↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/20

信じきれなくても

鍵を掛けた小箱の中に、皇帝の死がある。


『死亡予告

明日午後三時、皇帝は治療のための瀉血によって失血死する』


私は封書の全文を、もう一度頭の中でなぞった。


彼を救えば、私を陥れようとした黒幕を生かすことになるかもしれない。けれど告げずにいれば、明日の午後三時、彼は死ぬ。


毒杯を叩き落とした最初の日から、封書は私の迷いを待ってはくれなかった。


私は目を閉じ、昨夜見た光景を最初から再生した。


甘苦い香り。暗転。皇帝の執務室。小瓶を差し出す左手。印章指輪。その下を走る古傷。


――左手?


私は婚礼の誓約を思い出した。彼が差し出したのは右手だった。印章指輪も右。古傷は親指の付け根から手首の外側へ斜めに走っていた。


昨夜の傷は、反対向きだった。


指輪を移すことはできる。だが傷の向きまでは変えられない。


さらに音を分ける。侍医長が私の処刑について尋ねた直後、西塔の時鐘が十二打し、そのあとで正午の大鐘が一度鳴った。


宮殿では逆だ。正午の大鐘を合図に、西塔が十二打する。私は十三日間、同じ順序を聞いている。


記憶は間違っていない。


私が見聞きしたものの方が、偽物だったのだ。


私は護衛を伴い、西棟の控え室へ戻った。冷えた暖炉の奥には香の痕跡がない。代わりに壁布の裏で、指一本ほどの隙間を見つけた。


壁板を外すと、その向こうに狭い部屋があった。


床には甘苦い粉の残る香炉。壁際には薄く銀を引いた大鏡。そして鏡の向こうには、皇帝の執務室を左右逆に再現した机と窓枠が並んでいた。


二枚の小さな鐘まで置かれている。鳴らす順序を誤ったのだろう。


薬で意識を曇らせた私に鏡越しの芝居を見せ、記憶の中にある皇帝の顔と声を重ねさせた。


完全記憶は、見聞きしたものを正しく保存する。


けれど、最初から偽物を見せられれば、偽物を鮮明に残してしまう。


それを認めるのは、自分の足元を壊すようで怖かった。


しかも、この仕掛けが偽物だと分かっても、皇帝の無実が証明されたわけではない。彼自身が偽装を命じた可能性は残る。


それでも私は、小箱を抱えて彼の執務室へ向かった。


皇帝は私が望んだとおり、机を挟んだ向こう側から動かなかった。


「その箱に、封書があるのか」


私はうなずき、自分の手で鍵を開けた。


黒い封書を机へ置き、全文を読み上げる。それから昨夜見たものと、鏡の部屋で見つけたものを残さず話した。


彼は弁明を挟まなかった。


「結論は」


「昨夜の光景は作られたものです。ですが、あなたが作らせた可能性までは消えていません」


「そうか」


怒りも、失望も返ってこなかった。


「ならば、私を信じろとは言わない。おまえはどうしたい」


胸の奥で、恐怖と願いがぶつかった。


私は彼を信じたい。けれど、信じたいというだけで自分の記憶を否定するのも、記憶だけで彼を見殺しにするのも違う。


「私はまだ、あなたを信じきれません」


声が震えた。それでも目は逸らさなかった。


「ですが、死んでほしくない。疑いを確かめるためにも、あなたには生きていてもらいます」


彼の肩から、わずかに力が抜けた。


「それで十分だ。信頼を証明するために、どちらかが命を差し出す必要はない」


私たちは予告への対策を決めた。


翌日は複数の医師を立ち会わせ、すべての薬と器具を記録する。瀉血は行わない。高熱が出ても冷却と水分補給を続け、意識を失った場合の処置も事前に彼の同意を書面へ残す。


「おまえが額を冷やすことも、許可しておくべきか」


「私が触れてもよいのですか」


「おまえが触れたいと思ったときだけだ」


私は共同の指示書へ署名した。


翌日の昼前、皇帝は執務中に倒れた。


朝から口にしたものはすべて検査していた。それでも、封書が現れる前に飲んだ侍医長の調合薬が残っていた。遅れて作用した毒が、彼の体温を急激に押し上げたのだ。


午後二時を過ぎるころには、呼吸は浅く、寝台の上の肌は触れなくても分かるほど熱を帯びていた。


侍医長は銀の刃と受け鉢を運ばせた。


「毒された血を外へ出さねばなりません。直ちに両腕から瀉血を」


「何度行うつもりです」


「熱が引くまでです」


受け鉢は四つあった。


一度で止めるつもりなどない。毒で弱った体から血を抜き続け、死因を治療へ置き換える罠だった。


「瀉血は認めません」


「素人の判断で陛下を死なせるおつもりか!」


私は共同指示書を広げた。


「陛下ご自身の拒否です。意識を失う前に、複数の立会人の前で署名されています」


侍医長が刃へ手を伸ばす。


護衛がその手首を押さえた。


銀の刃と四つの受け鉢は回収され、侍医長は治療室から連れ出された。皇帝の治療命令権も停止され、薬庫には封印が掛けられた。


けれど、罠を壊しただけで高熱が消えるわけではない。


私は冷たい布を替え続けた。別の医師が確認した穏やかな薬草液を、瓶の番号まで記録して少量ずつ飲ませる。投与記録には、私自身も署名した。


二時五十分。


皇帝の唇が乾き、呼吸の間隔が長くなった。


二時五十八分。


握っていた手から力が抜けた。


「ここにいます」


返事はない。


それでも私は手を離さなかった。昨夜は近づくなと拒んだ手を、今日は自分の意思で握っている。


午後三時の鐘が鳴った。


一打、二打、三打。


彼の腕には傷一つなく、受け鉢には一滴の血も落ちていない。


指先に、弱いながら確かな脈があった。


封書が告げたのは高熱による死ではない。瀉血による失血死だった。死へ至る最後の処置を外せば、前提となる毒が残っていても、予告どおりの死は成立しない。


ただし、救命と治癒は同じではなかった。


熱は夜まで続いた。私たちは冷却と水分を途切れさせず、彼の体が毒に耐えるのを待つしかなかった。


夜半、皇帝が目を開けた。


「ミレイユ」


「はい」


「手を握ってもいいか」


私は一度、自分の胸へ問い直してから答えた。


「お願いします」


彼の指が、私の手を包んだ。


「次からは、封書が私たちのどちらを疑わせても、一人で抱えないと約束できるか」


「はい。ただし、互いの言葉だけで結論を決めないことも約束してください」


「二人で確かめる」


信じるとは、疑わないことではない。


疑いを隠さず、相手の拒否を尊重したまま、同じ事実を確かめに行くことなのだ。


翌朝、熱の残る皇帝と並んで、十七通目の封書を開いた。


『死亡予告

明日正午、ミレイユ・ローデンは皇帝毒殺犯として絞首刑に処され死亡する』


読み終えた直後、治療記録と押収された薬瓶が運び込まれた。


昨夜、私が皇帝へ飲ませた瓶には、高熱を引き起こす毒薬の札が付いていた。


そして投与者の欄にあったのは、偽造ですらない、昨日私が自分で記した署名だった。


(第17話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。