解く権利
三十一通目の黒い封書には、こう記されていた。
『死亡予告
明日正午、皇后ミレイユ・ローデンは、皇帝に自ら命じて両手を拘束させた後、オクタヴィア前皇妃の短剣により胸を刺され死亡する』
胸を刺される。
その一文を目で追っただけで、心臓の真上に冷たい切っ先を押し当てられたような錯覚がした。
けれど今回の予告には、私の意思が条件として組み込まれている。
私が命じなければ、最初の条件は成立しない。
それなら、両手を縛らせなければよい。そう結論づけるのは簡単だった。
けれど命じなければ、オクタヴィアを潜伏先から引きずり出す機会も失われるかもしれなかった。
封書を透明板で挟み、誰の指も紙へ触れられないようにした後、私は先ほど持ち上げた拘束用の白縄を卓上へ広げた。
太さも、長さも、宮殿で罪人の移送に使われるものと同じだった。乾いた麻の匂いも、表面のざらつきも、不自然には見えない。
だが、指先で撚りを少しずつ広げたとき、麻の繊維の奥で硬いものが光った。
細い銅線だった。
縄の端へ通された輪と結ばれている。両手首へ巻いた後、余った縄を一度強く引けば、銅線が輪を締める仕組みだ。普通の結び目なら指一本分の緩みを作れても、この縄は動くほど肉へ食い込む。力任せに抜こうとすれば、手首を傷つけるだけだろう。
「誰かが、私が拘束された後も逃げられないようにしたのですね」
声に出すと、予告が急に現実の重みを持った。
皇帝は縄へ手を伸ばしかけ、途中で止めて私を見た。
「触れてもいいか」
「はい」
私の返事を聞いてから、彼は私の手ではなく、まず縄を受け取った。短刀の刃先を撚りへ差し入れ、表面だけを慎重に裂く。麻糸が一本ずつ切れるかすかな音の後、内側から銅線と小さな鉤が現れた。
拘束そのものが死因ではない。だが、短剣を避ける自由を奪うための仕掛けだった。
白縄を用意した係は、すでに姿を消していた。残された受領札には、摂政時代の罪人移送印が押されていた。とうに使われなくなったはずの印が、鮮明な朱色で紙に残っている。
さらに西回廊の水盤から、油紙に包まれた指示書が見つかった。
『皇帝が花嫁の両手を縛ったなら、白布を掲げよ。西の貯水槽へ移す』
花嫁。
皇后でも、ミレイユでもない。人質としてこの国へ送られてきた頃の私を指す呼び方だった。
オクタヴィアは、私が再び人質として扱われたように見えたときだけ、隠れ場所を変えるつもりなのだ。
私は指示書から目を上げた。
「私を縛る場面を見せれば、監視役が動きます」
「だが、予告された順序へ自分から入ることになる」
「はい」
即答した声とは裏腹に、指先は冷えていた。
祖国から価値がないと切り捨てられたときも、婚礼の後に牢へ入れられたときも、私の自由は他人の都合で奪われた。縄を見るだけで、牢の湿った空気や、閉ざされた扉の音まで鮮明によみがえる。
たとえ罠を破るためでも、自分から両手を差し出せば、あの感覚が戻ってくる気がした。
皇帝は私の震えを見落とさなかった。
「命じなくてもいい」
低い声だった。決断を促す響きはない。
「オクタヴィアを逃がしたとしても、お前が拒んだ結果を私は責めない」
その言葉を聞いて、胸の奥で強張っていたものがわずかにほどけた。拒めない命令ではない。彼が差し出しているのは、従うか否かを私自身が選べる余白だった。
「怖いからやめることも、選択です」
私は冷えた指を一度握り、ゆっくり開いた。
「ですが、怖いまま進むことも、私の選択であっていいはずです」
私は銅線を抜いた別の白縄を卓上へ置いた。太さも色も同じだが、結び目の中央には、短く引けば全体がほどける輪を作ってある。
「私が『解いて』と言えば、すぐにこの端を引いてください」
「声が出せなかったら?」
「右手の親指を二度動かします」
皇帝は実際に縄の端を引き、結び目がほどけることを確かめた。もう一度結び直しながら、私の顔を見る。
「分かった。それまでも、少しでも嫌だと思ったら手を引け。理由を説明する必要もない」
彼は私の前へ片膝をついた。
皇帝が皇后を屈服させる姿ではない。私が渡す条件を、一つずつ受け取り、それを守ると示す姿だった。
「右手首へ触れてもいいか」
「はい」
温かな指が、私の右手首を支えた。
「左も?」
「はい」
「結ぶぞ。それでいいか」
胸の奥で恐怖が膨らんだ。息を吸っても、肺の半分までしか空気が入らないように感じる。
それでも、私は彼の目を見て答えた。
「私の意思で命じます。両手を拘束してください」
縄が手首を包んだ。
強くはない。痛みもない。麻と肌の間にはわずかな隙間もある。それでも、両手を別々に動かせないという事実だけで息が浅くなる。
皇帝の指は縄の端を握ったまま、いつでも解ける位置から動かなかった。私が手を引けば、彼の手もそれに従う。逃げ道が残されていることを、言葉ではなく触れ方で教えてくれていた。
西回廊の向こうで、白布が上がった。
物陰から一人の男が走り出す。待機していた近衛兵が、気取られない距離を保って後を追った。
罠は動き始めた。
私たちは男が消えた通用口へ向かった。行き先は、使われなくなった西の貯水槽だった。石壁の裏に、摂政時代の私室へ続く狭い通路が残されていたという。
正午まで、あとわずかだった。
地下へ下りるにつれ、窓から差し込む光が細くなった。足音が石段へ硬く反響し、湿った石と古い油の匂いが鼻を刺す。手すりに触れることもできない私は、皇帝の歩幅と背中だけを頼りに、一段ずつ下りた。
先行した近衛兵が二つの退路を塞ぐ。だが、最奥の鉄扉は、軋んだ音を立てて内側から開いた。
現れた女を見て、皇帝が低く名を呼んだ。
「オクタヴィア」
前皇妃は喪服のような黒衣をまとっていた。頬は痩せていたが、こちらを見る目には衰えがない。右手には、黒い宝石を柄頭へ埋め込んだ短剣がある。
押収済みの儀礼具目録に描かれていた、摂政就任時に彼女へ下賜された短剣と一致した。
持ち主は、確かにオクタヴィアだった。
予告の文面が頭の中でもう一度つながる。皇帝。拘束された両手。オクタヴィアの短剣。そして、私の胸。
「自分で妻を縛って連れてくるとは、最後には正しい価値を見定めたようね」
オクタヴィアの視線は皇帝へ向けられていた。私の意思など、初めから存在しないものとして扱う声だった。
「違います」
私は拘束された両手を上げた。震えはまだ残っている。それでも、隠さなかった。
「ここへ来ると決めたのも、縛るよう命じたのも私です。けれど、いつまで縛られているかを決めるのも私です」
遠くで、正午の鐘が鳴り始めた。
一打目が地下の空気を震わせる。
オクタヴィアが床を蹴った。
黒衣が翻り、短剣の切っ先が、まっすぐ私の胸へ迫る。恐怖で喉が塞がりかけた。けれど皇帝の指が縄の端にあることを、手首へ伝わるわずかな動きで感じた。
「解いて!」
皇帝が即座に縄の端を引いた。
結び目が崩れ、両手が左右へ離れる。自由になった腕の重さに引かれるように、私は半歩だけ身をひねった。
短剣は袖を裂き、冷たい風を残して胸の脇を通り過ぎる。
皇帝がオクタヴィアの手首をつかみ、近衛兵が背後から肩を押さえた。石床へ落ちた短剣が、鐘の音より鋭く鳴った。
私は動けなかった。
最後の鐘が消えるまで、自分の胸へ手を当てていた。
掌の下で、鼓動がある。
速く、乱れている。それでも確かに、生きている者の鼓動だった。
三十一件目の死は回避された。
封書に記された条件は、一度成立すれば消えない鎖ではない。
私は確かに皇帝へ命じ、両手を拘束された。けれど予告は、その拘束が死の瞬間まで続くとは告げていなかった。途中で状態を変えれば、その後に予定された死から逃れられる。
そして、命令に同意したことは、撤回する権利まで手放すことではない。
地上へ戻る途中、皇帝は足を止め、縄が擦れて赤くなった私の手首を見た。
「触れてもいいか」
「はい」
彼の指が、縄の跡を避けて私の手を包む。その温かさに触れた途端、ようやく深く息を吸うことができた。
「私は命じた後でも、解いてと言ってよかったのですね」
「ああ。何度でも言え」
彼の手に、ほんの少し力がこもった。
「昨日の同意で、今日のお前を縛るつもりはない」
私はその手を握り返した。
自由とは、最初に選ぶ権利だけではない。
選んだ後に恐れ、立ち止まり、違う答えを告げる権利も含まれている。彼が守ると言ったのは、そのすべてだった。
オクタヴィアは短剣と引き離され、両手を拘束されて地下牢へ移された。
だが翌朝、三十二通目の封書は、私たちの立場を反転させた。
『死亡予告
明日午前十時、オクタヴィア前皇妃は、皇后ミレイユ・ローデンが両手の拘束を解いた後、侍医長が調合した薬による内出血で死亡する』
昨日まで私を縛ろうとした女を、今度は私が解放しなければならない。
封書を読み終えた直後、侍医長の居室を捜索していた近衛兵が、息を切らして駆け込んできた。
「侍医長が消えました。薬箱も、一つ残らず持ち出されています」
(第32話へ続く)




