封書のない明日
黒い封書を、私は透明板の下へ置いた。
『死亡予告
明日正午、ミレイユ・ローデンは、皇帝から帝国唯一の皇后に選ばれることを受諾した後、侍医長が皇后誓約文へ塗った記憶混濁薬により足場を見誤り、皇后台から転落して死亡する』
大広間の扉の向こうでは、明日の正午の宣言に備える人々のざわめきが続いている。
薬を塗られた誓約文は、すでに皇后台の書見台へ載せられていた。封書が現れた後に場所を変えても、予告は書き換わらない。だが、書かれた死が避けられない未来になるわけでもない。
「宣言を延期する」
皇帝の声に、私は首を横へ振った。
「延期するかどうかも、二人で決めると約束しました」
「死ぬ危険を冒してまで、明日である必要はない」
「はい。ですから、危険を冒すつもりはありません」
私は皇后台を見上げた。
正面に五段の階段。背後には、幕に隠れた細い降り段。幼いころから宮廷儀礼を見慣れた者なら、薬で意識が混濁しても正面へ戻ろうとするはずだと考えるだろう。
けれど私は、この大広間を初めて見た日の景色を、一度も忘れていない。
「背後の降り段は三段しかありません。最下段がなく、幕の外は床まで人の背丈ほど落ちている。薬で前後を取り違えれば、踏み出した足は空を踏みます」
以前の私なら、記憶している景色だけで断定していた。
だが、完全に覚えていることと、それが真実であることは同じではない。侍医長の薬が教えたのは、記憶を失わせる方法ではなく、偽りの知覚を鮮明な記憶として残す方法だった。
「確認してください」
近衛兵が長柄で幕を上げ、別の者が床板を測った。報告は私の記憶と一致した。最下段は外され、落下地点の敷石には、頭を打たせるための鉄板まで埋め込まれていた。
誓約文だけが凶器ではない。薬で足場を誤らせ、その先に致命的な落下を用意する。いくつもの仕掛けが一件の死へ結ばれていても、封書は最後に私を殺す因果だけを記す。
「台を使わなければいいのだな」
「それだけでは足りません。侍医長は、失敗を確かめる者を残しているはずです」
昨日、書見台へ原本を置いたのは二人の記録係だったと報告されている。私はその二人の顔を覚えていた。一人は右の眉尻に傷があり、もう一人は歩くたび左肩が下がる。
今朝、大広間の脇廊下で見た記録係は、左肩を意識して下げていた。
記憶だけを証拠にはしない。
近衛兵が脇廊下を封鎖し、男の手袋を外させた。指には黒い染料。袖口からは、侍医長が調薬室で使っていたものと同じ甘苦い臭いがした。さらに腰布の内側から、逃走中に失ったはずの侍医長印が見つかった。
帽子と頬当てを外された顔は、侍医長とは似ても似つかなかった。
「記録係の顔まで覚えていたのか」
拘束された男は笑おうとしたが、その声にはもう余裕がなかった。
「ええ。ですが、顔だけを証拠にはしません」
男の右手には、薄い薬膜を塗った手袋がはめられていた。混乱に乗じて私へ触れるつもりだったのだろう。近衛兵は布を重ねて腕を包み、彼を連れ出した。
原本は誰にも触れさせず、透明な覆いごと書見台から外した。皇后台の背後には仮の柵を設け、落下地点の鉄板も撤去させる。
それでも私は台へ上がらなかった。
皇帝と私が立つ場所を、大広間の床へ移した。同じ高さで、向かい合うために。
「誓約文はどうする」
「読みません」
私は自分の胸へ手を置いた。
「誰かが書いた言葉をなぞらなくても、私の答えは覚えています」
翌日の正午の鐘を前に、大広間の扉が開いた。
諸侯も使節も民の代表も、空になった皇后台を見てざわめいた。皇帝は彼らを見渡し、まず二日前に署名した自由勅書を読み上げた。
ミレイユ・ローデンの人質身分を解くこと。
帰国する権利も、婚姻の解消を申し立てる権利も、何人にも妨げられないこと。
その権利は、皇后となっても失われないこと。
すべてを告げた後、彼は私へ向き直った。
「ミレイユ・ローデン。私はお前の記憶だけを求めるのではない。私の誤りを問い、命令を疑い、それでも共に歩くかを自ら決める者として、お前を帝国唯一の皇后に選びたい」
救った命への褒美ではない。
人質を飾り直す宣言でもない。
私がこれからも彼へ異議を申し立てられる者だから、隣に立つことを求めている。
「受けてもよいか」
婚礼の日と同じように、彼は最後の決定を私へ返した。
あの日の私は、祖国に価値がないと見捨てられ、生き残るために自分の記憶へしがみついていた。明日の死を知る封書だけが、私に残された武器だと思っていた。
けれど私は、一人で三十五件の死を覆したのではない。
疑われても助けを求め、確かめ、間違いを認めた。彼の命令へ異議を述べ、彼も私の拒否を受け止めた。自由とは、何も選ばずに済むことではない。答えを変えられるまま、今日の答えを自分で引き受けることなのだ。
「お受けします」
私は彼の目を見て続けた。
「自由なミレイユ・ローデンとして、あなたと共にこの帝国を治めます。あなたが誤れば止めます。私が誤れば、どうか問い返してください」
「約束する」
正午の鐘が鳴った。
一つ、二つと音が重なっても、私の視界は揺れない。足の下には高い台も、欠けた段もない。
最後の鐘が消えたとき、私は皇帝の隣で立っていた。
三十六件目の死は回避された。
オクタヴィアが七つの死命を撤回した事実も、侍医長が治療を装って皇帝の血へ七度呪いを定着させた事実も、公の記録へ残された。撤回は罪を消さない。二人は生きたまま裁きを受け、給仕、書記、設備係らも、それぞれが選んだ行為について証言することになった。
押収文書を照合すると、侍医長の短剣と皇后誓約文が、失効せず残っていた最後の補助計画だった。七つの核は砕け、作成者の血印は撤回され、実行可能な死命はもう一つも残っていなかった。
翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
胸の上にも、枕元にも、黒い封書はなかった。
陽が昇りきるまで待っても、何も現れない。
「ないのか」
隣室から来た皇帝が、寝台へ近づく前に尋ねた。
「はい」
私は空の掌を開いた。
「明日の死は、もう誰にも命じられていません」
喜びより先に、わずかな怖さがあった。封書がなければ、明日起こることを私は知らない。完全な記憶にも、まだ見ていない未来は残らない。
けれど、それでいい。
皇帝が手を差し出した。
「触れてもいいか」
「はい」
私は待つのではなく、自分からその手を取った。
封書のない朝は静かだった。死を覆した証も、未来の保証もない。ただ、選び直せる今日がある。
私はもう、価値を決められる人質花嫁ではない。
帝国唯一の皇后として。そして何より、私自身として。
覚えていない明日へ、彼と並んで歩き始めた。
(完)




