反転する七つの死命
三十四通目の黒い封書は、透明板の間で朝の光を吸い込んでいた。
触れずに読めるよう挟んだ二枚の板には、夜の冷気がまだ残っている。その中央で、濡れたばかりの墨のような文字だけが、不吉な輪郭を保っていた。
『死亡予告
明日正午、オクタヴィア前皇妃は、失効した七つの死命が作成者へ反転し、心臓を停止させ死亡する』
七つの死命。
皇帝を殺すために組まれ、私たちが一つずつ退けてきた命令が、今度は命じた者へ戻る。因果応報という言葉が脳裏をよぎった、その直後だった。
警鐘が鳴り、証拠室の窓から炎が噴き上がった。
朝の静けさを切り裂く鐘と、窓硝子の割れる音が重なる。私は封書を挟んだ透明板を抱え、皇帝とともに廊下へ飛び出した。
「扉を開けてはいけません!」
証拠室前へ着いたとき、近衛兵はすでに鍵を差し込もうとしていた。振り返った兵の頬を、扉越しの熱が赤く照らしている。
私は昨日、黒い誓約台帳を運び入れたときの室内を思い返した。窓は細く、扉の下にもほとんど隙間がない。煙と熱を閉じ込めたあの状態で扉を開けば、一気に空気が入り、炎が廊下へ吹き出す。
皇帝が即座に命じた。
「外壁側から消火しろ。扉は水をかけて冷やせ。中へ入るのは炎が下がってからだ」
兵たちが走る。外から窓へ水が注がれると、白い蒸気が唸るように噴き返した。濡れた石床の匂いに、焦げた革と煤の臭気が混じる。
その奥に、私は覚えのある甘い油臭を感じた。
薬草庫で嗅いだものと同じだった。侍医長の調薬室で、薬瓶の口を密封するために使われていた燃焼油だ。
偶然の火ではない。
しかも炎は証拠室全体へ均等に広がっていなかった。黒い台帳を収めた鉄箱の周囲だけが、炉のように赤い。まるで火そのものが、何を食べるべきか知っているかのようだった。
「証拠を消すためだけではありません」
私は透明板の中の予告へ目を落とした。黒い文字が、腕の中でひどく重く感じられる。
「台帳を焼くこと自体が、明日の死を成立させる条件かもしれません」
皇帝は一瞬も迷わなかった。
「封印を破ってよい。台帳を救い出せ」
火が弱まると、濡らした革外套をまとった兵が室内へ入った。やがて二人がかりで運び出された鉄箱は、片側が黒く焼け、蝶番から細い煙を吐いていた。
二重の封印を記録しながら外し、蓋を開く。
台帳の表紙から、まだ細い煙が上がっていた。
水をかければ、熱を奪えても文字まで滲むかもしれない。私は濡れた厚布で表紙を包ませた。布が触れた途端、焼けた革が低く鳴った。
革の背から伸びた一本の蝋引き紐が、箱の底にある小瓶へつながっている。瓶は熱で割れ、流れ出た油へ紐の火が移っていた。
遅く燃える紐を使い、夜のうちに仕掛けておいたのだ。火災に気づいたときには、台帳だけを確実に焼けるように。
兵が紐を断ち、油瓶ごと砂桶へ沈めた。小さな火が砂の下で消え、甘い臭いだけが残った。
侍医長が残した火の仕掛けは、そこで止まった。
だが台帳の背は焼け、内表紙の一部がめくれ上がっていた。その下から、今まで革に隠されていた細かな文字が現れている。
私は煤を払わず、顔を近づけて文字の並びを目で追った。指で触れて、脆くなった文字まで崩すわけにはいかない。
――七命の失効に際し、命は作成者の血印へ帰る。
――帰命の刻より前に、作成者が自ら誓約を撤回し、血印を断つとき、登録は消滅する。
――他者による抹消を撤回とは認めない。
そして最後の一行だけが、火に焼かれかけていた。
――帳の焼失は撤回と見なさず、帰命を確定する。
「だから燃やしたのですね」
口にした声が、自分のものではないように硬かった。
台帳が灰になれば、オクタヴィアが自ら撤回する手段だけが失われる。侍医長は証拠を消しながら、共犯者の口も永遠に塞ぐつもりだったのだ。死者に罪を語ることはできない。その沈黙まで、彼は計算に入れていた。
地下牢へ運んだ台帳を見せると、オクタヴィアの顔から血の気が引いた。鉄格子から差す冷たい光の中で、彼女の唇だけがかすかに震える。
「これは、あなたの血印ですね」
六つの灰色の円が残り、最後の円があった場所には崩れた灰が散っている。その中央に、黒ずんだ指印がある。
彼女は否定しなかった。
「私が皇帝の死を望み、血を押した。侍医長は、七つすべてが失敗すれば命令が私へ戻ると言ったわ。でも、そんな日は来ないはずだった」
七度のうち一度でも皇帝が死ねば、自分は生き残れる。そう信じていたのだろう。その告白に悔恨がどれほど含まれているのか、私には分からなかった。
「撤回の方法も知っていたのですか」
「知らされていた。けれど、作成者本人が七つの命令を一つずつ取り消し、最後に自分の血印を横断しなければならない」
オクタヴィアは拘束された手を見た。
「あなたが私に刃物を持たせるとは思えないけれど」
「長い刃は渡しません。血印だけを断てる短い鉄筆を使います。腕は兵に支えさせます」
「私が途中であなたを刺すかもしれない」
「その距離には立ちません」
彼女の目が細くなる。助命を申し出る私が、無条件に情けをかけるとでも思ったのかもしれない。
助けることと、無防備になることは違う。死なせないことと、罪を許すことも違う。
皇帝は私の隣で、黙って手順を聞いていた。やがて、人払いをした廊下で私へ尋ねた。
「あの女がお前にしたことを思えば、明日の撤回に立ち会わなくてもよい。私が責任を負う」
石壁から染み出す冷気の中で、胸の奥にまだ短剣の冷たさが残っていた。刃を向けられた瞬間の息苦しさは、思い出すだけで傷の内側をなぞる。
オクタヴィアは私を殺そうとした。皇帝を七度も死へ追いやった。彼女が恐怖に震えているからといって、その罪が軽くなるわけではない。
それでも、彼女が作った死に彼女自身を裁かせれば、最後に勝つのは侍医長だ。私は怒りに任せて彼の筋書きを完成させたくなかった。
「立ち会います」
私は自分で答えた。
「彼女のためだけではありません。死を命令に使う者へ、最後まで従わないためです」
皇帝は決断を取り上げず、説得し直そうともせず、ただ頷いた。
「では、共に終わらせよう」
翌日の正午前、オクタヴィアは机に固定された台帳の前へ座った。
両手の縄は解かなかった。右手の親指と人差し指だけが動くようにし、先端をわずかに尖らせた鉄筆を持たせる。私と皇帝は鉄格子の外に立ち、侍医と近衛兵が彼女の脈と動きを見守った。
鐘が鳴り始める。
一つ目の音が地下牢を震わせた。オクタヴィアの肩が跳ね、鉄筆の先が台帳の上で小さく滑った。
彼女は六つの灰色の円を一つずつ指し、最後に崩れた灰へ視線を止めた。
「杯の死命を撤回する。炎の死命を撤回する。矢の死命を撤回する」
声は震えていた。それでも言葉を省かず、七つすべてを自分の声で取り消した。
最後に鉄筆を血印へ置く。
「私、オクタヴィアは、皇帝の死を命じた誓約を撤回する」
黒い指印を横切る一本の線が引かれた。
耳障りな引っかき音とともに、六つの灰色の円から糸のような亀裂が中央へ走った。最後の円が残した灰も血印へ集まり、横線に触れたところで、亀裂とともに白い粉となって崩れた。
誰も声を発しなかった。鐘の余韻と、オクタヴィアの浅い呼吸だけが続く。
正午の鐘が鳴り終えた。
侍医が脈を数え、静かに頷く。
オクタヴィアの心臓は止まらなかった。
三十四件目の死は回避された。
反転した死命も、逃れられない罰ではない。封書が告げた時点では、まだ実行可能な死として登録されているにすぎなかった。
他人の異議で断てる命令もあれば、命じた本人にしか消せない命令もある。
自ら選んだことなら、自ら撤回する責任と権利も残るのだ。
牢を出たところで、張り詰めていた力がようやく指先から抜けた。私は皇帝の手へ自分の指を重ねた。
彼はすぐには握らなかった。握ってよいかと確かめるように掌を開いた。私はその中へ、ためらわず手を預けた。触れ合った皮膚から、確かな温かさが伝わってくる。
「あなたが私の代わりに決めなかったことが、嬉しかったのです」
「お前の選択だから信じた」
「では、これからする選択も信じてください」
彼の指が、私の同意を受け取ってから静かに閉じた。
翌朝、三十五通目の封書にはこう記されていた。
『死亡予告
明日午後三時、ミレイユ・ローデンは、皇帝が人質身分を解き、婚姻の継続と解消を本人の選択に委ねる自由勅書へ署名した後、侍医長の短剣により死亡する』
私は予告を最後まで読み、皇帝の前へ自由勅書を差し出した。
「陛下。予定どおり、これに署名してください」
(第35話へ続く)




