祖国の矢
『死亡予告
明日午前九時、ミレイユ・ローデンは、祖国の使節が放つ矢により死亡する』
二十三通目の封書を貫いた矢が、机を震わせていた。
びぃん、と矢柄が鳴る。耳の奥まで刺すような音だった。
黒紙は裂けた。
予告時刻は、明日の午前九時から、封書が破損した今この瞬間へ繰り上がった。
理解した途端、皇帝に腕を引かれ、私は床へ伏せた。頬に冷たい石床が触れた直後、二本目の矢が風を切り、背後の壁へ突き立つ。
白い漆喰の欠片が髪へ降りかかった。
私の胸があった高さだった。
「窓を閉めろ! 盾を持て!」
皇帝の声に応じ、近衛兵が窓の前へ盾を並べた。金属の縁が激しくぶつかり、分厚い鎧戸が閉じられる。満ちていた朝の光は、たちまち刃のような細い筋になった。
皇帝は私を覆うように身を低くしていた。
「お怪我は」
「ない。お前は」
「ありません」
答えた声がわずかに掠れた。
彼の肩越しに、二本の矢を見る。
黒い羽根。銀色に塗られた鏃。矢柄の末端には、三本の浅い刻み目。
私はあの矢を見たことがある。
祖国の使節団が帝都へ入った日、先頭の儀仗兵が背負っていた矢筒に、同じ矢が十二本収められていた。三本の刻み目は、寒冷地で手袋をつけたまま矢の向きを判別するためのものだと、幼い頃に教わった。
雪の演習場で、凍えた指を矢柄へ滑らせた記憶まで蘇る。祖国の技術を誇らしく教えた兵士たちの声が、今はひどく遠かった。
封書は、実行役について嘘をついていない。
本当に、祖国の使節団の中から放たれた矢だ。
胸の奥が冷えた。
人質として差し出しただけでは足りず、今度は殺すための手まで送ってきたのか。
悲しみより先に、鈍い痛みが来た。帰る場所など、とうに失っていたはずなのに。祖国から放たれた矢は、私の中に残っていた最後の未練まで正確に射抜いていった。
だが、怯えている時間はなかった。
「一射目は、私ではなく封書を狙っています」
皇帝の目が机へ向く。
「偶然ではないのか」
「封書は机の中央にありました。窓からは、私の身体よりずっと小さな標的です。しかも一射目と二射目の間は、呼吸一つ分しかありませんでした」
私は息を整え、裂けた紙と壁の矢を順に指した。
最初の矢で封書を破り、時刻を今へ繰り上げる。
続く矢で、私を殺す。
射手は封書の規則を知っていた。
そして新たに分かったことがある。
封書を破損したのが受取人でなくても、予告時刻は繰り上がる。事故か故意かも問われない。黒紙そのものが傷ついたという事実だけで、執行は始まるのだ。
恐ろしい規則だった。守るべきものが私の命だけではなくなった。毎朝現れる紙そのものも、死刻を押し進める引き金になり得る。
「射手を捕らえます」
「すでに兵を向かわせた」
「正面から使節館へ入っても、逃げられます」
私は目を閉じ、使節団が到着した日の光景を呼び戻した。
馬車は六台。正使の馬車が一台、随員が二台、残り三台は荷車だった。荷車には赤い封印紐が結ばれ、外交荷物として検査を免れていた。
車輪の軋み。濡れた馬の匂い。石畳へ落ちた泥。そのうち最後尾の荷車だけ、車輪に付着した泥が少なかった。
使節館へ入る直前、別の道を通ったのだ。
「西の通用門です。使節団は、封印荷物を運ぶため西回廊の通行許可を得ています。射手は使節館へ戻らず、あの回廊から外交馬車へ逃げるはずです」
皇帝は一瞬も迷わず近衛兵へ命じた。
「西門を閉鎖しろ。ただし外交馬車には触れるな。外から包囲し、御者も降ろすな」
兵が走り去る。靴音が廊下の先へ遠ざかった。
「触れなければ、荷物の中に隠れられます」
「だから先に逃げ道だけ塞ぐ。外交特権を破るかどうかは、お前が射手を見分けてから決める」
祖国の者を捕らえる判断を、皇帝は私から奪わなかった。
私が迷う可能性まで認めたうえで、選択を待っている。
信頼されることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。けれど、その苦しさから目を逸らしたくもなかった。
「見分けられます」
私は立ち上がろうとした。皇帝の手が、とっさに私の腕を強くつかむ。
指先の力に、彼が隠した恐怖が伝わった。
けれど彼はすぐに力を緩めた。
「すまない。まだ矢が来るかもしれない」
命を守るための接触にも、彼は言葉を添えた。私の意思を置き去りにしないために。
「今は、つかんでいてください」
私から彼の手を取り直す。温かな掌に触れた瞬間、自分の指が冷え切っていることを知った。
「ただし、私が止まってと言ったら離してください」
「ああ」
短い返事だった。
それでも、その一言で震えが少し収まった。彼が私を守り、私も彼を信じる。それは命令でも義務でもなく、二人で選んだことだった。
近衛兵が運んできた鉄板を窓の内側へ立て、侍女の衣装を掛けた人形を、その陰からわずかに見せる。私が窓辺に戻ったように見せるためだった。
人形を動かす役は私が申し出たが、皇帝は首を振った。
「紐なら隣室から引ける。お前が危険な場所に立つ必要はない」
「では、合図は私が出します」
「それでいい」
私たちは隣室へ移り、盾の隙間から窓を見た。
人形がゆっくりと窓辺へ現れる。
沈黙の中、自分の鼓動だけが大きく響いた。一度、二度。射手がこちらを見ている。その気配を想像した瞬間、朝の冷気が首筋を撫でた。
一本の矢が鎧戸の隙間を抜け、人形の胸を射抜いた。
布が跳ね、詰め物が白く舞う。
「今です!」
鐘楼から短い警笛が鳴った。
西回廊で待機していた近衛兵が、一斉に外交馬車を包囲する。荷台の封印布を内側から切って飛び出した男は、組み立て式の短弓を手にしていた。
私は盾に守られながら西庭へ出た。
湿った土と馬の汗の匂いが鼻を刺す。剣を突きつけられた男は荒い息を吐きながら、逃げ道を探すように周囲を見回していた。
その顔を見た瞬間、記憶が一致した。
使節団到着の日、正使の馬車の左後方を歩いていた儀仗兵。矢筒を背負い、私と一度だけ目を合わせた男だった。
あのとき彼の視線にあったのは、懐かしさでも同情でもない。標的の位置を確かめる冷たさだったのだ。
「その者です」
私の言葉で、近衛兵が男を取り押さえた。
男は祖国の言葉で私を罵った。裏切り者、と。
胸は痛んだ。それでも、言葉を取り消す気はなかった。
外交馬車の荷台からは、分解された弓二張りと矢が二十本、そして細い指示書が見つかった。
そこには、はっきりと記されていた。
――第一矢で黒い通知を損じ、直後に胸を射よ。
封書を破損させる役と、死を実行する役は、同じ使節団に組み込まれていたのだ。
指示書と武器が発見されたことで、使節団の外交荷物はすべて検査対象となった。西通用門の特別通行許可も取り消され、封印紐を理由に検査を拒むことは認められなくなった。
オクタヴィアは、祖国の使節団を使って武器を宮殿へ持ち込む経路を失った。
翌朝まで待っても、私の胸に矢が届くことはなかった。
長い夜だった。扉の外で鎧が擦れるたびに肩が強張り、風が窓を叩くたび、次の矢を想像した。それでも皇帝が同じ部屋に残ることを望み、私も拒まなかった。互いに触れるときは目で確かめ、言葉で確かめた。
破損によって時刻が繰り上がっても、死そのものが不可避になるわけではない。そして、誰が破ったかにかかわらず、封書は破損した瞬間を執行時刻に変える。
二十三件目の死は、回避された。
朝日が昇ると、裂けた封書の代わりに新たな黒い封書が一通だけ現れた。
机の上にあるのは、いつもどおり一通だけだった。黒い紙面へ伸ばした指が、文面を読む前から震える。
『死亡予告
明日午後四時、皇帝は、祖国への帰還を拒絶したミレイユ・ローデンを庇い、公開謁見の場で毒針により死亡する』
息が止まった。
祖国から捨てられた私が、ここに残ると選べば、今度は皇帝が死ぬ。
昨日まで私を狙っていた死が、私の選択を鎖にして彼の首へ巻きついている。
皇帝は文面を読み終えると、公開謁見の中止を命じようとした。
私はその前に、帰国の権利を記した白紙の申立書を机へ置いた。
紙の触れる乾いた音が、静かな部屋に響いた。
「謁見は開いてください」
「何をするつもりだ」
低い声の奥に、私を帰したくないという願いと、それでも私の意思を縛るまいとする葛藤があった。
私は申立書を折り畳み、自分の手で懐へ収めた。
帰国を拒むのは、彼に命じられたからではない。祖国への憎しみだけでもない。
ここに残りたいと、私自身が望んだからだ。
「明日、私は祖国へ帰らないと、帝国中の前で告げます」
(第24話へ続く)




