灰にされる密書
廊下へ飛び出した私の背後を、皇帝の足音が追ってきた。
十二通目の文面は、もう一字も見なくても言える。
『死亡予告
明日午前四時、帝国の伝令は南厩舎の火災によって死亡する』
予告時刻は明日の未明。それでも、伝令は昨夜から南厩舎で消息を絶っている。
火災が起きてから閉じ込められるのではない。すでに死ぬ場所へ運び込まれているのだ。
「陛下、厩舎へ入る前に火をすべて消してください。灯りも持ち込ませないで」
「油を疑うのか」
「伝令だけを殺すなら、刃のほうが早いはずです。火災にする理由は、伝令が持つ密書まで焼くためです」
皇帝は走りながら近衛兵へ命じた。
「南厩舎を封鎖。水桶と濡れ布を運べ。火気は一切近づけるな」
南厩舎の扉は外から施錠されていた。
鍵を開けた瞬間、鼻を刺す匂いが流れ出す。馬の汗や干し草の匂いではない。油だった。
薄暗い厩舎に馬の姿はなく、床一面に新しい藁が敷かれている。その下から黒い油が染み出し、幾筋もの細い流れとなって壁際へ伸びていた。
「踏み込まないでください」
私は入口で目を凝らした。
婚礼のためにこの宮殿へ運ばれた日、私は同じ厩舎を通った。右側に六つ、左側に六つの馬房。奥には飼料箱が三つ。夜明け前に厩番を起こすための鐘紐が、梁から中央の柱へ垂れていた。
今、その鐘紐がない。
代わりに細い鋼線が柱の裏へ回され、油に濡れた藁の中へ消えている。
「鐘の仕掛けが変えられています。あの柱です」
近衛兵が濡れ布を敷き、そこを足場に柱へ近づいた。藁を除くと、鋼線の先に火打ち石が二つ取り付けられていた。時刻仕掛けの歯車が鐘を鳴らす午前四時、石が噛み合い、火花を落とす構造だった。
だが、伝令の姿がない。
「飼料箱を調べろ」
皇帝が命じたとき、私は首を横へ振った。
「二つは動かして構いません。でも、一番奥には触れないでください」
三つ並んだ飼料箱のうち、奥の一つだけ蓋の蝶番が左右逆だった。婚礼の日、厩番は右手で蓋を持ち上げていた。今の蓋は左側からしか開かない。
さらに、箱の下から例の鋼線とは別の細い糸が伸びている。
「蓋を開ければ、別の火打ち石が作動するのでしょう」
明日の午前四時を待たず、救出しようとした者の手で火災を起こす仕掛けだ。
皇帝は私の隣へ膝をついた。
「糸の行き先が見えるか」
「箱の背面です。けれど、ここから切れば中へ火花が落ちるかもしれません」
「ならば箱を濡らしてから切る。異論は?」
彼は命令するのではなく、私へ確かめた。
恐怖に急かされ、一人で答えを出す必要はない。私は糸の角度と油の流れをもう一度見比べた。
「先に鋼線を固定してください。そのあと、左の隙間から水を入れます。中に伝令がいるなら、顔を水に浸さないよう少しずつ」
皇帝が鋼線を靴底で押さえ、私が水差しを傾けた。箱の隙間から水が入り、やがて内側から弱い咳が聞こえた。
「生きています!」
濡れた糸を切り、蓋を外す。
飼料箱の中には、両手足を縛られた伝令が横たわっていた。額には殴られた痕があり、胸に革の書簡筒を抱え込んでいる。
近衛兵が伝令を運び出したあと、箱の底から小さな火打ち装置が見つかった。蓋と糸のどちらが動いても作動するよう作られている。
これで実行役の仕掛けは潰した。
だが、私の目は伝令の胸から離れなかった。
革筒には、私の祖国の王家が使う封印が押されていた。
「開けますか」
皇帝が私へ尋ねた。
それは彼宛ての密書であるはずなのに、彼は自分だけで開こうとしなかった。
祖国は私を人質の花嫁として差し出した。私に価値はないと切り捨てた国だ。それでも、その封印が皇帝暗殺に結びついているかもしれないと思えば、胸の奥が冷えた。
もし本物なら、私は敵国の命令を運ぶために嫁がされたのかもしれない。
皇帝の隣に立つ資格など、初めからなかったのかもしれない。
「陛下は、私を疑っておられますか」
「書簡は証拠になり得る。だが、証拠になることと、書かれた内容が真実であることは同じではない」
皇帝は革筒を私へ押しつけず、二人の間に置いた。
「おまえが望むなら、共に確かめる」
逃げれば、疑いだけが残る。
私は自分から革筒へ手を伸ばした。
「一緒に開いてください」
封を切って現れた文面は、予想していたより残酷だった。
皇帝へ施された七度の投薬を利用し、病死に見せて命を奪え。人質花嫁ミレイユ・ローデンは計画を承知しており、必要なら証人として使え――そう記されていた。
署名も封印も、祖国の正式なものに見える。
けれど紙を入口から差す朝日に透かしたとき、見覚えのある紋様が浮かび上がった。
「これは祖国の紙ではありません」
宮廷文書庫の用紙に入っている固有の透かしだった。
さらに封蝋を裏返す。紐を一度蝋の下へ通し、二重に交差させる留め方は、祖国の書簡には使われない。
皇帝の表情が険しくなった。
「前皇妃が摂政だった時代、密命書に用いられた形式だ」
祖国の封印を真似ながら、帝国の紙と古い緘封法を使っている。
偽書簡だ。
膝から力が抜けかけた私の肘を、皇帝の手が支えた。すぐには抱き寄せず、触れてよいかを問うように力を止める。
私はその腕から離れなかった。
「本物の書簡も見せる」
皇帝は静かに言った。
「おまえの祖国から届いたものを、都合のよい部分だけ選ばず、すべてだ」
それは皇帝にしか読めないはずの外交上の密書まで、私へ開くという意味だった。
「そこまで私を信じてよいのですか」
「信じるために確かめる。そして、おまえにも私が隠していないと確かめてほしい」
宮殿へ戻った私たちは、保管されていた本物の書簡を一通ずつ照合した。紙、紐、封蝋、署名。そのすべてが偽書簡とは異なっていた。
南厩舎の鍵と油を持ち出した厩番も、その日のうちに捕らえられた。敵は厩舎への出入りと、摂政時代の密命書を偽装する道具を失った。
翌日午前四時。
時刻仕掛けの歯車は空しく回り、切り離された火打ち石が鳴ることはなかった。伝令は治療を受けながら、自分の言葉で襲撃の経緯を証言した。
死は回避された。
そして分かったことがある。
封書が告げたのは、伝令が火災で死ぬという一件だけだ。伝令が運んだ書簡の差出人や、そこに記された罪まで真実だとは保証していない。
死に付随する情報は、誰かの嘘であり得る。
翌朝、十三通目の黒い封書が現れた。
皇帝と並んで開いた紙には、救ったはずの偽書簡が、今度は私を殺す凶器として記されていた。
『死亡予告
明日正午、ミレイユ・ローデンは祖国への内通による反逆罪で斬首され死亡する』
読み終えた瞬間、窓硝子を石が突き破った。
頬を裂いて床へ落ちた石には、血より赤い文字で『反逆者』と書かれていた。
(第13話へ続く)




