偽りの召喚状
『死亡予告
明日夕刻、花嫁ミレイユ・ローデンは皇帝の召喚状で北塔へ呼び出され、転落して死亡する』
黒い封書をもう一度読み上げてから、私は使者が運んできた召喚状を机へ置いた。
厚い羊皮紙が、乾いた音を立てる。
命令は簡潔だった。
明日夕刻、北塔の最上階へ一人で来ること。護衛にも侍女にも知らせないこと。違えれば、祖国との盟約を破棄すること。
末尾には皇帝の署名があり、赤い封蝋には帝国の紋章が刻まれている。翼を広げた鷲と、その爪に握られた剣。幼い頃から、逆らうことを許されぬ権威の象徴として教え込まれた印だった。
けれど、私の隣に立つ皇帝は言った。
「私は書いていない」
その声に迷いはなかった。
婚礼の夜、彼は私に選択を許した。祝宴では私を拘束しながらも、傷つけるなと命じた。礼拝堂では私の告げた三歩を信じ、昨日は私から見えない矢を見つけた。
それでも、皇帝の紋章を目にした瞬間、胸の奥には冷たい疑いが生まれていた。
命令書のほうが、この人より正しいのではないか。
そんな考えが浮かんだこと自体が、ひどく苦しかった。
人質として育った私には、印章とは人の言葉を押し潰すものだった。父も重臣たちも、封蝋さえ本物なら、そこに記された命令へ従えと言った。たとえ命じた本人が後から否定しても、弱い者には確かめる権利すら与えられない。
「確かめたいか」
皇帝が尋ねた。
責める響きはない。私が答えるまで、召喚状にも私にも手を伸ばさずに待っている。
「はい。陛下のお言葉を疑いたいのではありません。疑わずに済ませるために、確かめたいのです」
「それでよい」
皇帝は右手の印章指輪へ左手を添えた。
「外して渡してよいか」
帝国でただ一人、皇帝の命令を証明できる指輪。それを人質花嫁へ渡す許可を、彼は私に求めている。
胸を締めつけていた冷たさが、わずかにほどけた。
私は息を整えてから、両手を差し出した。
「お預かりします」
掌へ置かれた指輪は、思っていたより重かった。冷えた金属が皮膚へ沈み込み、その重さだけで、これまで発せられてきた数え切れない命令を想像させた。
侍従が用意した新しい蝋へ指輪を押し当て、偽の召喚状の封蝋と並べる。紋章の形は同じだった。翼の枚数も、冠の傾きも、爪がつかむ剣の角度も一致している。
一目見ただけなら、私も従っていただろう。
だが、私は婚姻誓約書に押された印影も覚えていた。祖国を背負って署名した日の光景は、忘れようとしても忘れられない。
燭台を近づけ、光の角度を変える。赤い蝋の表面に細い影が浮かんだ。
「こちらは、線が二重になっています」
私は偽の封蝋を指した。
本物の指輪が残した線は鋭い。対して召喚状の紋章は、翼の先や剣の縁がわずかに重なり、輪郭に浅い溝が添っている。
「本物の印影へ柔らかいものを押し当てて型を取り、その型から印章を作ったのでしょう。形は写せても、写し取るたびに輪郭が鈍くなる」
皇帝も二つの封蝋を見比べた。彼の指先が、偽物の剣の縁で止まる。
「昨日見つかった署名の練習紙と同じ者たちか」
「おそらく。封書は『皇帝が私を呼び出す』とは書いていません。『皇帝の召喚状で呼び出される』とだけ告げています」
その紙が本物か、命令した者が誰かまでは保証しない。
皇帝の剣が、皇帝自身を実行者と定めなかったように。
皇帝の眼前という言葉が、皇帝を射手と定めなかったように。
封書は嘘をつかない。けれど、私たちが勝手に補った意味まで正してはくれない。偽物を偽物と断ってもくれないのだ。
「使者を捕らえ、北塔を閉鎖する」
「お待ちください」
私が言うと、皇帝の眉が寄った。
「行くつもりか」
低くなった声に、恐れより先に案じられているのだと分かった。そのことが嬉しく、同時に、彼を恐れさせる提案をするのが痛かった。
「召喚状は入口です。転落させる仕掛けは、まだ北塔に残っています。今閉鎖すれば、実行役は逃げ、別の場所へ仕掛けを移すかもしれません」
「おまえを囮にはできない」
「命じられたなら、私も拒みます」
私は自分の声が震えていないことを確かめた。
「けれど、これは私が選ぶことです。もちろん、一人では行きません。転落する場所を先に見つけ、私の身体を命綱で支えます。下階には近衛兵を伏せ、塔を管理する者の逃げ道を塞いでください」
昨日、盾を離せという彼の声を信じた。今度は私の考えを伝え、彼自身に選んでもらう番だった。
皇帝はすぐには答えなかった。燭火が揺れ、二つの印影の影も揺れる。
やがて、彼は机上の指輪を指にはめ直した。
「計画をすべて聞く。その後で、私も選ぶ」
命令でも許可でもない言葉だった。
私たちは机を挟んだまま、北塔の階段や窓の位置を一つずつ確かめた。恐怖は消えなかった。けれど、独りで抱えていたときとは形が違った。口にした策の一つ一つが、恐怖を進むべき道へ変えていった。
最後に、私は偽の召喚状の封蝋と、本物の印章指輪で新しく押した封蝋を並べた。
「陛下。今回は紋章の形まで複製されていました。次に輪郭の鈍りまで消されたら、私には見分けられません」
皇帝はしばらく二つの封蝋を見比べ、それから短く言った。
「では、紙で見分けるのをやめる」
「と、申しますと」
「私からおまえへの命令には、必ずひとつ言葉を混ぜる。書面でも、人伝てでも、私の口からでもだ。それが無ければ、私の命令ではない」
彼は羽根ペンを取り、紙の隅へ一語だけ書いて、すぐ燭火で焼いた。灰になるまで、二人とも黙って見ていた。
「覚えたか」
「一度で覚えます」
私が答えると、彼はわずかに口の端を動かした。笑ったのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「なら、おまえの記憶が私の印章だ」
翌日の夕刻、私は召喚状を手に北塔へ入った。
表向き、護衛は伴っていない。
古い石壁から染み出す冷気が外套を通り抜け、足音が螺旋階段に長く反響する。上を見ても、狭い階段は薄闇へ溶けていた。
けれど外套の下では、細い命綱が私の腰へ巻かれていた。その端は螺旋階段の曲がり角を挟み、皇帝の腰へ結ばれている。
結ぶ前に、彼は尋ねた。
「私とつなぐ。よいか」
縄へ触れた手は、私の返事を待って止まっていた。
「はい。陛下に支えていただきたいです」
私が答えて初めて、彼は結び目を締めた。
私たちは互いの姿が見えない距離を保って階段を上った。下階には近衛兵が潜み、塔を管理する者が逃げれば捕らえる手筈になっている。
一段上るたび、腰の縄がわずかに動く。その感触だけが、曲がり角の向こうにも彼がいると教えてくれた。
上から四段目へ差しかかったとき、私は足を止めた。
狭い窓から夕日が差し込み、石段の表面だけを血のように赤く照らしている。
一見、異常はない。
だが、壁際に積もった埃が、その一段だけ途切れていた。靴で踏まれた跡ではない。縁に沿って細い切れ目が走っている。誰かが石を持ち上げ、戻した跡だった。
心臓の音が、塔を満たすほど大きく聞こえた。
私は腰の縄を二度引いた。
皇帝から一度、強い引きが返る。
準備はできている。
息を吐き、私は持ってきた砂袋を石段へ落とした。
鈍い音とともに段が割れた。
石に見えたのは薄い板へ石粉を塗った偽物だった。破片と砂袋が、塔の中央を貫く暗い空洞へ吸い込まれていく。落下音はなかなか返ってこなかった。
続いて、私の立っていた足場まで傾いた。
靴底が滑り、身体が前へ投げ出される。空洞から吹き上がる冷たい風が頬を打った。
喉から悲鳴が漏れるより早く、腰の縄が張った。
息が詰まるほど強く引かれ、私は階段の内側へ倒れ込む。伸ばした手を、曲がり角から駆け上がってきた皇帝がつかんだ。
「ミレイユ!」
その声に、私は恐怖へ呑まれかけた意識を引き戻した。
「無事です。引き上げてください!」
彼は私の腕を引いた。私も石壁を蹴り、二人で崩れた段から離れる。石の角で掌が擦れたが、その痛みさえ、生きている証に思えた。
安全な踊り場へ着いた途端、膝が震えた。
皇帝は私の手を握ったまま、息を乱している。私をつかむ指にも、抑えきれない震えがあった。
「怖かったか」
「はい」
強がることは、この人を信じることとは違う。
暗い穴を見下ろしながら、私は答えた。
「ですが、縄が張ったとき、陛下がそこにいると分かりました」
命令書に従ったのではない。皇帝だけに守られたのでもない。
私が仕掛けを見つけ、彼が私を支えた。私が彼を信じ、彼も私の判断を信じた。どちらか一人なら、あの穴へ落ちていたかもしれない。
夕刻の鐘が鳴り終わっても、私たちを結んだ縄は切れなかった。
塔の下では、逃走を図った管理係が捕らえられていた。その部屋からは、皇帝の印影を写し取った型と偽造印、署名入りの紙を運ぶための箱が見つかった。
偽の召喚状を作る経路は押さえられ、北塔の転落装置も失われた。
そして一つ、規則が確かめられた。
封書は死に使われる物の呼び名を告げても、その真贋や権威までは保証しない。
翌朝、九通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日正午、皇帝は花嫁ミレイユ・ローデンから差し出された水を飲み、毒によって死亡する』
指先から血の気が引いた。
今度は私が狙われるのではない。
私の手が、彼へ死を運ぶ。
読み終えた私に、皇帝は左手を差し出した。
「触れてもよいか」
私がうなずくと、彼は私の指を自分の手首へ導いた。
温かな皮膚の下で、確かな脈が打っている。一度、また一度。昨日、縄越しに伝わった彼の力と同じく、そこにいることを告げる鼓動だった。
「この脈を、おまえの手で止めさせはしない」
(第9話へ続く)




