署名は鎖ではない
二十二通目の黒い封書には、私が選ぼうとしていたものと、皇帝の死が一つの文章で結びつけられていた。
『死亡予告
明日午後二時、皇帝はミレイユ・ローデンが婚姻継続書へ署名した直後、謁見の間で落下する天蓋に押し潰され死亡する』
予告を読み返しても、文字は変わらない。
昨日の午前十一時一分。私の絞殺が回避された直後に、婚姻継続書の提出場所を謁見の間へ限定する変更命令が出されていた。
署名しなければ、皇帝は死なない。
けれど、その選択を口にするより先に、皇帝が言った。
「署名はするな」
「まだ、何も答えていません」
「答えを封じるつもりはない。だが、私を生かすために婚姻を続ける必要もない」
彼は私の手にある封書ではなく、机に置かれた白紙の申立書を見た。
「罠のために結ぶ婚姻も、罠を避けるために捨てる婚姻も、お前が選んだことにはならない」
胸の奥で、固く結ばれていたものが少し緩んだ。
私が恐れていたのは、天蓋だけではない。署名を拒めば彼を見捨てることになり、署名すれば罠に屈することになる。その二つしかないと思いかけていた。
けれど彼は、最初から第三の道を差し出していた。
仕掛けを壊してから、私が選べばいい。
「では、謁見の間を調べます」
「署名せずとも、調査はできる」
「はい。そのうえで、署名するかは私が決めます」
皇帝は短く息を吐いた。
「分かった」
謁見の間は閉鎖され、近衛兵と設備係が天蓋の周囲を調べた。
玉座を覆う天蓋は、金色の装飾板を重ねた巨大なものだった。四本の鎖で天井梁から吊られ、真下にいる者を押し潰すには十分な重さがある。
だが、下から見た限り、鎖にも留め具にも異常はなかった。
私は玉座の前に立ち、天蓋を見上げた。
婚礼後、初めてここへ連れてこられたときの光景を思い出す。右の房飾りは玉座の背より少し外側にあり、左の房飾りは柱の彫刻と重なっていた。
今は、左の房飾りだけが指二本分ほど低い。
「天蓋の左奥が下がっています」
設備係が足場を組み、天井裏へ上がった。やがて、青ざめた顔で二つの鉄輪を降ろしてくる。
鉄輪には、髪の毛ほど細い切れ目が入っていた。表面へ金粉を塗り、傷が見えないよう偽装されている。今は細い留め針一本だけで閉じられていた。
その針から伸びた銅線は、天井梁を伝い、署名台の下へ続いていた。
署名した書類を納める引き出しを閉めれば、銅線が引かれる。二本の留め針が同時に抜け、天蓋が玉座ごと押し潰す仕組みだった。
罠を動かすのは、署名そのものではない。
署名書を提出するため、引き出しを閉める動作だった。
封書の『署名した直後』という言葉は、呪いによる条件ではなく、敵が予定した一連の行動を記しているにすぎない。
敵は私の意思を死の引き金にしたつもりだった。
だが、私が何を選ぶかまで、黒い紙に決める力はない。
私たちは傷つけられた鉄輪を残し、別の梁から新たな鎖を四本渡した。天蓋が外れても、玉座へ届く前に受け止めるためだ。銅線と引き出しもあえて元の位置へ戻した。
天井裏の出入りの記録を調べると、昨日の正午前、儀典修繕用の常設通行証が使われていた。所持していた儀典係は拘束され、その衣服から天井回廊の親鍵と、金粉の付着した小刀が見つかった。
通行証も親鍵も押収され、今後の儀典修繕には設備係と近衛兵の立ち会いが義務づけられた。
オクタヴィアは、謁見の間の頭上へ手を伸ばす経路を失った。
調査を終えた夜、皇帝は婚姻継続書を私の前へ置いた。
「明日の提出は中止できる」
「罠は見つかりました」
「だからこそ聞く。予告がなかったとしても、お前はこれに署名したいか」
私はすぐには答えなかった。
婚礼の日、私は祖国から人質として差し出された。それでも誓約の直前、彼は拒む権利を私へ渡した。
今、同じ権利がもう一度、私の手の中にある。
この紙は永遠を誓うものではない。帰国や婚姻解消を申し立てる権利まで失わせるものでもない。ただ、現時点で婚姻を継続する意思を示す書類だ。
私は彼を救うためだけに残りたいのではない。
彼と共に真実を確かめ、その先で改めて自分の未来を決めたい。
「署名します」
皇帝の眉がわずかに寄った。
「罠を完成させるためではなく?」
「はい。明日のためだけでもありません。今の私は、あなたとの婚姻を続けたい」
言葉にした途端、恐怖とは違う震えが指先へ走った。
「ただし、いつか選び直す権利は手放しません」
「当然だ」
皇帝は婚姻継続書の余白へ、自ら一文を書き加えた。
――この署名は、ミレイユ・ローデンの帰国および婚姻解消を申し立てる権利を妨げない。
その下へ皇帝が署名する。
私の選択を、彼の権力から守るための署名だった。
翌日、午後二時。
近衛兵が配置された謁見の間で、私は署名台へ進んだ。皇帝は玉座の前に立っている。
私は彼の顔を見た。
「まだ取りやめられる」
「取りやめません」
ペン先を紙へ下ろし、ミレイユ・ローデンと記す。
書記が書類を受け取り、署名台の引き出しへ納めた。
引き出しが閉まる。
頭上で、甲高い金属音が二つ続いた。
天蓋が落ちた。
悲鳴と同時に、皇帝の頭上へ金色の塊が迫る。けれど新たに渡した四本の鎖が張り、天蓋は玉座の上、わずか腕一本分のところで止まった。
轟音が謁見の間を震わせ、金粉が雪のように降る。
皇帝は逃げなかった。
私も、署名台から目を逸らさなかった。
午後二時を過ぎても、彼は自分の足で立っていた。
落下する天蓋による死は、回避された。
封書に記された直前の行為は、死を確定させる呪いの条件ではない。それは実行役が仕掛けを動かすために想定した順序であり、途中の物理的な結びつきを断てば、同じ行為を選んでも死には至らない。
回収された婚姻継続書を、私は両手で受け取った。紙の端には金粉が付いていたが、署名は消えていない。
皇帝が私の前へ来る。
「手を握ってもいいか」
「はい」
差し出された手を、私は自分から握った。
これは救命の報酬でも、恐怖に縋るための接触でもない。
落ちてきた天蓋の下でさえ奪われなかった、私自身の選択だった。
翌朝、二十三通目の封書を開いた。
『死亡予告
明日午前九時、ミレイユ・ローデンは、祖国の使節が放つ矢により死亡する』
読み終えた瞬間、開いた窓から一本の矢が飛び込んだ。
矢は私ではなく、机の上の黒い封書を貫いた。
黒紙が裂ける。
封書を破損すれば、予告時刻は破損した時点まで繰り上がる。
つまり、私が死ぬ時刻は――今だ。
皇帝が私の腕をつかみ、床へ引き倒した。
直後、二本目の矢が、先ほどまで私の胸があった高さへ突き立った。
(第23話へ続く)




