庇うという死因
壁と書棚をつないでいた固定具が、すべて取り外されていた。
近衛兵の報告を聞きながら、私は黒い封書を両手で持ち直した。端を折らないよう、指先へ力を入れすぎないようにする。
『死亡予告
明日午後三時、皇帝は書庫で花嫁ミレイユ・ローデンを庇い、倒れた書棚の下敷きとなって死亡する』
書庫へ行かなければいい。
私と皇帝が明日の午後三時まで近づかなければ、予告された光景は成立しない。
それが最も安全な回避策だった。
けれど、固定具を外した者は、なぜ書棚を倒す相手に皇帝を選んだのか。
「書庫には、何が保管されていますか」
「宮廷の公文書と、歴代皇族の私的な記録だ」
皇帝は少し間を置いた。
「私の診療記録もある」
侍医長の顔が脳裏に浮かんだ。
祝宴で私の拘束を真っ先に主張し、給仕へ投じる薬を管理し、外套の薬粉や礼拝堂の鎮静香にもつながる薬庫を預かっていた男。
死を回避するたび、侍医長へ近づく証拠だけが不自然に消えている。
「書棚は、私たちを殺すためだけに倒されるのではないのかもしれません」
「記録ごと潰すつもりか」
皇帝は書庫を封鎖し、誰も中へ入れるなと命じた。
それから私へ向き直る。
「おまえも入るな。記録を失っても、命が残れば調べ直せる」
正しい判断だった。
それでも私は、封書の一行へもう一度目を落とした。
皇帝は私を庇う。
この人なら、書棚が倒れた瞬間、考えるより先に私の前へ立つだろう。その意志まで敵に利用されている。
「一つ、お願いがあります」
「言え」
「明日、書棚が倒れても、私を庇わないと約束してください」
皇帝の表情が固くなった。
「それは約束できない」
胸が痛んだ。私を守ろうとする言葉なのに、黒い封書はそれを死へ変えてしまう。
「見捨ててほしいのではありません」
私は震えそうになる声を押さえ、続けた。
「私と一緒に逃げてほしいのです。私が伏せてと言ったら、陛下も伏せてください。私を覆うのではなく、二人とも生き残るために動いてください」
皇帝はすぐには答えなかった。
やがて、机上の封書へ触れないまま、その隣へ手を置いた。
「おまえの合図を聞いたら、一人で庇うことはしない」
「はい」
「だが、おまえも私を逃がすために残るな」
「約束します」
どちらか一人が犠牲になるためではない。
二人で逃げるための約束だった。
その日のうちに、私たちは書庫の入口から内部を調べた。
長い部屋の両側に、天井近くまで届く書棚が並んでいる。固定具を失っているのに倒れないのは、棚板と記録の重さが均等に掛かっているからだ。わずかな力でも均衡が崩れれば、中央の通路へ向かって倒れる。
私は以前、偽造命令書に使われた紙の出所を調べるため、一度だけこの書庫を見ていた。
そのとき、右側の三つ目の棚は壁へわずかに傾いていた。古い床が沈み、棚の右脚だけが深く食い込んでいたからだ。
今は逆だった。
棚の上端が、指一本分だけ通路側へ出ている。
「床を見せてください」
近衛兵が長い柄の鏡を差し入れ、棚の足元を映した。
前脚の下に、新しい木の楔が打ち込まれている。その楔から細い綱が伸び、床板の隙間へ消えていた。
綱の先を追うと、書庫中央の閲覧台の下へ達した。
閲覧台の前だけ、床板の色がわずかに明るい。最近持ち上げられ、磨かれた跡だ。
重みを掛ければ床板が沈み、綱が楔を引き抜く。最初の棚が傾けば、向かいの棚へぶつかり、固定具を失ったすべての書棚が通路へ倒れる仕組みだった。
閲覧台には、明日の午後三時に診療記録を点検するよう命じる書面が置かれていた。
署名は皇帝のものに似せてあったが、最後の一画に、あの深いくぼみがない。
私を中央へ立たせるための偽造命令だった。
書棚を壁へ鎖でつなぎ直し、さらに床と天井の間へ太い支柱を入れた。仕掛けを作った者を油断させるため、楔と床板は残す。
皇帝の診療記録だけは、長い鉤を使って先に棚から引き出した。
革表紙の記録を開く前に、私は皇帝へ尋ねた。
「拝見してもよいのですか」
「そのために取り出した」
「陛下の体に関わる記録です。命を守るためでも、私が勝手に読んでよいものではありません」
皇帝は私の目を見た。
「私が、おまえに読んでほしい。隠したい箇所はない」
その言葉を受けてから、私は頁を開いた。
即位後の診療が、日付順に記されている。軽い傷や発熱に混じって、侍医長が皇帝と二人きりで行った処置が七度あった。
日付は離れている。症状も違う。
それなのに、七度すべてで同じ薬が血管へ投じられていた。
「同じ薬を、七度……」
皇帝にも覚えがないという。
記録の余白には、侍医長以外の立ち会いを禁じる命令まで添えられていた。だが、その署名も偽造だった。
明日の罠は、この記録を私たちごと書棚の下へ埋めるために作られたのだ。
翌日、午後三時。
私と皇帝は書庫内の石造りの窪みへ並び、長い綱でつないだ砂袋を閲覧台の前へ落とした。
床板が沈む。
木の楔が一斉に抜け、書棚が軋んだ。
天井近くの棚が、黒い影のようにこちらへ迫る。
皇帝の肩が、私の前へ出ようと動いた。
「一緒に伏せてください!」
私の声に、彼は足を止めた。
私を覆う代わりに、彼は支柱へつないだ綱をつかむ。私も隣の綱へ両手を掛け、同時に引いた。
鎖が張り、書棚の上端が空中で止まった。
何冊もの記録が落ち、床を激しく打つ。革表紙と紙片が降り注いだが、太い棚板は私たちへ届かなかった。
午後三時の鐘が鳴り終わる。
皇帝は書棚の下敷きにならなかった。
私も、彼に庇われて取り残されなかった。
仕掛けを設置した書庫係は、外で床板の作動を確かめようとして捕らえられた。所持品から書庫の副鍵と、診療記録を移すための偽造命令書が見つかった。
敵は書庫へ自由に出入りする経路と、皇帝の診療記録を消す機会を失った。
そして私は、封書が告げなかったものを見た。
あの一行には、七度の投薬記録が失われるとは書かれていなかった。皇帝の死に付随して消える証拠を、封書は教えてくれない。
封書が一通につき告げるのは、一件の死だけ。
その死の陰で何を隠そうとしているのかは、私たちが見つけなければならないのだ。
「約束を守ってくださったのですね」
私が言うと、皇帝は落ちた書物の間で息を整えながら答えた。
「おまえの声が聞こえた」
守られることと、共に生き残ることは違う。
今日、彼は私の前へ立つ代わりに、私と同じ綱を引いてくれた。
翌朝、十一通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午前十一時、皇帝は御前会議の最中、心臓が停止して死亡する』
倒れる書棚も、毒杯も記されていない。
今度の凶器は、外からは見えなかった。
私は七度の投薬記録を胸へ抱き、皇帝へ告げた。
「明日の御前会議に、私も出ます。陛下の隣の席を、私にください」
(第11話へ続く)




