀身が、損傷した右肩へ落ちる。


 装甲が砕け、内部の駆動部が潰れた。右前脚が不自然な方向へ折れ曲がり、機獣の身体が地面へ沈む。


 だが、まだ止まらない。


 スクラップハウンドは残った脚で無理やり身を起こし、頭部をタマキへ向けた。口に当たる部分が開き、その奥へ淡い光が集まっていく。


 見覚えのある射撃攻撃だった。


 横へ避けようとして、背後にいる少女の存在を思い出す。ここで射線を外せば、光弾はそのまま彼女へ届く。


 タマキは逃げなかった。


 高く振り上げる時間はない。切っ先を低くしたまま機獣へ踏み込み、両手で柄を押し出す。


 幅広い刃が、スクラップハウンドの首元へ突き込まれた。硬い装甲を削り、歪んだ隙間へ食い込む。


 そのまま足を踏ん張り、柄を押し込んだ。機獣の身体が地面へ縫い止められる。


 口内へ集まっていた光が乱れ、小さな破裂音とともに内部で弾けた。黒い煙が装甲の隙間から噴き出し、スクラップハウンドの身体が一度だけ大きく跳ねる。


 頭部の赤い光が明滅した。


 一度。


 二度。


 やがて、完全に消える。


 森に静けさが戻った。


 それでも、タマキはすぐには剣を抜かなかった。息が浅く、心臓がうるさい。


 本当に倒したのか。まだ動くのではないか。


 ゲームなら、撃破を知らせる表示が出る。今は目の前の機獣が動かないことだけを頼りに、判断しなければならない。


 しばらく待っても、駆動音は戻らなかった。


「……倒した、よね」


 誰に尋ねるでもなく呟く。


 特大剣を引き抜くと、内部の部品が刃へ引っかかり、重い抵抗が返ってきた。足を踏ん張り、ゆっくりと抜く。


 金属片と黒い液体が刀身から地面へ落ちた。油と焦げた金属の臭いが鼻へ届く。


「う……」


 急に気分が悪くなった。画面越しでは存在しなかった臭いだった。


 切っ先を地面へ下ろしても、柄を握る両手の震えは止まらない。


「あ、あの……」


 後ろから声がした。


 振り返ると、救援を求めていた少女が少し離れた場所からこちらを見ていた。短銃型の魔導具を胸元へ抱え、驚いたように目を見開いている。


 少女の視線が、タマキの顔から、その身長を大きく上回る特大剣へ、そして倒れた機獣へと移っていく。


 何か言わなければならない。まず確認するべきことは決まっていた。


 タマキは浅い呼吸を整え、少女へ向き直る。


「……怪我、ありませんか?」


 か細い声が、静かになった森へ落ちる。


 少女はしばらくタマキと特大剣を見比べた後、我に返ったように何度も頷いた。


「は、はい。私は大丈夫です」


 その言葉を聞いて、ようやく僅かに肩の力が抜けた。


 ひとまず、間に合った。


 それでも、肝心なことは何一つ分からないままだった。


 ここがどこなのか。

 なぜ自分がタマキの身体になっているのか。

 元の世界へ戻る方法はあるのか。

 そして、この世界が本当に――僕の知っているヴァスティミアなのか。


 少女はまだ戸惑った表情のまま、こちらを見ている。


 その視線を受けながら、僕は次に何を尋ねるべきか考えた。

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