毒の口づけ
布の内側に広がった紫黒を見た瞬間、皇帝は私へ伸ばしかけた手を止めた。
机の上には、二十通目の封書が開かれたまま置かれている。黒い縁取りの中に並んだ文字は、朝の光を吸い込むように冷たかった。
『死亡予告
明日午後三時、皇帝はミレイユ・ローデンの唇に塗られた毒により死亡する』
「触れないでください」
私が言うより先に、彼は一歩退いていた。
拒絶されたのではない。私を守るためでも、彼自身が逃げるためでもない。毒を指や衣服へ移し、別の誰かにまで触れさせないための、正しい距離だった。
そう理解しているのに、胸の奥だけが取り残されたように痛んだ。
私は新しい布で唇を押さえ、唾液を銀の盆へ吐き出した。舌に苦みはない。痺れも痛みもなかった。それがかえって恐ろしい。
透明だった水が、底から煙を噴くように紫黒く濁った。
息を呑む音がした。彼のものか、私のものかは分からなかった。
呼ばれた医師は手袋を替えながら私の口内を調べ、傷がないことを確かめたあと、繰り返し水で洗うよう指示した。冷たい水を含んでは吐き出すたび、盆の中の色が少しずつ薄くなっていく。
「飲み込めば、今の医術では助けられません。ただ、油脂に混ぜた毒は傷のない皮膚からは入りにくい。気づくのが早かったのです」
助けられない。
医師は曖昧な慰めを口にしなかった。もし体内へ入っていたなら、薬も祈りも間に合わなかったのだ。
治療で救われたのではない。
毒が体内へ入る前に、止められただけだ。
洗浄を終えても、皇帝は私へ触れなかった。けれど彼の視線は私の唇ではなく、膝の上で震えている指先へ向いていた。
「今朝、そこへ何を塗った」
静かな声だった。その静けさの下に押し殺した怒りがある。
「いつもの蜜蝋です」
化粧台の小壺を持ってこさせる。侍女が盆を置くと、皇帝は彼女にも下がるよう命じた。蓋を開けた瞬間、甘く淡い香りが漂い、私は今朝覚えた違和感の正体を思い出した。
昨日までの蜜蝋には、表面の左端に細い筋が三本あった。化粧筆を同じ角度で滑らせるため、毎朝少しずつ深くなっていた筋だ。
今朝の壺には、それがなかった。
色も香りも同じだった。容器の縁についた小さな傷まで似せてある。けれど表面だけが、湯で平らにならしたように滑らかだった。
毎日使っている私でなければ見逃しただろう。いや、私自身さえ、封書を読んで布を当てるまでは見逃していた。
長い匙で蜜蝋の一部をすくい、水へ落とす。柔らかな塊が浮かんだ次の瞬間、水はたちまち紫黒く染まった。
「壺ごと入れ替えられています」
衣装庫の記録では、壺は昨日の夕刻に封を改められていた。押されていたのは、摂政時代に使われた衣装庫の副印だった。
噴水設備の副印を失ったオクタヴィアは、別の古い権限を使ったのだ。
一つの経路を塞いでも、彼女は長い摂政時代に張り巡らせた根を別の場所から伸ばしてくる。
さらに明日午後三時には、皇帝が私の部屋で噴水事件の報告を受ける予定になっていた。二人だけで話したいと申し出たのは私だが、その予定は身支度を整える衣装係にも伝わっている。
そして私たちは昨日、庭園から戻ったあと、抱き合った。
彼の腕の温かさも、胸越しに聞いた鼓動も覚えている。私が自分の意思で近づき、彼が確かめるように受け入れた、私たちだけの時間だった。
誰かが、それを見ていた。
「敵は、私たちが明日の三時にも触れ合うと考えたのですね」
口にすると、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
ようやく自分の意思で近づけた。その一歩さえ、敵は皇帝を殺す道具へ変えようとしている。私の唇に毒を塗り、私が彼を求める心まで利用しようとした。
皇帝は机を挟んだまま言った。
「明日の面会は取りやめる。毒の経路を断つまで、私は君の部屋へ入らない」
正しい判断だった。命を守るには、それが最も確実だ。
それでも私は尋ねた。
「それは、陛下が望むことですか」
彼はすぐには答えなかった。握られた拳の節が白くなっている。
「望んではいない。だが、君を毒の器として恐れるくらいなら、離れた方がいい」
「私は、器ではありません」
強く言いすぎたと思った。けれど、言い直さなかった。
「陛下を殺す毒が塗られていたからといって、私の唇が凶器になったわけではありません。近づくか離れるかまで、オクタヴィアに決めさせたくないのです」
皇帝の表情が変わる。怒りでも驚きでもない。私の言葉を、拒絶ではなく意思として受け止めようとする顔だった。
「では、君はどうしたい」
以前なら、彼の命を理由に自分の望みを隠していただろう。離れることこそ献身だと、自分に言い聞かせていた。
今は違う。
恐怖に従うのではなく、恐怖の正体を確かめたうえで選びたい。
「仕掛けを壊したあとで、もう一度、私に尋ねてください」
翌日、私たちは予定を変えなかった。
午後二時半、花嫁付きの化粧係が蜜蝋を塗り直すために現れた。化粧台には、毒壺と同じ外見の壺を置いてある。窓辺には午後の光が差し、鏡の中の私は何も知らない花嫁の顔で椅子に座っていた。
扉の陰には近衛兵が息を潜めている。
化粧係の指は震えていなかった。いつもと同じように礼をし、蓋を開ける。だが、用意してあった化粧筆には手を伸ばさず、自分の袖から細い筆を取り出した。
喉が固くなる。逃げたくなる足を、床へ縫いつけるように耐えた。
筆が私の唇へ届く直前、隠れていた近衛兵が飛び出し、その腕を押さえた。
短い悲鳴とともに筆が床へ落ちる。石へぶつかった柄が割れ、中から黒い液体を満たした細管が転がった。水を一滴垂らすと、床石が花開くように紫黒く染まる。
壺だけを入れ替えても、実行役は筆に予備の毒を隠していたのだ。
もし偽物の壺を見て諦めたと判断し、彼女を帰していたなら、同じ仕掛けは別の日に使われただろう。封書に示された時刻まで待ったからこそ、隠された筆まで捕らえることができた。
衣装係の部屋からは、同じ細管が六本と、摂政時代の衣装庫副印、明日の面会時刻を記した指示書が押収された。
指示書の末尾には、こうあった。
『午後三時、両名は必ず接触する』
必ず。
紙の上で断定されたその二文字に、私は腹の底から怒りを覚えた。同時に、封書と指示書の違いを理解した。
黒い封書は、私たちが接吻すると予言したのではない。実行役がそうなると見込み、成立可能な計画として登録していただけなのだ。
封書が選ぶ計画には、人の自由意思を条件にしたものも含まれる。けれど、その選択まで強制することはできない。
毒壺と細管は封印され、衣装庫の旧副印は押収された。以後、私の肌へ触れる品は二人以上で検査し、皇帝印と照合しなければ運び込めない。壺も筆も布も、使用の直前に判別液で確かめることになった。
オクタヴィアは、私の身支度を暗殺へ利用する経路を失った。
午後三時。
予定どおり、皇帝は私の部屋へ来た。
医師と近衛兵が最後の確認を終えて退出し、重い扉が閉まる。私の唇を拭った白布には、判別液を落としても何の色も浮かばなかった。
静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
それでも彼は、手の届かない場所で立ち止まった。
「触れてもいいか」
昨日、頼んだ問いだった。
命令でも儀礼でもない。私が拒めば、彼はその場で退く。その確信があったからこそ、胸の奥に残る恐怖から目を逸らさずにいられた。
もし洗い残しがあったら。もし別の毒があったら。考え始めれば、いくらでも足を止められる。
けれど私たちは、記憶や願望だけを信じなかった。壺を調べ、筆を捕らえ、毒を判別し、経路を断った。
確かめられることを、二人で確かめた。
「はい」
私は自分から距離を縮めた。彼の瞳に一瞬浮かんだ安堵を見て、さらに一歩進む。
「私も、あなたに触れたいです」
皇帝の指が、問いかけるように私の頬へ触れる。温かな指先だった。私が退かないことを確かめてから、彼はゆっくり顔を寄せた。
重なった唇は、ごく短かった。
命を救うためでも、婚礼の儀式でも、敵へ見せる芝居でもない。
私たちが望み、互いに許した、初めての口づけだった。
離れたあとも彼の額は私の額に触れるほど近く、互いの息遣いが聞こえた。私は彼の胸へ手を添えた。掌の下には、速く、それでも力強い鼓動がある。
三時を告げる鐘が鳴り終わっても、皇帝の心臓は動いていた。
毒に、私たちの選択を奪わせなかった。
翌朝、二十一通目の封書には、昨夜まで確かに存在していた私たちの関係を否定する言葉が記されていた。
『死亡予告
明日午前十一時、婚姻を無効とされたミレイユ・ローデンは、移送馬車内で絞殺され死亡する』
読み終えた直後、寝室の扉が激しく叩かれた。
「婚姻無効令が発布されました。ミレイユ・ローデンの身柄を、ただちに引き渡されたい!」
(第21話へ続く)




