偽りの因果
『死亡予告
明日正午、ミレイユ・ローデンは皇帝毒殺犯として絞首刑に処され死亡する』
朝の冷気よりも、その二行は冷たかった。
予告の下に置かれた治療記録には、確かに私の署名があった。筆圧の癖も、最後の一画がわずかに上がるところも、見間違えようがない。
昨日、私はその紙へ自分の手で名を書いた。皇帝へ薬草液を飲ませたことも、瓶の番号も覚えている。苦い匂い。小杯の縁に触れた彼の唇。飲み干した直後、呼吸が少しだけ穏やかになったことまで。
だからこそ、署名だけを見れば、逃げ道はなかった。
「処刑命令など出させない」
寝台から身を起こした皇帝が言った。まだ熱の残る声はかすれていたが、拒絶の余地を与えぬ響きを帯びている。
「だが、それだけでは足りません」
私は毒薬の札が付いた空瓶を見た。札には、高熱を起こす毒だと記されている。ざらついた紐は結び直されたようにも見えたが、見えるというだけでは証拠にならない。
「陛下の命令で処刑を止めれば、私は皇帝を毒殺しかけた妻を権力で庇われたことになります。命は助かっても、疑いは残ります」
「では、どうしたい」
彼は決めつけず、私の答えを待った。
その沈黙が、今は怖くなかった。私に選ばせるための沈黙だと、少しずつ分かるようになっていた。
「公開の場で、証拠が偽られたと示します」
「危険だ。毒殺犯だと信じた者たちの前へ出ることになる」
「はい。それでも、私自身が確かめた事実として示したいのです」
皇帝はしばらく黙ってから、私へ手を差し出した。
「隣に立つことを許してくれるか」
私はその手を見た。
第十五話の朝なら、記憶の中の裏切りが重なって見えただろう。今も恐れが完全に消えたわけではない。差し出された手が、いつか私を拘束する手に変わるのではないかという疑いは、古傷のように残っている。
それでも、彼は私の言葉だけで無罪を宣言しようとはしなかった。私が選んだ方法で確かめるため、隣に立とうとしている。
「命令する皇帝としてではなく、同じ事実を見た証人としてお願いします」
「約束する」
私は自分から、その手を取った。熱を帯びた指が、確かめるように静かに閉じた。
まず、記憶を紙の左側へ書いた。
昨日、別の医師が薬庫から瓶を持ってきたこと。瓶の底に四十二の番号が刻まれていたこと。首の近くに三日月形の傷があり、布へ引っ掛かったこと。薬草液を小杯へ注ぎ、皇帝が飲み干すまで、私と医師と近衛兵が同じ室内にいたこと。
右側には、記憶以外のものを書いた。
薬庫の出納控え。医師の手元に残された投薬記録の写し。空瓶そのもの。立ち会った近衛兵の証言。そして、皇帝の容体の推移。
頭の中の光景と、外に残された痕跡を混ぜない。記憶が鮮明であるほど、それだけで真実だと思い込みたくなる。けれど今回、誰かはまさにその思い込みを利用したのだ。
二枚の投薬記録を窓明かりへ透かして重ねる。
私の署名も、瓶の番号も、時刻も同じだった。違うのは、後から添えられた薬品の分類だけだ。原本では瓶の番号が毒薬台帳へ結びつけられ、医師が保管していた写しでは薬草液台帳へ結びつけられている。
署名は偽物ではない。
署名が保証していたのは、私が四十二番の瓶から薬を投与したという事実だけだった。
今その瓶に何の札が付いているかまでは、保証していない。
「札を交換されたのですね」
私が言うと、皇帝は空瓶の首を見た。
「だが、交換した瞬間を見た者はいない」
「だから、相手にもう一度交換させます」
毒薬の札には、瓶を洗った水へ判別液を垂らせば紫黒色になると記されていた。
私は公開審理で空瓶を洗い、札と中身が一致していたか確かめると告知させた。
この瓶が本当に薬草液の瓶なら、紫黒色にはならない。偽装した者は、審理の前に本物の毒薬瓶とすり替えなければならなくなる。
「来なければ、判別で偽装が明らかになる。来れば、その手を押さえられる」
皇帝の確認に、私はうなずいた。
「ただし、証拠保管室を厳重に閉ざしすぎれば罠だと悟られます。監視は見えない場所へ」
「君の策だ。配置も君が納得する形にしよう」
死への恐怖は消えていなかった。けれど、ただ怯えていたときとは違う。予告の正午へ向かって一つずつ手を打つたび、胸を締めつけていた恐怖が、確かめるべき問いへ形を変えていった。
その夜、証拠保管室の扉が開いた。
暗い廊下で蝶番の軋む音がし、細い灯火が室内へ滑り込んだ。中へ入ったのは、侍医長の管理下で薬庫の札と記録を扱っていた係だった。
近衛兵が踏み込んだとき、その手には二本の瓶があった。一つは三日月形の傷がある四十二番の瓶。もう一つは、同じ形をした傷のない瓶。
机の上には切り離された毒薬の札と薬草液の札が並び、係は結び紐を取り替えている最中だった。
「侍医長に命じられたのか」
皇帝の問いに、係は唇を噛んだ。灯火に照らされた額から、汗が一筋落ちる。
答えなくとも、震える袖から薬庫の裏鍵と、札へ押す出納印が落ちた。石床に金属音が響き、それはどんな自白よりも明瞭に聞こえた。
罠は壊れた。
同時に、侍医長の一派は薬庫の札、出納印、記録へ触れる権限を失った。すべての鍵は近衛兵へ移され、原本と控えは別々の場所で保管されることになった。
翌日、宮殿前の広場には絞首台が組まれていた。
処刑命令は成立していない。それでも毒殺犯が裁かれるという触れ書きが先に出回り、広場には群衆が集まっていた。乾いた風が木の台を鳴らし、垂れた縄を揺らしている。
私が姿を見せると、罵声が飛んだ。
人質花嫁。毒婦。祖国の間者。
縄はまだ私の首に掛かっていないのに、彼らの中では物語が完成していた。
敵国の花嫁が薬を飲ませ、皇帝が倒れ、毒薬の札が付いた瓶と本人の署名が見つかった。
一つ一つは事実に見える。けれど、その間を結ぶ因果だけが偽物だった。
足が止まりかけた。大勢に憎まれる音は、刃より鈍く、深く刺さる。けれど隣に足音が並んだ。
皇帝が私の隣へ立った。顔色は悪く、長く立てる状態ではない。それでも私より前へ出ず、私に代わって話し始めることもしなかった。
私は息を吸った。
まず、二枚の記録を示した。
次に、立ち会った医師と近衛兵の証言を聞かせた。
最後に、押収した二本の瓶へ水と判別液を注いだ。滴が落ちる音さえ聞こえそうなほど、広場は静まり返っていた。
三日月形の傷がある瓶の水は、薄い琥珀色のままだった。
傷のない瓶だけが、底から煙のような色を広げ、紫黒く濁った。
群衆の声が止んだ。
捕らえられた係と、切り替え途中の札、裏鍵、出納印が並べられる。
そこで初めて皇帝が口を開いた。
「ミレイユ・ローデンが行った投薬は、医師の確認を受け、私と合意した共同判断だった。彼女一人の独断ではない。私はその場にいた証人として、ここに立っている」
彼は私を庇って事実を曲げなかった。
私の選択を、自分の責任と並べたのだ。
正午の鐘が鳴った。
一度、二度と重い音が空を震わせる。私は無意識に喉へ触れた。
絞首台の縄は、風に揺れているだけだった。
私は生きていた。
今回の予告は、毒や刃のような直接の凶器だけで成立するものではなかった。偽の因果を大勢に信じさせ、裁きを動かすことまで、死の仕掛けになり得る。
人の信じる物語も、凶器になる。
だからこれからは、記憶と記録、物証と証言を分けて確かめる。二人のうち片方しか知らない事実を、結論にしない。
広場を出たところで、私は皇帝の袖をつかんだ。
彼が足を止める。
「私は、自分の記憶を疑うことができます」
口にすると、胸の奥が少し痛んだ。けれど、それは能力を失う痛みではなかった。記憶を正しく使うために、万能だという思い込みを手放す痛みだった。
「それでも、あなたと一緒に確かめた事実は信じられます」
皇帝は触れてよいかを問うように、手のひらを上へ向けた。
私はそこへ自分の手を重ねた。今度は群衆に示すためでも、命令に従うためでもない。私自身が望んで選んだ。
翌朝、十八通目の封書には、初めて私たちの敵の名が記されていた。
『死亡予告
明日午後一時、オクタヴィア前皇妃は密閉礼拝室で酸欠により死亡する』
私は封書を机へ置くと、呼び鈴を引いた。
「オクタヴィア前皇妃へ面会を申し込みます。――彼女を救うために」
(第18話へ続く)




