真実より鮮明な嘘
近衛兵が兜を脱いだ直後、私はもう一度、黒い紙面を声に出して読んだ。
『死亡予告
明日午前十時、皇帝の七度の投薬を目撃した近衛兵は西棟の昇降機の墜落によって死亡する』
「点検命令には、何と?」
「明日午前十時、昇降機の籠へ乗り、異音の有無を確認せよと」
近衛兵が差し出した書状には、設備管理に使われる印が押されていた。だが、時刻まで封書と一致している。
「行かせない」
皇帝が即座に命じた。
「西棟を封鎖し、昇降機を停止させろ」
近衛兵は頭を下げたものの、唇を噛んでいる。
「まだ何かありますね」
私が問うと、彼は覚悟を決めたように顔を上げた。
「七度の投薬の日、私はすべて陛下の部屋の前を守っていました。侍医長は毎回、立会人も侍従も退室させ、内側から扉を施錠したのです」
「私が命じたのか」
「いいえ。陛下は少なくとも二度、『護衛を残せ』と仰いました。ですが侍医長は、治療上の必要だと押し切りました」
皇帝の記憶から抜け落ちた七度の投薬。そのすべてで、侍医長は彼と二人きりだった。
近衛兵が死ねば、その証言も消える。
「閉じ込めて守るだけでは、昇降機に何が仕掛けられたか分かりません」
私は封書を机に置いた。
「今のうちに調べましょう。ただし、彼を籠には乗せません」
皇帝は私を見た。首にはまだ昨夜つけられた指の痕が残っている。それでも私は視線を逸らさなかった。
やがて彼はうなずいた。
「おまえの条件で行う」
翌朝、西棟は夜明け前から封鎖された。
昇降機は、荷物と数人を上下させる木製の籠を、太い綱と巻き上げ機で動かす仕組みだった。主綱が切れた場合は、別の綱が安全装置を引き、鉄の爪を壁の歯へ噛ませる。
近衛兵を廊下に残し、私は皇帝と機械室へ上がった。
主綱の表面には、新しい油が塗られていた。その下へ指を滑らせると、一本だけ毛羽立ち方が不自然だった。
「ここです」
油を布で拭う。綱は芯近くまで刃を入れられ、切れ目を隠すように黒い糸が巻かれていた。
皇帝が安全装置へ手を伸ばす。右手の印章指輪の下を、剣で負った古傷が横切っていた。
「こちらも動かない」
鉄の爪は細い紐で持ち上げたまま固定されている。紐は壁の穴を通り、階下へ続いていた。
「時刻仕掛けです。十時になれば巻き上げ機が動き、傷ついた主綱が切れる。けれど安全装置は開いたままになる」
私たちは籠の代わりに石袋を積み、近衛兵を昇降機から離した。
あとは時刻仕掛けを外すだけだった。
ところが十時直前、階下で扉の閉まる音がした。
「陛下!」
廊下に残したはずの近衛兵の声だった。
私たちが機械室から身を乗り出すと、彼は昇降機の籠に閉じ込められていた。背後から押し込まれ、外側の閂を掛けられたのだ。
巻き上げ機が軋み始める。
皇帝が主綱をつかんだが、人の手で止められる力ではない。私は床に膝をつき、安全装置を固定する紐を追った。
「これを切れば爪が落ちるはずです」
「外れれば籠ごと落ちる」
「外れません。結び目は爪を引き上げる方向にだけ力が掛かっています」
十時の鐘が鳴った。
主綱から太い繊維が弾ける。一本目、二本目。完全に切れるまで、もう数秒もない。
皇帝が短剣を抜き、私へ柄を差し出した。
「おまえの目を信じる」
私は短剣を受け取った。
迷えば、間に合わない。
黒い紐を断つ。
直後、主綱が切れた。
籠が落ち、近衛兵の叫びが響く。だが一階分も落ちないうちに、解放された鉄爪が壁の歯へ噛み合った。
塔全体を揺らす衝撃のあと、籠は空中で止まった。
扉をこじ開けて救い出された近衛兵は足を痛めていたが、自分で立ち、私たちの前へ戻ってきた。
「七度とも、侍医長は薬箱を自分で持ち込みました。退出後、その箱は必ず軽くなっていました。私は証言します」
昇降機を管理していた係は、西階段から逃げたところを捕らえられた。所持していた鍵と設備管理印は回収され、点検命令も本人が押印したものだと判明した。
敵は昇降機へ自由に触れる権限を失った。
そして、死を回避しても、切られた綱も、固定された安全装置も、命令書も消えなかった。
封書が告げた結末を覆したあとにも、そこへ至るための物証は残る。
皇帝が私の前へ右手を差し出した。
「手が切れている。触れてもよいか」
私は自分の掌を見た。綱の繊維で裂け、血が滲んでいる。
「お願いします」
彼は私の許可を得てから布を巻いた。印章指輪の下の古傷が、すぐ近くに見えた。
「今度は私が命綱になれましたね」
「ああ。おまえが切ると決めたものを、私は迷わず託せた」
その言葉が、胸の奥へ温かく沈んだ。
救出後、皇帝は捕らえた係の尋問へ向かい、私は西棟の控え室で手当てを待った。
暖炉に火はなかった。なのに、かすかな甘苦い香りがした。
昨夜と同じ香りだと気づき、口元を袖で覆ったときには、もう指先から力が抜け始めていた。
立ち上がろうとした膝が崩れる。
視界が暗くなった次の瞬間、私は皇帝の執務室にいた。
扉の陰に座らされ、声も出せない。正面には皇帝と侍医長が立っていた。
皇帝は左手で小瓶を差し出した。その手には印章指輪があり、指輪の下を古傷が走っている。
「これを使え」
聞き違えるはずのない声だった。
侍医長が小瓶を受け取る。
「ミレイユ・ローデンは、陛下を何度も救っております。疑わせるのは難しいかと」
「だからこそだ。毒はあの女が持ち込んだことにしろ」
「処刑まで進めますか」
皇帝は冷たく答えた。
「人質花嫁に価値はない。役目が終われば捨てればよい」
婚礼の夜、祖国から告げられたのと同じ言葉だった。
私を犯人にするため、彼は侍医長へ毒を渡していた。
その光景が、指輪の細かな傷まで鮮明に焼きついた。
再び目を開けると、私は控え室の床に倒れていた。甘苦い香りは消え、皇帝が数歩先に膝をついていた。
「ミレイユ」
差し出された手を見た瞬間、喉が凍った。
「近づかないでください」
皇帝の手が止まる。
痛みをこらえるように拳が握られたが、彼は一歩も近づかなかった。
「分かった。触れない」
「今夜は、別の部屋にいたいのです」
「そうしよう。理由も、話せるまで問わない」
拒絶した私を責めず、彼は自分から扉の外へ退いた。
それが私を守るための誠実さだと、昨日までの私は知っていた。
けれど今の私には、皇帝が毒を渡した光景も、同じほど確かな記憶として残っていた。
翌朝、十六通目の黒い封書が、私一人の寝台に現れた。
『死亡予告
明日午後三時、皇帝は治療のための瀉血によって失血死する』
彼を救えばよいのか。
それとも、私を陥れようとした黒幕を救うことになるのか。
私は初めて封書を皇帝に見せず、鍵の掛かる小箱へしまった。
(第16話へ続く)




