毒を運ぶ手
皇帝の手首で、脈が打っていた。
一度、また一度。
指の腹へ伝わる確かな鼓動は、昨夜までと何も変わらない。温かく、力強く、この人が生きているのだと訴えている。
けれど黒い封書に記された明日は、その鼓動を私の手で奪うという。
『死亡予告
明日正午、皇帝は花嫁ミレイユ・ローデンから差し出された水を飲み、毒によって死亡する』
文字はいつものように乾ききっていた。誰の恐怖も、ためらいも知らない冷たい筆跡だった。
私は指を離そうとした。
皇帝は無理に引き留めず、私が離すより先に自分から手を開いた。その静かな動作が、かえって胸を締めつけた。
「私が触れた物を、陛下へ近づけないようにします」
「それで死は避けられるかもしれない」
皇帝は封書へ視線を落とした。
「だが、おまえを私から遠ざけることまで敵の狙いなら、従うつもりはない」
「それでも、私の手から毒が渡るのです」
言葉にした途端、自分の指まで異物のように思えた。何かに触れれば、それだけで相手を殺してしまうのではないか。膝の上で握った右手が、ひどく重い。
昨日擦りむいた掌が疼いた。
傷は治療係に洗われ、白い布で巻かれている。夜のうちは感じなかった甘い匂いが、わずかに鼻へ触れた。
花の蜜に似ているのに、嗅いでいると舌の奥が痺れるような匂いだった。
私は息を止めた。
「水をください。ただし、飲むためではありません」
皇帝は理由を問い返さなかった。すぐに侍女へ命じ、それから私の包帯を見つめた。
運ばれてきた水を、侍女に卓上へ置かせる。陶器の水差しが卓へ触れる音さえ、妙に大きく響いた。誰にも布へ触れさせず、私は硝子の棒で一滴だけすくった。
包帯の外側へ落とす。
水滴は白い布の上で一瞬だけ丸く留まり、ゆっくりと繊維へ吸い込まれた。
その中心から、薄紫色が滲んだ。
侍女が小さく息を呑む。皇帝の目が鋭く細められた。
昨夜、崩れた段から引き上げられたとき、この手にはまだ包帯は巻かれていなかった。石の角で掌を擦りむき、手当てを受けた直後には、包帯は白一色で、紫の染みもなかった。
だが、治療係は最後にこう言った。
――傷口へ薬が染みないよう、内側には蝋を引いた布を重ねております。
傷を守るためだと思った。
違う。
蝋は、外側に塗った毒が私の傷へ入らないようにするためだったのだ。
私を殺さず、私の手だけを凶器にする。そのための細工だった。
「布を濡らすと毒が溶け出します」
声に震えが混じった。それでも、考えを言葉にするうち、恐怖の輪郭が少しずつ見えてきた。
冷えた水を注いだ杯なら、表面に水滴が浮く。それを包帯の巻かれた手で持てば、溶けた毒は指を伝い、杯の縁へ届く。
毒が入れられているのは水ではない。水に触れたとき、毒が生まれたように見える仕掛けなのだ。
皇帝は近衛兵に、昨夜私の手当てをした者と治療室を押さえるよう命じた。短く低い命令が飛ぶと、近衛兵たちは足音を重ねて部屋を出ていった。
私は包帯へ刃を入れず、結び目を少しずつ解いた。黒い封書と同じように、乱暴に壊して何が起こるか分からない物には、触れ方を選ばなければならない。
布を一巻きほどくたび、甘い匂いが濃くなる。自分の皮膚のすぐ近くに死が巻きついていたのだと思うと、胃の奥が冷えた。
内側には、確かに薄い蝋引き布があった。傷へ触れた面は白いままなのに、外布を水へ浸すと紫黒い筋が沈んでいく。澄んでいた水がゆっくり濁り、細い煙のような色が器の底へ垂れた。
祝宴の杯から採取され、封じてあった毒の残りと照合すると、同じ反応が出た。
毒は水差しにも、杯にも入っていなかった。
私の手に巻かれていた。
ほどなく、逃げようとした治療係が捕らえられた。治療室の炉では、同じ布を巻いた包帯が燃やされかけていた。鋏の柄の空洞からは、紫黒い毒粉も見つかった。
治療係は黙り込んだが、昨夜の言葉も、包帯を巻いた指の順も、私の記憶には残っている。
あのときの私は、痛みと疲れで注意を払う余裕がなかった。労るような声を疑いもしなかった。だが、思い返せば、治療係は外布だけを何度も指でなぞり、最後に水へ触れぬよう念を押していた。
侍医長の管理下にあった古い治療布と器具はすべて押収され、今後、私に使う物は私自身が選んだ侍女と近衛兵が別々に確認することになった。
「人も、おまえが選べ」
皇帝が言った。
「私が、ですか」
「おまえの体へ触れる者を、私の都合だけで決めることはしない。拒みたい者がいれば拒め」
命を狙われているのは皇帝だ。だから警護も治療も、すべて彼が決めるのだと思っていた。
人質である私には、自分の世話をする者さえ選べないと思っていた。
けれど皇帝は、命を守るためという理由でも、私から決定を奪わなかった。
そのことが、毒を巻かれていた傷よりも強く胸へ響いた。
「では、新しい包帯は自分で選びます」
「分かった」
私は近衛兵が運んだ未使用の布を一枚ずつ確かめた。匂いを嗅ぎ、水を落とし、裏表を見る。白いままの布を選び取るころには、指の震えもわずかに治まっていた。
「そのうえで、陛下に巻いていただきたいのです」
皇帝がわずかに目を見開いた。
私自身も、口にするまでそんな願いが胸にあるとは知らなかった。怖くないわけではない。けれど、恐怖に決められた距離を、このまま受け入れたくなかった。
私は恐怖を押し隠さず、右手を差し出した。
「この手を、毒を運んだ手のままにしたくありません」
「私が触れてもよいのか」
「はい。手当てが終わるまでは、何度も尋ねなくても大丈夫です。嫌だと思ったら、私から止めます」
「必ず止めろ」
命令口調なのに、声はひどく慎重だった。
皇帝は自分で検めた新しい布を取り、私の掌へ巻き始めた。
傷へ当てた布がずれないよう、片方の手で指先を支え、もう片方で包帯を回していく。指先は剣を扱うときより慎重だった。布が肌を撫でるたびに緊張したが、その力加減は最後まで変わらなかった。
少し不揃いな結び目が手首の外側にできる。
「きつくないか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
短いやり取りなのに、胸の奥に残っていた冷たさがほどけていった。
封書には、私が毒を入れるとは書かれていない。
私から差し出された水が毒になると告げただけだ。
名を記された者であっても、企みを知らないまま死への最後の一手を運ばされることがある。封書が示すのは罪ではなく、死へつながる因果なのだ。
ならば、私の手そのものを恐れる必要はない。
何を触れさせられたのか。誰が触れたのか。そこまで遡ればいい。
翌日、正午が近づいた。
窓から差す光が卓の上を少しずつ移動する。鐘楼の影が短くなるにつれ、喉が渇いていった。けれど、部屋に用意された水には誰も手をつけなかった。
水は皇帝と私が見守る前で井戸から汲まれ、封をした水差しのまま運ばれた。杯は近衛兵二人が別々に検め、私の包帯にも毒がないことを確かめた。
手順の一つ一つは正しい。毒の入り込む余地はない。それでも皇帝へ杯を差し出す瞬間、指は震えた。水面が小さく波打ち、杯の縁を光が揺れる。
「無理に渡さなくてよい」
皇帝は手を伸ばさずに言った。
「ここまでで十分だ。おまえが拒むなら、私は受け取らない」
逃げても、死は回避できる。
この杯を卓へ戻し、正午が過ぎるまで皇帝に水を飲ませなければいい。それが最も確実で、最も簡単な方法だった。
けれど私は、封書に命じられてこの杯を持っているのではない。皇帝に証明を強いられたのでもない。
自分の手を、もう一度自分のものとして選び直すために、ここへ立っている。
「お渡しします。私の意思で」
私は杯を差し出した。
皇帝はすぐには受け取らなかった。私の目を見て、そこに迷いがないと確かめてから、ゆっくりと指を杯へ添えた。
一口、二口。
彼の喉が動くたびに、脈を確かめたときの感触が指先へ蘇る。息が詰まりそうになりながら、私は彼の顔色と呼吸を見つめ続けた。
やがて正午の鐘が鳴った。
一つ目の音が窓硝子を震わせ、続く鐘が城内へ広がっていく。
皇帝は倒れなかった。
肩に入っていた力が一度に抜け、私はようやく息を吐いた。
杯を置いた彼の手が、今度は掌を上にして卓上へ置かれる。
触れるかどうかを、私に委ねる手だった。
私は自分からその上へ右手を重ねた。
新しい包帯越しに、彼の体温が伝わってくる。皇帝の指は私を捕らえず、ただ重ねた手を受け止めていた。
毒を運ぶためではない。
私が望んで触れるための手だった。
翌朝、回避された死に代わって、十通目の封書が現れた。
黒い紙を開いた瞬間、昨日取り戻したばかりの温もりが、指先から遠のいた。
『死亡予告
明日午後三時、書庫係は改竄された医療記録を運び、書庫で倒れた書棚の下敷きとなって死亡する』
今度は、皇帝でも私でもない者が予告の対象になっていた。
なぜ書庫係が狙われるのか。改竄された医療記録には何が隠されているのか。考えが走り出した、そのときだった。
封書を読み終えるのと同時に、書庫を調べていた近衛兵が駆け込んできた。
壁と書棚をつないでいた固定具が、すべて取り外されていた。
(第10話へ続く)




