背後から来る矢
盾の裏へ描いた線を、私は指でなぞった。
白墨の粉が指先へつき、ざらりと皮膚をこする。胸の高さで交わる三本の線は、どれも私の命へ届く矢の道筋だった。
七通目の黒い封書は、机の上で朝の光さえ吸い込むように横たわっている。封を切った痕には触れない。破損させれば、予告の時刻が早まる。それを知っている今、紙の端一つ折ることさえ恐ろしかった。
『死亡予告
明日正午、花嫁ミレイユ・ローデンは皇帝の眼前で弩の矢に射抜かれ死亡する』
対象は私。時刻は正午。死因は弩の矢。
そして、皇帝の眼前。
声に出さず整理しても、その一行だけが胸の内側へ冷たく残った。皇帝が私の死を目撃する。それとも、彼が見ていること自体に意味があるのか。
「陛下が見ていなければ、予告は成立しないのでしょうか」
「確かめるために目を閉じて、おまえが射抜かれては意味がない」
皇帝の返答は正しかった。
正しいからこそ、逃げ道にはならなかった。
私は盾の裏へ、明日の立ち位置と想定される射線を書き込んだ。正面、左右の回廊、屋根の上。矢が届くすべての角度を洗い出し、近衛兵に一つずつ検査してもらうつもりだった。
盾は私の肩から膝までを隠す大きさで、表には薄い鉄板が張られている。正面からなら、近距離の弩にも耐えられると武具係は言った。
だが、どこで狙われるのかが分からない。
場所が分からなければ、盾を向ける方向も決められない。背中へもう一枚くくりつければ動けなくなる。身を守るための重さが、逃げる足を奪うこともある。
その答えは昼前、皇帝名義の命令書として届いた。
『明日正午、東の演武場にて、花嫁ミレイユ・ローデンの嫌疑が晴れたことを近衛兵の前で宣する。本人は盾を携え、皇帝の正面へ立つこと』
皇帝は一読し、低く言った。
「私は出していない」
短い言葉だったが、室内の空気が張り詰めた。
印章は本物に見えた。署名も、婚礼の誓約書で見た皇帝の筆跡とよく似ている。紙からは文書庫特有の、乾いた革と糊の匂いまでした。
けれど、同じではない。
「最後の一画が違います」
私は婚礼の日を思い出す。
皇帝は署名の最後、ペン先を一度止めてから右上へ払った。誓約書には、止めた場所だけ深いくぼみが残っていた。緊張していた私は、署名する彼の手を見つめていた。あの日の記憶が、今は偽物を暴く刃になる。
目の前の命令書には、そのくぼみがない。形だけをなぞり、同じ速さで書き切っている。
「偽造です」
皇帝は命令書を灯りへ透かした。紙には宮廷の文書庫で用いられる透かしまで入っている。傾けると、薄い紋様が水面の影のように浮かんだ。
敵は皇帝の名を使い、私を予告どおりの位置へ立たせようとしているのだ。
「命令を取り消せば、明日は別の場所で狙われるかもしれません」
封書は次の朝まで書き換わらない。仕掛けを壊さない限り、危険は残る。部屋へ閉じこもっても、別の仕掛けが正午を待っている可能性は消えなかった。
「ならば演武場へ行きます。偽造に気づいていないふりをして」
口にした途端、喉が乾いた。策として正しくても、自分を矢の前へ置く恐怖まで消えるわけではない。
皇帝はすぐには同意しなかった。
「囮になれとは命じない」
「命じられたからではありません。仕掛けを見つけるために、私が選びます」
彼の視線は私の顔から逸れなかった。決意だけでなく、その下に隠しきれない怯えまで確かめているようだった。
「途中で退くことも選べる」
「はい」
「私の指示が、おまえの考えと食い違った場合はどうする」
昨日、彼は私の『三歩』を信じ、底の見えない地下通路へ跳んだ。
今度は私が答える番だった。
「理由を聞く暇がなければ、陛下の声に従います」
「分かった。ならば私も、おまえの選択を無駄にはしない」
翌朝までに、東の演武場は徹底して調べられた。
回廊の柱、観覧席の下、屋根、排水溝。弩を隠せる場所には兵を置き、運び込まれる荷もすべて開けた。正面からの射線には、私が図を描いた盾を立てる。
石床を槍の石突きで叩く音が続き、屋根では瓦を持ち上げる音がした。油や火薬の匂いがないか、壁の継ぎ目に新しい傷がないか。目と耳と鼻を使って、一つずつ確かめていく。
それでも胸の震えは止まらなかった。
完全に調べたつもりでも、礼拝堂では香炉の底に鎮静香が隠されていた。死を成立させる途中の仕掛けを、封書は教えてくれない。
安全だという報告を聞くたび、安堵より先に、では見落としたものは何かと考えてしまう。
正午が近づく。
皇帝が観覧台へ立ち、私は偽の命令どおり、その正面へ進んだ。
盾の縁から顔を出せば、彼と目が合う位置だった。
敵の望んだ光景を再現している。
私の靴音が石床へ響くたび、逃げ道が一歩ずつ遠ざかる気がした。それでも皇帝の姿は動かない。彼の周囲には近衛兵が立っていたが、彼だけが真っすぐ私を見ていた。
あと半刻。
風が回廊を抜け、旗が鳴った。
異常はない。
私は盾の裏へ描いた線を見た。正面、右、左。何度確かめても、背後だけは盾に隠れて見えない。
あと十数えるほど。
盾を握る手に汗がにじむ。革の取っ手が滑り、握り直す指が震えた。正面の回廊にも、左右の屋根にも動く者はいない。
鐘楼の歯車が、重い音を立てた。
ご、と石壁の向こうで何かが噛み合う。
その瞬間、皇帝が私の背後へ顔を向けた。
「ミレイユ、盾を離して前へ三歩!」
考えるより先に、両手を開いた。
一歩。
盾が石床へ倒れ始める。
自分で考え抜いた防ぎ方を手放す恐怖が、背筋を駆け上がった。
二歩。
背後で、木が弾ける音がした。
三歩。
風を切る鋭い音が、私の背中を追い越した。
次の瞬間、耳を打つような衝撃音がした。
弩の矢が盾の裏面へ突き立つ。
描いてあった私の胸の位置、その中心を正確に貫いていた。矢羽根が震え、低い唸りを残している。
もし盾を持ったまま正面からの矢だけを警戒していたら、背後から来た矢は先に私を射抜き、そのまま盾へ達していただろう。
そう理解した途端、息ができなくなった。胸に手を当てる。何も刺さっていない。鼓動だけが、痛いほど掌を打った。
近衛兵が一斉に走る。
矢が放たれたのは、演武場の背後にある壁だった。石飾りの一つが内側から開き、その奥に小型の弩が固定されている。正午の鐘を打つための綱へ細い糸をつなぎ、鐘楼の歯車が動けば自動で引き金が落ちる仕掛けだった。
人が隠れていなかったから、検査では見落とされたのだ。
「なぜ、分かったのですか」
私は震える膝を押さえながら尋ねた。立っているつもりなのに、石床がまだ揺れているように感じた。
「観覧台からだけ、石飾りの隙間に張られた糸が光って見えた」
皇帝の眼前。
それは彼を犯人として示す言葉ではなかった。敵は皇帝の正面へ私を立たせようとした。けれど同じ位置にいたからこそ、彼にしか見えないものがあった。
封書に名を記された者が、死をもたらす側とは限らない。以前の剣は所有者と実行者を区別しなかった。今度は、実行者と目撃者を区別していなかったのだ。
封書が告げるのは、誰が何を望んだかではない。死が成立したときの光景だけ。
ならば、言葉の印象に怯えるのではなく、その光景を作る条件を一つずつ崩さなければならない。
壁の中の弩は押収され、仕掛けを設置した用具係もほどなく捕らえられた。その部屋から、偽の命令書に使われた紙と皇帝の署名を練習した紙片が見つかった。
敵は演武場の隠し射出口と、偽造命令を運ばせる経路を一つ失った。
正午の鐘が鳴り終わる。
最後の余韻が石壁の向こうへ消えるまで、私は自分の胸へ手を当てていた。
私は射抜かれなかった。
皇帝が観覧台を下り、私の前で足を止めた。
「よく動いた」
「怖かったです。盾を離せと言われたときも」
「あれは、おまえが考えた防ぎ方を捨てろという命令だった」
「それでも、陛下が私には見えないものを見つけたのだと思えました」
私は自分から手を差し出した。
「昨日、陛下が私の三歩を信じてくださったからです」
皇帝はその手を取る前に、いつものように確かめた。
「握ってよいか」
「はい」
彼の指が私の指を包む。冷え切っていた私の手へ、確かな体温が移ってきた。強く引き寄せることも、離すことを拒むこともなく、私が望んだ分だけ支えてくれる。
守られるだけなのは嫌だった。けれど、救われることまで拒む必要はない。
一人では見えない方向を、二人なら確かめられる。
その事実が、死の恐怖で冷えた胸をゆっくり温めた。
翌朝、回避された予告に代わって八通目の封書が現れた。
『死亡予告
明日夕刻、花嫁ミレイユ・ローデンは皇帝の召喚状で北塔へ呼び出され、転落して死亡する』
読み終えた直後、扉が叩かれた。
使者が運んできたのは、明日夕刻に私一人で北塔へ来るよう命じる召喚状だった。
その封蝋には、皇帝の指にはめられている印章と寸分違わぬ紋章が刻まれていた。
(第8話へ続く)




