噴水に仕込まれた刃
十九通目の封書は、机の上で朝の光を吸い込んでいた。
白いはずの紙が、そこだけ薄暗く沈んで見える。毎朝一通だけ現れ、翌日の死を一件だけ告げる封書。触れれば乾いた紙の感触しかないのに、指先から冷気が染み込んでくるようだった。
『死亡予告
明日正午、近衛兵は庭園の噴水に仕込まれた刃で頸動脈を切断され死亡する』
私は全文をもう一度読み、警備を薄くする命令書へ署名した。
閉鎖を命じれば、近衛兵は救える。噴水を壊して調べれば、刃も見つかるだろう。けれど実行役も、オクタヴィアが奪った中核黒紙への手掛かりも逃げる。
だからといって、誰かの命を餌にしてよいわけではない。
羽根ペンを置いた私の耳に、遠い日の声が蘇った。
私自身が人質として差し出されたとき、祖国の使者は言った。
『一人の娘で戦が避けられるなら、価値ある犠牲だ』
人を一人ではなく、数として見る声だった。あの言葉を、今度は私が近衛兵へ向けるのか。
「命令で立たせるつもりはありません」
私は向かいに座る皇帝へ告げた。
「仕掛けも危険も、封書の文面も、すべて話します。拒否したことで不利益を受けないと、陛下からも保証してください」
「無論だ」
皇帝は命令書を手に取ったが、すぐには印を押さなかった。灰色の瞳が、署名から私の顔へ上がる。
「それでも引き受ける者がいなければ?」
「庭園を閉じます。手掛かりより命を選びます」
口にすると、胸の奥で張り詰めていたものがわずかに緩んだ。何を失っても越えてはならない線を、自分の声で確かめられたからだ。
その答えを聞いて、彼は皇帝印を重ねた。
噴水北側の哨戒を担当する近衛兵が、自ら囮役を申し出た。私たちは彼に封書の全文を見せ、誰にも急かされない部屋で考える時間を与えた。正午直前でも撤回できる。理由を問わず、後の任務や昇進にも影響させないと、皇帝自身が約束した。
「お二人が何度も命を懸けたことは知っています。今度は自分が、仕掛けを暴く側に立ちます」
声は固かった。恐れていないのではない。恐れたうえで選んだのだ。
それは服従ではなかった。
彼自身の選択だった。
私たちは庭園を表向き平常のままにし、噴水だけを調べた。刃を探して石組みを壊せば、実行役に気づかれる。そこで水を止めず、細い鏡と糸を使って隙間を確認した。
水しぶきが頬へ冷たく散り、濡れた石と苔の匂いが鼻を満たす。噴水には中央の女神像を囲むように、十二枚の青銅の葉が並んでいた。
十一枚は縁が丸い。
北側の一枚だけ、裏面に新しい研磨痕があった。表には石灰が塗られ、古びた飾りにしか見えない。だが鏡の中では、内側に埋め込まれた弧状の鋼が細く光っていた。
刃は水路の圧力が急に高まると、ばねで水平方向へ飛び出す。高さは、噴水を背にして立つ近衛兵の首と一致した。
「取り外しますか」
皇帝が問う。
「いいえ。刃だけを替えます」
同じ重さの刃を用意し、切っ先を丸く潰した。重さが違えば、仕掛けを点検した者に悟られるかもしれない。表面には元と同じ石灰を塗り、乾き具合まで周囲に合わせる。さらに囮役の制服の襟へ、薄い鋼の首当てを縫い込んだ。
防ぎは二重にした。
完全記憶があっても、私はもう一つの手段だけに命を預けない。見落としがないことと、想定外がないことは同じではない。
問題は、誰が水圧を上げるかだった。
庭園の主水門は封鎖できても、噴水の地下には清掃用の支流がある。水路図によれば、その操作口は生垣の外にある資材小屋へ通じていた。
私たちはそこへ兵を隠した。
ただし、捕縛は水門が操作されてから。鍵を持っているだけでは、オクタヴィアとの繋がりを証明できない。待つほど証拠は強くなる。けれど待つ時間は、そのまま近衛兵を危険へ近づける時間でもあった。
翌日、空は残酷なほど晴れていた。
十一時半、囮役の近衛兵が北側の持ち場へ立つ。磨かれた胸甲に陽光が照り返し、噴水の水滴が小さな虹を作っていた。昨日までなら美しいと思えた景色のすべてが、今は刃を隠す幕に見える。
私は回廊から庭園を見下ろしていた。隣には皇帝がいる。彼は私に作戦の指揮を任せ、自分から命令を加えなかった。ただ、いつでも私の判断を支えられる距離に立っていた。
十一時五十分。
庭師たちが離れる。
十一時五十五分。
資材小屋へ、水路係の制服を着た男が入ったと合図が届く。
十一時五十八分。
噴水の水音が低くなった。
絶え間ない飛沫の音が痩せ、代わりに地下から水のうなる気配が伝わってくる。水路へ一度水を溜め、一気に圧力を掛ける前触れだった。
「今、捕らえることもできる」
皇帝が低く言った。
私の視線は、噴水の前に立つ近衛兵から離れなかった。
安全策は施した。それでも、もし刃のほかに仕掛けがあれば。交換した刃が途中で引っ掛かれば。首当ての隙間へ衝撃が入れば。
私の判断で人が死ぬ。
指が冷たくなった。命令を撤回する言葉が喉まで上がる。
そのとき、近衛兵が回廊を見上げた。顔は青ざめていた。それでも逃げず、胸へ拳を当てる。
続行の合図だった。
彼の選択を、私の恐怖だけで奪ってよいのか。
私は息を吸い、頷き返した。
正午の鐘が鳴る。
一打目と同時に、噴水が高く噴き上がった。
青銅の葉が開く。
鈍い銀光が、近衛兵の首へ走った。
金属同士がぶつかる激音が庭園に響く。丸めたはずの刃が首当てを打ち、近衛兵の体が前へ倒れた。
「捕縛!」
私は叫びながら階段を駆け下りた。
皇帝も続いた。靴音と鐘の余韻が重なる。噴水までの距離が、永遠のように長い。
倒れた近衛兵の肩へ手を掛け、濡れた襟を押し開く。首当てには横一文字の傷が走っていたが、その下の皮膚に血はなかった。
「無事です」
彼がかすれた声で息を吐く。
その一言で、膝から力が抜けそうになった。私は石縁へ手をつき、ようやく体を支えた。
資材小屋でも、水門の把手を握った男が押さえられていた。腰からは庭園水路の親鍵、摂政時代の副印が押された操作命令書、報酬の銀貨が見つかった。
命令書には実行条件が記されていた。
『正午、北側哨戒の近衛一名が定位置に立った時、水圧を最大まで上げること』
個人名は、どこにもない。
封書も同じだった。
予告されたのは特定の近衛兵ではない。北側哨戒という役目を務める者だったのだ。別の兵へ交代させるだけでは、その兵が予告の対象になる。
登録された死が役職を条件にしている場合、封書も個人名ではなく役職を告げる。
私たちは初めて、その違いを実物の命令書と照合できた。
捕らえられた水路係の供述から、摂政時代の副印で庭園設備の命令を通していた経路も判明した。親鍵と副印は押収され、すべての水路命令には皇帝印との照合が義務づけられた。
オクタヴィアはまた一つ、宮殿の内側へ手を伸ばす権限を失った。
私は囮役を引き受けた近衛兵へ、深く頭を下げた。
「あなたの選択に頼りました。けれど、二度と同じ役目を当然とは思いません」
「自分も、二度は御免です」
彼が正直に答えたので、張り詰めていた者たちの間に小さな笑いが起きた。私も笑おうとしたが、うまく息が続かなかった。
一つの命を守り、一つの仕掛けを破り、一つの経路を奪った。
作戦は成功した。
それでも部屋へ戻った途端、私は震え始めた。刃が飛び出した瞬間が、瞼の裏から消えない。理屈では無事だと知っているのに、手のひらには存在しない血の感触が残っていた。
皇帝は私の前で足を止めた。すぐには触れず、私の答えを待つ。
「抱きしめてもいいか」
以前の私なら、恐怖を見られたくなくて拒んだかもしれない。弱さを預ければ、それが鎖になると信じていた。
けれど今は、強がることが信頼ではないと知っている。
「はい。私からも、そうしたいです」
一歩近づくと、彼の腕がゆっくり私の背へ回った。私も自分の意思で彼の上着をつかむ。厚い布地の温かさと、かすかな革の匂いが、ここが刃の飛ぶ庭園ではないと教えてくれた。
命令でも、救命のための接触でもない。互いに望み、互いに選んだ抱擁だった。
彼の心音を聞いているうちに、震えは少しずつ収まっていった。
翌朝、二十通目の封書を、私たちは肩が触れる距離で読んだ。
『死亡予告
明日午後三時、婚姻無効を宣告されたミレイユ・ローデンは移送中に死亡する』
私は読み終えるなり、皇帝と顔を見合わせた。
その直後、扉の外から、婚姻無効令が届いたとの声が響いた。
(第20話へ続く)




