無効にされた誓い
扉の向こうで、使者はもう一度、私の引き渡しを要求した。
寝台の上には、今朝現れたばかりの黒い封書がある。
『死亡予告
明日午前十一時、婚姻を無効とされたミレイユ・ローデンは、移送馬車内で絞殺され死亡する』
私は一字ずつ目に焼きつけ、封書を革張りの箱へ収めた。破損すれば、死の時刻がその瞬間まで繰り上がる。乱暴に扉を開けることさえ、今は避けたかった。
「入室を許す。武器は外へ置け」
皇帝が命じると、使者は二人の護衛を廊下へ残し、一人で入ってきた。
差し出された婚姻無効令には、皇帝の印が押されていた。文面によれば、私は人質として強制的に婚姻させられたため、誓約は初めから成立していない。さらに私自身が無効を申し立てたことになっている。
末尾には、私の署名まであった。
ミレイユ・ローデン。
形だけなら、私の文字だった。
けれど私は、同じ文字を以前にも見ている。あの緊急審理で、証言記録への確認を求められたときに書いた署名だ。
あの日、羽根ペンの先が割れていたため、「レ」の二画目に小さな墨溜まりができた。「デ」の末尾も紙の繊維に引かれ、わずかに上へ跳ねている。
目の前の署名には、その偶然まで寸分違わず写されていた。
「これは私が書いたものではありません」
「しかし、筆跡は一致しております」
「一致しすぎているのです」
私は審理記録の原本を運ばせた。二枚を窓へ透かすと、文字の輪郭が完全に重なった。人が同じ署名を二度書いて、墨の滲みまで同じになることはない。
署名は原本から写し取られていた。
使者の顔から血の気が引いた。
皇帝は無効令を机へ置いたが、すぐに破棄も撤回も命じなかった。
「使者を別室へ。誰から文書を受け取ったか記録させろ」
近衛兵が使者を連れ出すと、部屋に私たちだけが残った。
私は偽の無効令を見下ろした。
婚姻は無効。
人質花嫁ではなくなる。その言葉には、恐怖と同時に、甘い響きがあった。
皇帝の保護を失えば、私は移送される。明日の馬車で殺される。それでも、無効という言葉そのものは、かつて私が望んでいた自由に似ていた。
「この文書が偽物でも」
皇帝が静かに言った。
「お前が婚姻の解消を望むなら、私は正式な手続きを始める」
思わず顔を上げた。
「今、この状況で?」
「今だからだ。命を守ることを理由に、お前を妻の座へ縛りつけたくない」
皇帝は机の引き出しから白紙を出した。婚姻解消の申立書に使われる、透かし入りの正式な用紙だった。
「署名するかどうかは、お前が決めろ。しなくても、明日の警護は変えない」
黒い封書は、私たちの関係を死の条件に変えた。
けれど彼は、その関係を盾にして私の選択を奪おうとはしなかった。
胸の奥で絡まっていた恐怖が、少しずつ別のものへ変わっていく。
私は白紙を受け取った。それから、署名せずに二つ折りにした。
「今は選びません」
皇帝は黙って続きを待った。
「敵に首へ縄を掛けられたままでは、残ることも去ることも、私の選択にならないからです。まず縄を切ります。そのあとで、私自身の答えを出します」
「分かった」
たったそれだけだった。
引き留める言葉も、安堵を押しつける言葉もない。その短い返事が、何より私を安心させた。
私たちは無効令そのものではなく、移送命令を調べた。
文面では、明日午前十時半に私を東門から出し、旧街道を通って国境へ送ると定められている。馬車も御者もすでに指定済みだった。
封書の時刻は午前十一時。
出発から半刻後。城壁を離れ、護衛が前後へ分かれる狭い林道へ入る時刻と一致する。
馬車は厩舎にあった。外見は普通の移送用だったが、座席の背へ張られた革だけが新しい。
切り開く許可を求めると、皇帝は即座に頷いた。
革の下から現れたのは、黒い絹紐だった。
首の高さを輪のように囲み、両端は床下へ通されている。さらに床板を外すと、紐は後輪の車軸へ巻きつけられていた。
一定の速さで車輪が回れば、紐が少しずつ引かれる。座席に座った者は、背後から首を締め上げられる。抵抗しても、扉は外から施錠される構造だった。
絞殺の実行役は、同乗者でさえなかった。
馬車が走ること自体が、私を殺す仕掛けだったのだ。
御者は逃げようとして取り押さえられた。所持品から、無効令と同じ印影を試し押しした薄紙が見つかった。
印そのものは皇帝の正印ではない。摂政時代、婚姻関係の文書だけに用いられた古い副印だった。廃止されたあとも保管庫の登録から消されず、存在しないものとして隠されていたのだ。
副印は押収され、保管記録を改めた役人も拘束された。各門へ配られた無効令と移送命令は回収される。
オクタヴィアは、婚姻を偽って人を移送する権限を失った。
翌日、私の代わりに重い砂袋を座らせた馬車を、近衛兵の包囲した中庭で走らせた。
午前十一時。
車軸に巻かれた紐が張り、砂袋の首にあたる部分へ深く食い込んだ。革袋が裂け、砂が座席へ流れ落ちる。
私は馬車の外で、その光景を最後まで見届けた。
時刻を過ぎても、私の喉には何の痕もつかなかった。
そこで初めて、封書に書かれた『婚姻を無効とされた』という部分も、真実の保証ではなかったのだと確定した。
封書が選ぶのは、台帳へ登録された死だ。死に添えられた身分や法的状態までは確かめず、登録者が書いた前提をそのまま通知する。
つまり敵は、偽りを真実らしく封書へ語らせることができる。
だが同時に、封書の言葉だけで私たちの関係を決めることもできない。
部屋へ戻ると、私は折り畳んでいた白紙の申立書を皇帝へ見せた。
「まだ、署名はしません」
「急がなくていい」
「いいえ。先延ばしにしたいのではありません」
私は彼の前で紙を机へ置いた。
「敵に決められた無効ではなく、私が選んだ答えを、いつかあなたへ渡します。それまで、この用紙は私に預けてください」
「お前のものだ」
婚姻を守る約束ではない。
婚姻を選び直す権利を、互いに認める約束だった。
翌朝、二十二通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午後二時、皇帝はミレイユ・ローデンが婚姻継続書へ署名した直後、謁見の間で落下する天蓋に押し潰され死亡する』
直ちに提出規定を調べると、婚姻継続書の署名場所は、本来どこでもよかった。
それを謁見の間に限定する変更命令が出されたのは、昨日の午前十一時一分。
私の死が回避された、わずか一分後だった。
(第22話へ続く)




