敵を救う理由
鉄格子の向こうで、給仕は毛布にくるまり震えていた。
その額は、すでに焼けるほど熱い。
私は皇帝へ預けた四通目の封書に浮かぶ銀色の文字を、記憶の中でもう一度確かめた。
『死亡予告
明日正午、捕らえられた給仕は病により死亡する』
正午までは、まだ一日ある。
けれど男の唇は乾き、呼吸は浅く速い。毛布から出た指先は寒さを訴えるように震えているのに、首筋には汗が浮かんでいた。
「いつからですか」
看守へ尋ねる。
「夜明け前から寒いと言い始めました。侍医長の診察を受け、先ほど薬を一服。次は朝二つ目の鐘に飲ませるよう命じられています」
格子脇の台に、湯気の立つ陶器の椀が置かれていた。
私はそれへ近づいたが、触れる直前で手を止めた。
外套の一件で交わした取り決めがある。疑わしい物を勝手に扱わず、互いに検査する。
「その薬を飲ませないでください。水も、別の容器へ替えて」
「ですが、侍医長の命令です」
「ならば皇帝陛下の命令で止めます」
背後から低い声が響いた。
振り向くと、皇帝が二人の近衛兵を従えて立っていた。急いできたのか、外套の留め金さえ掛けていない。
彼は私が差し出した封書を読み、格子の内側へ目を向けた。
「助けるのか。おまえを殺そうとした男だ」
「はい」
即答したつもりだったのに、指は冷たくなっていた。
この男が儀礼剣を突き出した瞬間を、私は一生忘れない。石壁を擦る刃の音も、胸へ迫った銀色の切っ先も、恐怖で息が詰まったことも。
死ねばいい、と考えなかったわけではない。
けれど、その思いに従えば、封書に人の生死を選ばせることになる。
「罪を裁くことと、明日殺されるのを見過ごすことは別です。それに、この人が死ねば命令者へ続く道も絶たれます」
皇帝はしばらく私を見たあと、看守へ命じた。
「薬係をここへ呼べ。今朝、口に入れたものを一つ残らず調べる」
ほどなく侍医長も地下牢へ現れた。
給仕の脈を取った彼は、深刻そうに眉を寄せる。
「牢内の冷気で悪い熱病を得たのでしょう。処方した薬を続けねば正午まで持ちません」
正午。
封書の時刻と同じだった。
偶然かもしれない。だが、私は祝宴前にこの給仕と交わした会話を覚えている。
右手を火傷したと言いながら、翌日には左手へ布を巻いていた男。その嘘ばかりを見ていたからこそ、ほかの部分も鮮明に残っていた。
「この人に熱病の兆候はありませんでした」
「素人に何が分かるのです」
「祝宴の前、彼は厨房の裏で同僚と硬い干し肉を食べ、冷たい水を二杯飲みました。咳も鼻水もなく、顔色も正常でした。私を襲った明朝には、全力で剣を振るい、取り押さえた近衛兵を二人引きずっています」
私は格子越しに男の目を見る。
「それが牢へ入って半日で動けないほど悪化した。症状が出たのは、診察を受けたあとです」
侍医長の顔から表情が消えた。
「熱病には急に発症するものもあります」
「ええ。だから薬そのものを調べます」
皇帝が私の言葉を引き取った。
「先日決めたとおりだ。私と皇后の所持品だけではない。命に関わる物は、私の名でも検査を妨げさせない」
侍医長が反論するより早く、近衛兵が薬係を連れてきた。
まだ若い男だった。両腕で木箱を抱え、こちらを見るなり足を止める。
「その箱を床へ置け」
皇帝が命じる。
薬係は従ったものの、右手だけを箱の陰へ隠した。
私はその動きを見逃さなかった。
「右手を開いてください」
男は逃げようと身を翻した。
近衛兵が即座に押さえ込み、握られていた小さな紙包みを奪う。床へ落ちた包みから、赤褐色の粉がわずかにこぼれた。
侍医長が声を荒らげる。
「牢の害虫を殺す薬だ。患者へ使うものではない!」
「では、なぜ隠した」
皇帝の問いに、薬係は歯を食いしばった。
木箱の中には、同じ形の薬包が六つ並んでいた。そのうち給仕の名札が付いた包みだけ、紙の折り方が違う。
私は祝宴前、厨房で侍医長の薬箱が運ばれるのを見ていた。通常の薬包は角を内側へ二度折る。だが給仕用の包みは、角を一度折っただけだった。
「これは薬庫で包まれたものではありません。あとから中身を替えています」
皇帝は一服目の残りと紙包み、赤褐色の粉を別々の容器へ封じるよう命じた。薬係は拘束され、侍医長には新たな処方を禁じた。
給仕には冷たい布を当て、少量ずつ水を飲ませた。ほかの医師を立会人付きで呼び、呼吸と脈を絶えず確かめさせる。
すでに飲んだものを消すことはできない。
熱が下がる保証もなかった。
私は格子の前を離れず、夜を越えた。
明け方、給仕の震えはようやく弱まった。正午が近づくにつれ、私の胸は締めつけられるように苦しくなったが、追加の薬は一滴も与えさせなかった。
やがて鐘楼から十二の音が響く。
最後の一音が消えたあと、給仕がかすれた声で水を求めた。
生きている。
高い熱は残っている。それでも呼吸は前夜より深く、意識も戻っていた。
予告された死を、越えたのだ。
私は鉄格子へ額を預け、長く息を吐いた。
封書は皇帝や私だけを狙うものではない。私たちを殺そうとした側の人間であっても、明日の死として選ばれる。
黒い封書に、敵味方の区別はない。
「立てるか」
皇帝の手が差し出された。
私はその手を借りて立ち上がる。徹夜で力の入らない足を、彼は私が自分で姿勢を整えるまで支え、それ以上は触れなかった。
「尋問を始める」
「私も同席させてください。この人の言葉も表情も、すべて覚えます」
皇帝はうなずいた。
「許す。おまえは保護されるだけの人質ではない。この件を共に調べる者だ」
胸の奥に、小さな熱が灯った。
祖国に捨てられ、帝国では疑われた私へ、彼は役目を与えたのではない。私の力を認め、隣に立つ権利を渡してくれた。
夕刻、回復した給仕の前に、拘束された薬係の紙包みを並べた。
「毒を入れた者は捕らえた」
皇帝が告げる。
「次は命令した者の名を話せ。おまえを救ったのは、罪を消すためではない。生きて証言させるためだ」
給仕は私を見た。
「なぜ……俺を」
「あなたの死を望むかどうかと、殺されるのを許すかどうかは別です」
長い沈黙のあと、男の唇が震えた。
「薬を渡したのは、侍医長の――」
言葉が途切れた。
廊下の向こうで金属音が鳴っただけで、給仕は頭を抱え、椅子から転げ落ちる。
「言えない……言えば、俺だけじゃない。頼む、もう聞かないでくれ!」
何を恐れているのか問い続けても、男は二度と口を開かなかった。
それでも薬係と偽の薬包は押さえた。敵は薬を運ぶ経路を一つ失った。そして給仕が名を出しかけた事実を、私と皇帝は同じ場所で聞いた。
翌朝、皇帝立会いのもとで黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日夜半、花嫁ミレイユ・ローデンは施錠された皇后寝室で煙を吸い死亡する』
私は文面を読み終えると、封書を傷つけないよう机へ置いた。
寝室を捨てれば、そこへ入る侍女が代わりに煙を吸うかもしれない。発行後に場所を変えたとき、予告がどうなるのかもまだ分からない。
「陛下。皇后寝室を封鎖しないでください」
驚く近衛兵たちの前で、私は鍵を手に取った。
「明日の夜、私は予告どおりあの部屋へ入ります。煙が来る場所を、この手で突き止めます」
(第5話へ続く)




