暗闇へ跳ぶ
六通目の黒い封書は、煙の臭いが残る机の上にあった。
『死亡予告
明日夕刻、皇帝は礼拝堂で炎に包まれ焼死する』
明日は先帝の命日。皇帝は夕刻、一人で礼拝堂へ入り、内側から扉を閉ざして祈るという。
「儀式を取りやめれば、少なくとも礼拝堂では死なずに済むかもしれません」
「だが、発行された封書は明日の朝まで変わらない」
皇帝の指摘に、私はうなずいた。
昨夜、私が皇后寝室を離れると公言しても、予告は書き換わらなかった。逃げるだけでは、仕掛けも実行役も残る。別の誰かが部屋へ入り、煙を吸っていた可能性さえある。
「礼拝堂を調べましょう。儀式を行うかどうかは、その後で陛下ご自身がお決めください」
「おまえは、私に中止を命じないのか」
「私が決めることではありません。ただし、危険を見つけたときは止めます。それが私たちの取り決めです」
皇帝は短く息を吐いた。
「分かった。共に調べよう」
礼拝堂は宮殿の北端にあり、石壁も床も燃えにくい。窓は高く、祭壇の周囲にも大量の布はない。炎に包まれるほどの火を起こすには、燃料と逃げ道を奪う仕掛けの両方が必要だった。
私は入口から祭壇までをゆっくり歩いた。
長椅子。燭台。祈祷書。祭壇布。床石の継ぎ目。
一度見た配置を頭の中で組み直し、建物の図面と重ねる。
「祭壇の下に空間があります」
図面の古い線を指でなぞると、皇帝が眉を寄せた。
「先帝の代には塞がれたと聞いている」
実際には、祭壇脇の床石の下に鉄の取っ手が残っていた。近衛兵が二人がかりで持ち上げると、湿った冷気が吹き上がる。地下へ続く階段は途中で崩れていたが、その手前には人が飛び降りられる深さの足場があった。
私は自分で降り、足場の広さと石の強度を確かめた。そこから横穴を進めば、礼拝堂の外へ出られる。
「非常口として使えます。ただ、煙が満ちてから床石を動かすのは難しいでしょう」
「ならば最初から、おまえが下で待つのか」
「陛下が儀式を行うとお決めになるなら」
皇帝はすぐには答えなかった。
「おまえを危険な場所へ置きたくない」
「私も同じです」
思わず言い返すと、彼が目を見開いた。
「陛下を危険な場所へ置きたくありません。でも、だからといって命令だけで閉じ込めれば、私たちの約束を破ることになります」
私は祭壇下の暗がりから彼を見上げた。
「お互いに、拒む理由を告げるのでしょう?」
やがて皇帝は、私へ手を差し出した。
「明日、おまえはこの通路で待て。異変を感じたら、私へ退避を命じろ。私は従う」
「底が見えなくても?」
「おまえが安全を確かめた場所なら」
その言葉の重さに、胸が締めつけられた。
信じてもらえることは、ただ嬉しいだけではない。私の判断が遅れれば、彼は死ぬ。間違った場所へ導けば、私の声を信じた彼を傷つける。
それでも私は、差し出された手を取った。
翌日の夕刻、皇帝は礼拝堂へ一人で入った。
私は先に地下通路へ降り、少し開けておいた床石の下で息を潜めていた。礼拝堂の音はよく聞こえる。扉が閉まり、閂が落ちる重い音。皇帝の足音。衣擦れ。そして祈りの言葉。
最初の異変は、香りだった。
先帝を悼む香は、乾いた木と花の匂いだと事前に確かめている。だが、火に温められた香炉から地下へ流れ込んできたのは、舌の奥が痺れるような甘苦い香りだった。
私はその匂いを覚えていた。
昨夜、煙を吸った私へ届けられ、検査のため使用を止めた鎮静香と同じものだ。侍医長の薬庫から出された包みには、呼吸と心を落ち着ける香と記されていた。
量が多ければ、意識を鈍らせる。
「陛下、香炉から離れてください!」
床下から叫んだ直後、扉の外で金属が擦れた。
内側にあるはずの閂とは別に、外から太い鎖が巻かれたのだ。
皇帝が扉を押す音が響く。
「開かない!」
次の瞬間、祭壇の裏で赤い光が走った。
細い炎は床の継ぎ目を蛇のように進み、長椅子の下へ一気に広がった。透明な油が石の隙間へ流し込まれていたのだ。熱風が床石の隙間から吹き込み、私の頬を焼く。
予告された火だけではなかった。
鎮静香で皇帝の判断と足を鈍らせ、扉を外から封じたうえで、油へ火を放つ。三つの仕掛けが重なって初めて、礼拝堂での焼死が成立する。
それでも封書が告げたのは、最後の死因である炎だけだった。
「陛下、祭壇へ!」
返事がない。
床石を押し上げると、黒い煙が地下へ流れ込んだ。炎の向こうに皇帝の姿が見える。彼は祭壇に片手をつき、かろうじて立っていた。鎮静香を吸ったせいで、足元が揺れている。
私は床石をさらにずらした。
開いた穴の底は、煙の中からは見えない。
「陛下、私の声の方へ三歩です!」
彼が一歩進む。燃えた祭壇布が背後へ落ちた。
「あと二歩!」
二歩目。炎が外套の裾へ触れ、彼は手で払い落とした。
「もう一歩。そのまま、飛び込んでください!」
一瞬の間があった。
確かめる時間はない。私の姿も、着地点も見えない。あるのは、床下から届く私の声だけだ。
皇帝は迷いを捨て、暗い穴へ身を躍らせた。
私は横へ退きながら彼の腕をつかんだ。勢いを支えきれず、二人で足場へ倒れ込む。肩を石壁へ打ちつけたが、手は離さなかった。
「陛下、動けますか」
「動ける。おまえは」
「私も」
頭上で床石が炎にあぶられ、音を立てた。
私たちは身を低くし、地下通路を走った。皇帝の足取りはまだ不確かだったが、意識はある。出口の鉄扉を押し開けると、待機していた近衛兵が駆け寄ってきた。
礼拝堂の正面では、扉へ鎖を巻いた男が取り押さえられていた。油を染み込ませた火縄を握り、捕らえられた給仕と同じ宿舎の札を持っていた。
男が使った香炉の底からは、侍医長の薬庫で保管されていた鎮静香が見つかった。上に通常の香を薄く重ね、冷えた状態での検査をすり抜けていたのだ。
鎮静香の保管庫と調合台帳は、その場で皇帝の管理下へ移された。敵は薬を儀式へ持ち込む経路を一つ失い、扉を閉ざした実行役も捕らえられた。
やがて夕刻の鐘が鳴り終わった。
礼拝堂の屋根から煙は上がっていたが、皇帝は私の隣で呼吸をしている。
二度目の死を、覆した。
封書は、死を成立させる途中の仕掛けをすべて教えてはくれない。鎮静香も、鎖も、油も記さず、最後に命を奪う炎だけを示した。
新たな規則を、私たちは生きて確かめた。
「怖くなかったのですか」
治療室へ向かう途中、私は尋ねた。
「何がだ」
「底も見えない場所へ飛び込むことが」
「怖かった」
皇帝は隠さず答えた。
「だが、おまえが三歩と言った。ならば三歩だった」
胸の奥にあった重い恐怖が、静かに形を変えた。
私は価値がないから捨てられた。誰かの決断に従うだけの人質として、この国へ送られた。
けれど今、皇帝は自分の命を私の判断へ預けた。命令されたからではない。私が確かめたものを、自分の意思で信じたのだ。
震えが遅れて指先へ戻ってきた。
皇帝は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触れてもよいか」
「はい。今は、手を握ってください」
彼の手が私の手を包む。
私も同じ強さで握り返した。
翌朝、七通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日正午、花嫁ミレイユ・ローデンは皇帝の眼前で弩の矢に射抜かれ死亡する』
今度は、彼の声を信じる番が私に回ってきた。
私は封書を傷つけないよう布で包むと、武器庫から護衛用の盾を一枚運ばせた。
そしてその裏面へ、明日、私が立つ位置を自分の手で描き始めた。
(第7話へ続く)




