留め金の内側
『死亡予告
明日午前十時、オクタヴィア前皇妃は、皇后ミレイユ・ローデンが両手の拘束を解いた後、侍医長が調合した薬による内出血で死亡する』
侍医長は薬箱ごと消えた。
けれど、封書にある薬は、まだ彼の手にあるとは限らない。
「すでにオクタヴィアの体内へ入っている可能性があります」
私が言うと、皇帝はすぐ近衛兵へ地下牢の封鎖を命じた。食事も水も寝具も交換せず、何一つ触れさせない。ただし、オクタヴィア本人への処置は私の判断を待つように、と付け加える。
命令を終えた彼が、私へ向き直った。
「お前が彼女を救う義務はない」
「分かっています」
昨日、オクタヴィアは私の胸へ短剣を突き立てようとした。その刃が袖を裂いた感触は、まだ肌に残っている。
怖くないはずがなかった。
それでも、逃げた侍医長に彼女の死を決めさせたくはない。
「救うと決めるのも、救わないと決めるのも、恐怖に選ばせたくありません。私は、彼女を生かして裁きの場へ立たせます」
「それは、お前の自由な意思か」
北塔で交わした問いだった。
今は命令ではない。それでも彼は、私の答えを確かめてくれた。
「はい」
地下牢へ下りると、オクタヴィアは石壁に背を預けて座っていた。
顔色は悪いが、呼吸も受け答えも乱れてはいない。両手首には、幅の広い黒革の拘束具が巻かれていた。
私は足を止めた。
昨日、地下通路で捕らえられた彼女の手首を縛っていたのは、白い縄だった。結び目は右手の甲側に二つ。縄が擦れて皮膚が赤くなっていたことまで覚えている。
「その革は、いつ着けられたのですか」
オクタヴィアは眉を寄せた。
「牢へ移される前よ。侍医長が、縄では傷が深くなると言って替えたわ」
侍医長は拘束された共犯者を診察するという名目で、短時間だけ彼女に接触していた。その後、夜明け前に姿を消している。
逃亡していても、仕掛けを昨日のうちに残しておけば、死は実行可能なままだ。
私は牢の外から燭台を寄せてもらい、磨いた銀板を拘束具の下へ差し入れた。
黒革の内側に、小さな膨らみが並んでいる。革を柔らかくするための詰め物にしては、位置が整いすぎていた。
さらに留め金の隙間へ光を当てる。
細い銅線が見えた。
銅線は留め金の舌から革の内側へ入り、縫い目の奥へ続いている。
「普通に外せば、この線が引かれます」
皇帝が私の隣へ膝をついた。
「内側の膨らみを潰す仕掛けか」
「おそらく」
薬を染み込ませてあるだけなら、拘束されている間に死ぬはずだ。だが予告は、私が拘束を解いた後と明記している。
留め金を外す動作そのものが、薬を送り込む引き金なのだ。
オクタヴィアの唇から血の気が引いた。
「なら、外さなければいいでしょう」
「このままでは侍医長の狙いどおりです。十時まで待つ間に、別の仕掛けが動くかもしれません」
「私を使って確かめるつもり?」
「いいえ。仕掛けを動かさず、私があなたを解きます」
予告当日の午前九時四十分。
牢の中央に作業台を置き、オクタヴィアの腕を動かないよう布で支えた。床には薬を受ける灰と厚布を重ね、私たちは革手袋を二重に着けた。
留め金には触れない。
銅線を細い鉗子で挟み、張力を止める。そのうえで留め金と反対側の革を少しずつ切り開く。縫い目の下から現れたのは、薄い硝子の管と、手首へ向けられた幾つもの短い中空針だった。
留め金を引けば銅線が硝子管を割り、中の薬が針を通って皮膚へ入る。
私の手が震えた。
昨日、短剣が胸をかすめた瞬間を思い出したのだ。
皇帝は刃を奪わなかった。ただ、私の視界へ自分の手を差し出した。
「支えが必要なら使え」
私は一度息を吐いた。
「手首を固定してください。切るのは私がします」
「ああ」
彼の手が、私の手袋の上から力の方向だけを支える。
刃先を進めるのは私だった。止めるのも、再び進めるのも、私が決められた。
革が切れ、一つ目の拘束具が開く。留め金は閉じたまま、硝子管にも亀裂はない。
二つ目も同じ手順で切った。
午前九時五十六分。
私はオクタヴィアの両手を作業台から離した。
予告に記されたとおり、私が拘束を解いた。
だが、留め金は一度も開いていない。
侍医長が想定した解き方だけを、私たちは選ばなかった。
拘束具の硝子管から採取した液は、血を固まりにくくする薬だと確認された。中空針の先端にはオクタヴィアの皮膚へ押し当てられた痕があったが、管が割れていないため、致死量は入っていない。
十時の鐘が鳴った。
オクタヴィアの皮膚にも呼吸にも、内出血の兆候は現れなかった。侍医は万能の治療などないと告げたうえで、微量の付着に備えて安静と継続観察を命じた。
十時の鐘が鳴り終える。
三十二件目の死は回避された。
封書が記すのは、行動によって生じる結果であって、その行動の方法までは固定しない。
「拘束を解く」と書かれていても、留め金を外せとは書かれていなかった。同じ結果へ至る別の手段を私たちが選べば、敵が途中へ隠した仕掛けだけを切り離せる。
私は新しい白縄をオクタヴィアへ見せ、指が二本入る余裕を残して結び直させた。
「結局、また私を縛るのね」
「裁きを受けるまでです。あなたを許したわけではありません」
「では、なぜ助けたの」
「あなたを殺したかった者に、あなたの最期を選ばせないためです」
しばらく沈黙した後、オクタヴィアは、閉鎖された医局の地下に調薬室があると認めた。侍医長が摂政時代から使い続け、皇帝の診療記録と黒い誓約台帳を保管していた部屋だという。
皇帝は彼女の証言だけで扉を開けず、まず外部から構造を調べると決めた。
牢を出ると、張り詰めていた力が一度に抜けた。皇帝が腕を差し出したが、私が選ぶまで触れずに待っている。
私は自分から、その腕を取った。
「隣にいてください」
「お前が望む限り」
敵を生かすという私の選択を、彼は疑わず、それでも私一人の責任にはしなかった。
その信頼が、次の朝には皇帝の死因へ変えられた。
『死亡予告
明日午後四時、皇帝は、皇后ミレイユ・ローデンがオクタヴィア前皇妃の証言に基づき侍医長の地下調薬室を開いた後、血中に定着した第七の死命により死亡する』
第七の死命。
封書が初めて示したその言葉を見た瞬間、私は透明板を抱えて寝室を飛び出した。
侍医長を捜すより先に、皇帝の血へ何を七度入れたのか、オクタヴィアから聞き出さなければならない。
(第33話へ続く)




