問い返す者
三十通目の封書を、私は声に出して読み直した。
『死亡予告
明日午前十一時、皇帝は、皇后ミレイユ・ローデンが発した退避命令に従って北塔の避難室へ入った後、切断された主柱の崩落により死亡する』
偽造命令でも、複写された署名でもない。
私自身の命令が、彼を死へ導く。
けれど皇帝は、私が差し出した手を握り返す前に尋ねた。
「今、触れてもいいか」
「はい」
重なった指の温かさが、喉元に刺さっていた恐怖を少しだけ溶かした。
「明日だけではない」
彼は言った。
「これからお前の命令が誰かの命に関わるたび、必要なら問い返す。だが、それをお前への不信だとは思わないでほしい」
「私も、疑われたとは思いません。問い返されても答えられる命令だけを出します」
皇后になれば、迷いが消えるわけではない。
ただ、迷ったときに誰と確かめるかを選べる。
私たちは封書を破損しないよう透明板で挟み、北塔の図面を開いた。
北塔の避難室は、宮殿南側で火災や襲撃が起きた際、皇帝を退避させるための部屋だった。摂政時代に改修され、分厚い石壁と鉄扉を備えている。
図面では、部屋の中央を貫く一本の樫の主柱が、上階と屋根の重量を支えていた。
「切断されているなら、今すぐ調べられます」
「封書に書かれたのは明日の崩落だ。今、入るだけなら死因は成立しないかもしれない。だが安全とは限らない」
「ですから、あなたは入らないでください。私が外から確認します」
言い切った途端、彼の眉がわずかに寄った。
私は自分の言葉を聞き直した。
また一人で危険へ入ろうとしている。
「訂正します。私も中へは入りません。まず設備係に柱の外装を外させ、扉の外から確認します」
彼はうなずいた。
命令を改めることは、弱さではない。昨日、それを学んだばかりだった。
北塔の避難室へ着くと、私たちは鉄扉を開放したまま固定した。柱の周囲には、皇帝の権威を示す金色の蔦模様を刻んだ青銅板が巻かれている。
婚礼後、私は一度だけこの部屋を案内されていた。
そのとき、蔦の葉は十一枚だった。
今は十二枚ある。
増えた一枚だけ、輪郭が鋭く、彫り溝に古い煤が入っていない。
「あの葉の裏です」
青銅板を外すと、樫の柱は床から手の幅ほど上で、ほとんど切断されていた。
残っているのは指二本分ほどの木だけだった。切断面を鉄の輪が締めつけ、辛うじて柱を立たせている。
さらに鉄輪から細い鋼線が伸び、壁の内側へ消えていた。
図面を重ねると、その先にあるのは緊急遮蔽板の巻き上げ軸だった。
午前十一時。宮殿で退避鐘が鳴ると、避難室の窓を守る鉄板が一斉に下りる。その回転が鋼線を巻き取り、柱を支える鉄輪を引き抜く仕組みだ。
私の命令で皇帝が入室する。
扉が閉まる。
遮蔽板が下りる。
そして屋根が落ちる。
一つの命令に、敵はこれほど多くの当然を結びつけていた。
「柱を交換すれば、実行役は罠が露見したと知ります」
私が言うと、皇帝は切断面を見たまま答えた。
「ならば、支えたうえで残す」
設備係は上階の荷重を四本の鉄柱へ移し、さらに石壁との間へ横梁を渡した。鋼線は途中で切り離し、同じ重さの鉄塊へつなぎ替えた。
見た目だけなら、罠はまだ生きている。
翌日、午前十時四十分。
南の文書棟から煙が上がった。
窓の下で、退避鐘が三度鳴る。
火災を示す間隔だった。
報告に来た近衛兵の袖には灰がついていたが、焦げ跡はなかった。煙には木ではなく、香料庫で使われる樹脂の甘い匂いが混じっている。
火事に見せかけた煙だ。
それでも、宮殿にいる者を危険へ置いたままにはできない。
「文書棟と南回廊の者を中庭へ退避させてください。火元を確認するまで、扉は開放したままに」
私が命じると、人々が動き始めた。
残るのは、皇帝への命令だった。
十時五十八分。
私は彼の前へ立った。
怖かった。
罠を外したと分かっていても、自分の言葉で彼を死の場所へ進ませることが。
「陛下。北塔の避難室へ退避してください。私も同行します」
彼はすぐには動かなかった。
約束どおり、私の目を正面から見て問うた。
「それは、お前の自由な意思か」
胸の奥で、答えが形になるまで待った。
敵に迫られたからではない。皇后らしく見せるためでもない。
罠を終わらせ、次に同じ部屋へ送られる者をなくすために、私は進むと決めた。
「はい。危険も、回避策も理解したうえで、私が選んだ命令です」
「分かった。従う」
彼は手を差し出した。
「共に入ってもいいか」
「はい」
私たちは並んで北塔へ向かった。
避難室へ入った直後、十一時の鐘が鳴った。
鉄扉の外で、誰かが遮蔽板の操作鎖を引く。
壁の中から鋼線が走る音がした。
鉄輪が柱から抜け落ちる。
だが屋根は落ちなかった。
四本の鉄柱が荷重を受け、横梁が低く軋んだだけだった。
扉の外で逃げようとした設備係が近衛兵に取り押さえられた。衣服から、摂政時代の北塔操作札と、煙を起こす樹脂片が見つかった。
十一時の鐘が鳴り終える。
私は生きている皇帝の手を、確かに握っていた。
三十件目の死は回避された。
今回、封書は私の命令を避けろとは告げていなかった。
命令そのものが死を生むのでもない。登録された計画は、本人の意思、従う者の行動、物理的な仕掛けを一つの鎖として扱う。そのどこか一つを断てば、予告された順序をあえて辿っても、死は成立しない。
そして命令者が名指しされた場合、偽造や代行では置き換えられない。敵は私が自分で命じる状況を作らなければならなかった。
私の意思は、敵に利用される弱点であると同時に、敵が勝手に作れない最後の条件でもある。
避難室を出た後、皇帝が言った。
「問い返したとき、お前が『違う』と答えても、私は従うつもりだった」
「命令に従わないことを、私の意思に従うと?」
「ああ。お前の地位ではなく、お前の答えを選ぶ」
私は彼の手を握り直した。
「なら私も、あなたが問い返せる皇后でいます」
恐れず命じることより、恐れていると認めたうえで確かめること。
それが私たちの間にある、新しい信頼だった。
翌朝、三十一通目の封書が現れた。
『死亡予告
明日正午、皇后ミレイユ・ローデンは、皇帝に自ら命じて両手を拘束させた後、オクタヴィア前皇妃の短剣により胸を刺され死亡する』
今度、皇帝へ命じるのは退避ではない。
私自身の自由を奪わせる命令だった。
私は封書を透明板で挟むと、拘束用の白縄を一本持ち上げた。
「オクタヴィアの潜伏先を探します。彼女が短剣を持っているのか、居場所を突き止めて私の目で確かめます」
(第31話へ続く)




