信じきれなくても
鍵を掛けた小箱の中に、皇帝の死がある。
『死亡予告
明日午後三時、皇帝は治療のための瀉血によって失血死する』
私は封書の全文を、もう一度頭の中でなぞった。
彼を救えば、私を陥れようとした黒幕を生かすことになるかもしれない。けれど告げずにいれば、明日の午後三時、彼は死ぬ。
毒杯を叩き落とした最初の日から、封書は私の迷いを待ってはくれなかった。
私は目を閉じ、昨夜見た光景を最初から再生した。
甘苦い香り。暗転。皇帝の執務室。小瓶を差し出す左手。印章指輪。その下を走る古傷。
――左手?
私は婚礼の誓約を思い出した。彼が差し出したのは右手だった。印章指輪も右。古傷は親指の付け根から手首の外側へ斜めに走っていた。
昨夜の傷は、反対向きだった。
指輪を移すことはできる。だが傷の向きまでは変えられない。
さらに音を分ける。侍医長が私の処刑について尋ねた直後、西塔の時鐘が十二打し、そのあとで正午の大鐘が一度鳴った。
宮殿では逆だ。正午の大鐘を合図に、西塔が十二打する。私は十三日間、同じ順序を聞いている。
記憶は間違っていない。
私が見聞きしたものの方が、偽物だったのだ。
私は護衛を伴い、西棟の控え室へ戻った。冷えた暖炉の奥には香の痕跡がない。代わりに壁布の裏で、指一本ほどの隙間を見つけた。
壁板を外すと、その向こうに狭い部屋があった。
床には甘苦い粉の残る香炉。壁際には薄く銀を引いた大鏡。そして鏡の向こうには、皇帝の執務室を左右逆に再現した机と窓枠が並んでいた。
二枚の小さな鐘まで置かれている。鳴らす順序を誤ったのだろう。
薬で意識を曇らせた私に鏡越しの芝居を見せ、記憶の中にある皇帝の顔と声を重ねさせた。
完全記憶は、見聞きしたものを正しく保存する。
けれど、最初から偽物を見せられれば、偽物を鮮明に残してしまう。
それを認めるのは、自分の足元を壊すようで怖かった。
しかも、この仕掛けが偽物だと分かっても、皇帝の無実が証明されたわけではない。彼自身が偽装を命じた可能性は残る。
それでも私は、小箱を抱えて彼の執務室へ向かった。
皇帝は私が望んだとおり、机を挟んだ向こう側から動かなかった。
「その箱に、封書があるのか」
私はうなずき、自分の手で鍵を開けた。
黒い封書を机へ置き、全文を読み上げる。それから昨夜見たものと、鏡の部屋で見つけたものを残さず話した。
彼は弁明を挟まなかった。
「結論は」
「昨夜の光景は作られたものです。ですが、あなたが作らせた可能性までは消えていません」
「そうか」
怒りも、失望も返ってこなかった。
「ならば、私を信じろとは言わない。おまえはどうしたい」
胸の奥で、恐怖と願いがぶつかった。
私は彼を信じたい。けれど、信じたいというだけで自分の記憶を否定するのも、記憶だけで彼を見殺しにするのも違う。
「私はまだ、あなたを信じきれません」
声が震えた。それでも目は逸らさなかった。
「ですが、死んでほしくない。疑いを確かめるためにも、あなたには生きていてもらいます」
彼の肩から、わずかに力が抜けた。
「それで十分だ。信頼を証明するために、どちらかが命を差し出す必要はない」
私たちは予告への対策を決めた。
翌日は複数の医師を立ち会わせ、すべての薬と器具を記録する。瀉血は行わない。高熱が出ても冷却と水分補給を続け、意識を失った場合の処置も事前に彼の同意を書面へ残す。
「おまえが額を冷やすことも、許可しておくべきか」
「私が触れてもよいのですか」
「おまえが触れたいと思ったときだけだ」
私は共同の指示書へ署名した。
翌日の昼前、皇帝は執務中に倒れた。
朝から口にしたものはすべて検査していた。それでも、封書が現れる前に飲んだ侍医長の調合薬が残っていた。遅れて作用した毒が、彼の体温を急激に押し上げたのだ。
午後二時を過ぎるころには、呼吸は浅く、寝台の上の肌は触れなくても分かるほど熱を帯びていた。
侍医長は銀の刃と受け鉢を運ばせた。
「毒された血を外へ出さねばなりません。直ちに両腕から瀉血を」
「何度行うつもりです」
「熱が引くまでです」
受け鉢は四つあった。
一度で止めるつもりなどない。毒で弱った体から血を抜き続け、死因を治療へ置き換える罠だった。
「瀉血は認めません」
「素人の判断で陛下を死なせるおつもりか!」
私は共同指示書を広げた。
「陛下ご自身の拒否です。意識を失う前に、複数の立会人の前で署名されています」
侍医長が刃へ手を伸ばす。
護衛がその手首を押さえた。
銀の刃と四つの受け鉢は回収され、侍医長は治療室から連れ出された。皇帝の治療命令権も停止され、薬庫には封印が掛けられた。
けれど、罠を壊しただけで高熱が消えるわけではない。
私は冷たい布を替え続けた。別の医師が確認した穏やかな薬草液を、瓶の番号まで記録して少量ずつ飲ませる。投与記録には、私自身も署名した。
二時五十分。
皇帝の唇が乾き、呼吸の間隔が長くなった。
二時五十八分。
握っていた手から力が抜けた。
「ここにいます」
返事はない。
それでも私は手を離さなかった。昨夜は近づくなと拒んだ手を、今日は自分の意思で握っている。
午後三時の鐘が鳴った。
一打、二打、三打。
彼の腕には傷一つなく、受け鉢には一滴の血も落ちていない。
指先に、弱いながら確かな脈があった。
封書が告げたのは高熱による死ではない。瀉血による失血死だった。死へ至る最後の処置を外せば、前提となる毒が残っていても、予告どおりの死は成立しない。
ただし、救命と治癒は同じではなかった。
熱は夜まで続いた。私たちは冷却と水分を途切れさせず、彼の体が毒に耐えるのを待つしかなかった。
夜半、皇帝が目を開けた。
「ミレイユ」
「はい」
「手を握ってもいいか」
私は一度、自分の胸へ問い直してから答えた。
「お願いします」
彼の指が、私の手を包んだ。
「次からは、封書が私たちのどちらを疑わせても、一人で抱えないと約束できるか」
「はい。ただし、互いの言葉だけで結論を決めないことも約束してください」
「二人で確かめる」
信じるとは、疑わないことではない。
疑いを隠さず、相手の拒否を尊重したまま、同じ事実を確かめに行くことなのだ。
翌朝、熱の残る皇帝と並んで、十七通目の封書を開いた。
『死亡予告
明日正午、ミレイユ・ローデンは皇帝毒殺犯として絞首刑に処され死亡する』
読み終えた直後、治療記録と押収された薬瓶が運び込まれた。
昨夜、私が皇帝へ飲ませた瓶には、高熱を引き起こす毒薬の札が付いていた。
そして投与者の欄にあったのは、偽造ですらない、昨日私が自分で記した署名だった。
(第17話へ続く)




