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自由勅書

『死亡予告

明日午後三時、ミレイユ・ローデンは、皇帝が人質身分を解き、婚姻の継続と解消を本人の選択に委ねる自由勅書へ署名した後、侍医長の短剣により死亡する』


三十五通目の全文を、私は皇帝の前でもう一度読み上げた。


声に出すと、最後の一文が冷たい刃のように喉へ残った。透明板に挟まれた黒い封書は、朝から一文字も変わっていない。破損させれば予告時刻が早まる以上、封蝋にすら触れられなかった。


机上には自由勅書が広げられている。帰国する権利も、婚姻の解消を申し立てる権利も、帝国に残る権利も、すべて私へ返すと記されていた。


窓から差す朝の光が、署名欄だけを白く照らしている。待ち望んだはずの自由と、その直後に訪れる死が、一枚の紙の上で隣り合っていた。


「署名すれば、この予告は実行可能になるかもしれない」


皇帝は羽根ペンを取らずに言った。


「それでも望むのか」


問いかける声は静かだった。けれど、机の端に置かれた彼の指には力がこもっている。私を守るためなら、勅書そのものを延期しかねない顔だった。


「はい。ここで延期すれば、私の自由は侍医長の短剣に奪われます」


私は封書を挟んだ透明板へ触れた。冷たさが指先から腕へ伝わる。


「自由になれば死ぬのではありません。自由を与えられた私を殺す計画が、すでに用意されているだけです」


署名は死因ではない。予告にも、勅書によって死ぬとは書かれていなかった。


恐怖のために署名を止めれば、侍医長は姿を見せずとも私の選択を奪える。それを許した瞬間、私は人質という名の鎖を別の鎖へ掛け替えるだけになる。


翌日の正午、皇帝は私の答えを改めて確かめてから羽根ペンを取った。


「ミレイユ・ローデンの人質身分を、本日をもって解く。婚姻は彼女の意思によってのみ継続され、いかなる不利益もなく解消を申し立てられる」


一字ずつ読み上げ、署名する。ペン先が紙を擦る音が、ひどく大きく聞こえた。帝国印が押されても、黒い封書の文字は変わらなかった。


私は自由になった。


喜びより先に胸へ満ちたのは、足元から鎖が消えたような心細さだった。これまでは、ここにいる理由を人質という立場のせいにできた。だが今からは、去ることも残ることも、私自身が決めなければならない。


祖国への道も、帝国に残る道も、同じ重さで目の前に開かれている。選べるということは、選んだ責任を誰にも預けられないということだった。


皇帝は勅書を私へ差し出した。


「今すぐ答えを出す必要はない」


紙を受け取った私の手が震えていることに、彼は気づいていた。それでも指を重ねて押さえたりはしない。ただ、私が自分で持てるまで待ってくれた。


「ですが、午後三時までに侍医長の短剣は見つけます」


私がそう告げると、彼は初めてわずかに息を緩めた。


侍医長は姿を消した際、薬箱を一つ残らず持ち出していた。けれど武器庫の記録には、もう一つ消えた物があった。


摂政時代、侍医長には戦場で負傷者の衣服や革具を切るため、細身の短剣が支給されていた。刃渡りは私の肘から手首ほど。黒い柄には、滑り止めとして七本の銀線が巻かれている。


私はその短剣を一度だけ見ていた。


婚礼の祝宴で侍医長が私を拘束するよう求めたとき、白衣の隙間から黒い柄が覗いていた。七本目の銀線だけが途中で切れ、針のように尖っていた。あのときは視界の端に残っただけの小さな違和感が、今は刃の所在を示す唯一の印になっている。


「侍医長を追うだけでは足りません。短剣は本人の手になくても人を殺せます」


最初の独房で、皇帝の剣を握っていたのは逃亡した給仕だった。所有者と実行者が一致しないことを、私は忘れていない。


予定どおり自由勅書へ署名するという情報は、宮殿内にも公示されていた。場所は帝国印を保管する署名室。侍医長が狙うなら、私が皇帝の向かいに立つ位置まで予測できる。


私たちは署名室を封鎖せず、壁、床、天井、机を別々に調べさせた。封鎖すれば、潜んでいる者へ発覚を知らせてしまう。近衛兵たちは通常の警備を装い、交代で室内へ入った。


異常を見つけたのは、机の下へ鏡を差し入れたときだった。


天板の裏に、婚礼の日にはなかった細い溝がある。溝は私が立つ側へ向かい、中央の帝国印の台座まで続いていた。指でなぞれば気づかぬほど巧妙に、木目へ紛れ込ませてある。


机を動かさず、周囲の床板を外す。乾いた木の匂いに混じって、薬草と金属の油の臭いが立ち上った。


中から現れたのは、空になった薬箱と、黒い柄の短剣だった。


七本目の銀線が途中で切れている。間違いない。


短剣はばねで水平に射出されるよう固定されていた。帝国印を台座へ戻すと留め具が外れ、その三時間後、錘が落ちて刃を放つ。署名の際、皇帝の向かいに立つ私の腹部を貫く高さだった。


薬箱は時を測る装置になっていた。小瓶から一定の速さで水が落ち、午後三時に錘を傾ける。透明な雫が一滴ずつ落ちるたび、残された時間そのものが削られていくようだった。


「封書の『署名した後』とは、署名が死を起こすという意味ではなかったのですね」


「署名に伴う決まった所作を、仕掛けの起点にしただけだ」


皇帝は装置を見下ろした。自由勅書を止めなかった私の判断が正しかったと安堵するより先に、彼の目には侍医長への怒りが浮かんでいた。


自由を得たことも、婚姻を続けることも、死と引き換えにする必要はない。


前に置かれた条件を残したままでも、そこから死へつながる物理的な鎖だけを断てる。


私たちは短剣を先端の丸い同重量の鉄片と交換し、床板を戻した。水は落ちるままにする。装置を止めれば、侍医長が異変を察して逃げるかもしれなかった。


午後三時の少し前、私は予告どおり机の向かいへ立った。床下から響く雫の音を知ってしまったせいか、静かな室内のどこにいても、それが聞こえる気がした。


皇帝も隣にいたが、私の前へ出ようとはしなかった。短剣が抜かれていると確認したうえで、私が囮になる選択を受け入れてくれたのだ。


その信頼が、守られることよりも強く私を支えた。


三時の鐘と同時に、机の下で錘が落ちた。


鈍い音が響き、丸い鉄片が空の革袋へ突き刺さる。


身体が反射的に強張った。腹部には痛みも熱もない。息を吐いた直後、壁の内側で足音がした。


近衛兵が羽目板を外す。地下調薬室へ続く細い通路から、侍医長が引きずり出された。自分の仕掛けが作動したか確かめるため、床下の覗き穴まで戻ってきたのだ。


その袖には、残った薬瓶と、短剣の鞘が隠されていた。


「七つの死命が消えても、私の知識までは消せぬ」


侍医長は押さえつけられながら吐き捨てた。


「ええ。ですから、あなたが残した物は一つずつ調べます。治療を装って皇帝の血へ入れたものも、私の知覚を偽った薬も」


彼の知識そのものを消すことはできない。けれど、それがどこへ、どのような形で残されたかを突き止めることはできる。一度に一つずつでも、死へ続く仕掛けを断ち切ればいい。


鐘が鳴り終える。


私は自分の腹へ手を当てた。衣服の下には傷一つなく、掌へ返る鼓動だけが確かにあった。


私の身体に刃は触れなかった。


三十五件目の死は回避された。


夜、私は自由勅書を持って皇帝の部屋を訪れた。


昼間の署名室とは違い、室内には小さな灯りが一つあるだけだった。扉が閉じると、紙を握る私の音まで聞こえそうな静けさに包まれる。


「決めました」


皇帝は立ち上がったが、答えを促さずに待った。


「私は祖国へ帰りません。婚姻の解消も申し立てません」


口にした瞬間、胸の奥で絡まっていた不安がほどけた。


人質だからではない。封書に命じられたからでも、恩を返すためでもない。


「自由なミレイユ・ローデンとして、あなたの妻でいることを選びます」


彼の表情が揺れた。伸びかけた手は途中で止まり、私の許しを待っている。


私はその手を取り、自分の頬へ触れさせた。硬い指先の温度が、自由を得たばかりの私をどこにも縛らず、ただ選んだ場所にいるのだと教えてくれる。


「私も、お前を選びたい」


「妻として、ですか」


「明後日、諸侯と民の前で、帝国唯一の皇后として選びたい。だが、受けるかどうかはお前が決めてくれ」


胸の奥に残っていた心細さが、静かな熱へ変わった。


「お受けします」


「口づけてもいいか」


「はい」


彼が身を寄せるのを、私は目を閉じずに待った。触れた唇は誓約ではなく、互いに選んだ答えだった。


その答えによって実行可能になった計画を、翌朝の封書は選び出した。


『死亡予告

明日正午、ミレイユ・ローデンは、皇帝から帝国唯一の皇后に選ばれることを受諾した後、侍医長が皇后誓約文へ塗った記憶混濁薬により足場を見誤り、皇后台から転落して死亡する』


誓約文の保管箱を開けさせると、中は空だった。


薬を塗られた原本はすでに、正午の宣言に使うため大広間の皇后台へ運び込まれていた。


(第36話へ続く)

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