心臓を止める封蝋
十一通目の黒い封書は、夜が明けても卓上に置かれていた。
『死亡予告
明日午前十一時、皇帝は御前会議の最中、心臓が停止して死亡する』
毒とも、刃とも、事故とも書かれていない。
ただ心臓が止まる。
それだけの文面が、これまでで最も恐ろしかった。
倒れる書棚なら支えられる。飛んでくる矢なら射線を探せる。けれど皮膚の内側で起きる死を、私は見ることができない。
皇帝の診療記録には、即位後に行われた七度の投薬が残されていた。
すべて同じ薬。すべて静脈への投与。そして皇帝自身には、その記憶がない。
「御前会議を中止なさってください」
そう言えば、今日だけは彼を会議室から遠ざけられる。
けれど封書は、御前会議そのものを死因とは記していない。会議を別室へ移しても、時刻を変えても、仕掛けが皇帝とともに運ばれる可能性があった。
私は封書を破損させないよう慎重に畳んだ。
「会議で陛下が口にするもの、触れるもの、吸い込むものを、すべて調べます」
「隣の席を望んだ理由は、それだけか」
皇帝に問われ、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
御前会議には、私を人質花嫁としか見ない者もいる。彼らの前で皇帝の隣に座れば、外国の女が政へ口を出したと非難されるだろう。
怖くないはずがなかった。
「いいえ」
私は正直に答えた。
「陛下の命を守るためです。それと、私の判断を隠れた場所から伝えるのでは、間に合わないと思いました」
皇帝はうなずいた。
「では席を用意させる。ただし、途中で退席してもよい。誰の許可も要らない」
「はい」
逃げ道を与えられたからこそ、私はその席へ向かうことを選べた。
御前会議は午前十時に始まった。
長卓の上から、飲み物も香炉も花も取り除かれている。窓は開け放ち、近衛兵が壁際と扉を固めた。皇帝の衣服と椅子も事前に改めたが、異常はない。
私は彼の右隣に座り、診療記録を膝に置いた。
向けられる視線には、驚きも不快もあった。
それでも皇帝は私を飾りのように紹介しなかった。
「ミレイユ・ローデンは、私の許可を得てここにいる。異論がある者は、会議の後に私へ申し出よ」
短い宣言だった。
私の発言を許すために、彼は自分の権威を使った。だが何を言うかまでは命じなかった。
議題が進むたび、書記が書類を卓へ運んでくる。私は紙質、紐、封蝋、運んだ者の手袋まで見た。
十時半を過ぎても、異変はない。
皇帝の呼吸は一定だった。指先の震えも、顔色の変化もない。
恐怖だけが私の内側で育っていく。
もし七度の投薬がすでに心臓を損ねているのなら、仕掛けなど存在しないのかもしれない。明日の死ではなく、今日まで積み重ねられた処置の結果が、十一時に現れるだけなのかもしれない。
十時四十分。
最後の議題として、国境警備に関する決裁書が運び込まれた。
厚い羊皮紙は赤い紐で綴じられ、中央に皇帝の紋章を刻んだ封蝋が押されている。
皇帝が手を伸ばした。
その瞬間、私は封蝋の色に違和感を覚えた。
赤い。けれど、本物よりわずかに暗い。
第七話で偽造命令書を調べたとき、皇帝から預かった本物の印影見本。その封蝋は光を受けると朱色に透けた。目の前のものは赤黒く、表面だけが不自然に濡れたような艶を帯びている。
「触れないでください!」
会議室に私の声が響いた。
皇帝の指が、封蝋の寸前で止まる。
誰かが息を呑んだ。
「封印を疑うのか」と声が上がった。
「印影ではありません。蝋が違います」
私は本物の見本を取り出し、長卓の端へ並べた。
記憶だけで断じてはならない。
光へかざすと、差ははっきり見えた。本物は朱色の光を通すが、決裁書の封蝋は黒い影を含んでいる。
「燃やしますか」
近衛兵の一人が問うた。
私は首を振った。
熱で毒が気化する可能性がある。それに、燃やせば誰が何を仕込んだのかを示す証拠まで失われる。
「水を張った硝子鉢を。火ばさみで、この書類ごと沈めてください」
皇帝は理由を尋ねなかった。
「ミレイユの指示に従え」
運ばれた鉢へ決裁書が沈められる。
封蝋の表面から、透明な膜がほどけるように浮き上がった。水面へ薄い油の輪が広がり、その中心だけが鈍い青色へ変わる。
診療記録に挟まれていた薬の備考を、私は思い出した。
皮膚から吸収され、脈を乱す薬。投与量を誤れば、外傷を残さず心臓を止める。
「体温で蝋が軟らかくなれば、薬が指につきます。陛下が封を破る時刻まで計算されていたのです」
会議室が静まり返った。
皇帝は水中の書類を見つめ、それから自分の手を開いた。
「触れてはいない。確認してくれ」
私はその場にいる全員の前で、彼の指先を見た。
皮膚に濡れた痕はない。手袋にも裂け目はない。
それでも安心はできなかった。
「脈を確かめてもよろしいですか」
「許す」
彼が手首を差し出す。
以前は彼に導かれて触れた脈へ、今日は私から指を置いた。
鼓動は速くも遅くもない。
十時五十分。
十時五十五分。
一分ごとに、私は同じ場所で脈を数えた。
十一時の鐘が鳴り始める。
指先の下で、一度。
また一度。
皇帝の心臓は止まらなかった。
最後の鐘が消えるまで、私は手を離せなかった。
「生きています」
声にした途端、張り詰めていたものがほどけた。
皇帝の手が返り、私の指を下から支えた。握り込まず、離れることも選べる触れ方だった。
毒の決裁書を議題へ紛れ込ませた書記は、その場で拘束された。控室からは封蝋を温める小炉と、表面へ薬を塗る細筆が見つかった。
敵は御前会議へ偽造文書を差し入れる役職と、心停止を病死に見せかける薬を失った。
そして一つ、封書について分かった。
『心臓が停止する』という自然死にしか見えない文面でも、人の手で作られた死である可能性がある。
封書は、外傷のない死を病だとは保証しないのだ。
会議を終えた後も、皇帝は私の手を放さなかった。
「七度の投薬について、侍医長は再検査が必要だと言うだろう」
「受けないでください。少なくとも、薬の中身を確かめるまでは」
「ならば決めてくれ」
私は彼を見上げた。
「今後、私が意識を失っている間に行われる医療行為を、おまえには拒む権利がある。私の身体へ入れる薬は、診療記録と現物を照合し、おまえが認めなければ使わせない」
それは命だけでなく、自分の身体を預ける言葉だった。
「私だけでは決めません」
責任の重さに震えながらも、私は答えた。
「陛下が話せるときは、必ず陛下ご自身が選んでください。話せないときだけ、私が止めます。そして安全を確かめたら、改めて陛下の意思を聞きます」
「それでいい」
守るとは、相手の意思を奪うことではない。
彼が選べない間だけ、その拒否権を守る。私はその役目を、自分の意思で引き受けた。
翌朝、十二通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午前四時、帝国の伝令は南厩舎の火災によって死亡する』
読み終えた直後、扉の外で近衛兵の声が上がった。
「その伝令は、ミレイユ様の祖国から届いた密書を持っています。ですが昨夜、南厩舎へ入ったきり姿を消しました!」
私は封書を皇帝へ渡し、外套をつかんで廊下へ走り出した。
(第12話へ続く)




