命綱
皇帝の身体が床へ倒れる前に、私は肩を抱き止めた。
腕にかかった重みで膝が沈む。つい先ほどまで私を見据えていた灰色の瞳は閉ざされ、張りつめていた身体から力が抜けていた。
開かれたままの黒い封書が、足元へ滑り落ちる。
『死亡予告
明日午前二時、ミレイユ・ローデンは皇帝に首を絞められ死亡する』
明日だ。今ではない。
けれど、部屋を満たし始めた甘苦い香りは、礼拝堂で皇帝の意識を奪った鎮静香と同じだった。舌の奥にまとわりつくような甘さに、嫌な記憶が蘇る。
「窓を開けてください! 火鉢には触れず、濡らした布を!」
駆け込んだ近衛兵へ叫び、私は皇帝の鼻と口を袖で覆った。呼吸はある。浅く速いが、途切れてはいない。首筋に指を当てれば、脈も強く打っている。
皇帝の瞼は閉じたままだった。
それなのに、右手だけが持ち上がる。
何かを探るように震えた指先が、迷うことなく私の喉へ向いた。
反射的に身を引くと、手は空をつかみ、床へ落ちた。その鈍い音に、胸の奥まで冷える。
「……二つ目の鐘で……反逆者の、首を……」
掠れた声を聞いた瞬間、背筋が凍った。
皇帝自身の言葉ではない。声は彼のものでも、そこに彼の意志がない。眠った彼の口と身体を借りて、誰かの命令が繰り返されている。
濡れ布を受け取った私は、息を止めて火鉢へかぶせた。じゅっと音が立ち、白い煙が布の下へ押さえ込まれる。兵たちが窓を開け放つと、冷たい朝の風が一気に流れ込み、頬と指先を刺しながら甘苦い香りを薄めていった。
侍医長を呼ぶべきだという声が上がった。
「呼ばないでください」
私は即座に遮った。
七度の投薬記録を見つけたばかりだ。皇帝が話せない間、確かめられていない薬を拒む権利を、私は彼自身から預かっている。その信頼を、恐怖に負けて手放すわけにはいかなかった。
別の医師に呼吸と脈だけを診てもらい、薬は使わせなかった。解毒薬など存在しない。私たちにできたのは新鮮な空気を入れ、襟元を緩め、身体を横たえ、彼自身が目覚めるまで見守ることだけだった。
待つ時間はひどく長かった。壁の時計の針が進む音と、皇帝の呼吸のたびに鳴るかすかな衣擦れだけが、冷えた室内へ響いた。
半刻後、皇帝の瞼が開いた。
焦点の合わない瞳が天井をさまよい、やがて私を捉える。
「私は、何をした」
最初の問いはそれだった。自分の具合でも、犯人の名でもなく、私に何をしたかを尋ねた。
私は彼の手が喉へ伸びたことも、二つ目の鐘と反逆者の首について呟いたことも、一言も省かず伝えた。隠せば安心させられるかもしれない。だが、それは彼から選ぶ権利を奪うことになる。
皇帝は自分の右手を見下ろした。何の傷もない指を、知らないものを見るように見つめている。
「覚えていない。封書を読んで、おまえから離れたところまでだ」
私を恐れさせまいとして退いた直後、彼は意思を奪われた。
その事実が、予告そのものより苦しかった。黒い文字は彼を私の死の実行者としか記さない。けれど実際には、彼もまた身体を奪われる被害者なのだ。
「明日の午前二時まで、私を拘束しろ」
「陛下」
「手を縛り、剣を奪え。おまえは別室に置く」
迷いのない声だった。けれど、それは彼一人が危険も屈辱も引き受けようとする選択でもある。
私は首を横へ振った。
「剣は預かります。拘束もします。ですが、私は隣室へ逃げません」
「予告されたのはおまえだ」
「だからこそ、見届けます。陛下の意思が失われたとき、誰が何をさせようとするのか。離れていては、その瞬間を確かめられません」
怖くないわけではない。先ほど私へ伸びた指を思い出すだけで、喉が狭くなり、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
それでも、あの手が私を守ってくれたことも覚えている。北塔で命綱を引き、書庫では私を庇い、法廷の外では私が取るまで待っていた手だ。
薬に動かされた一度だけを、彼のすべてにはしたくなかった。
「私に陛下を縛る権利をください。ただし、陛下が正常な判断を失っている間だけです。目覚めたら、私の判断で拘束を続けません」
皇帝はしばらく私を見つめた。私が恐怖を隠しきれていないことも、きっと見抜いていた。それでも問い返さず、やがて両手を差し出した。
「許す。私の武器を奪い、必要なら私を縛れ。おまえが危険だと告げたときは、私自身より、おまえの判断を優先してくれ」
私はその手首へ触れる前に尋ねた。
「革帯を巻きます。よろしいですか」
「ああ」
了承を聞いてから、私は帯を締めた。革の冷たさが指へ伝わり、金具が小さく鳴る。
守られるだけだった私が、今度は皇帝の手を封じている。胸は痛んだが、彼は目を逸らさなかった。私も目を逸らさず、指が一本入る余裕を確かめてから留め金を閉じた。
火鉢の灰からは、小指の先ほどの黒い香玉が見つかった。表面だけを普通の香木で覆い、熱が芯へ届くと鎮静薬が煙になる仕掛けだった。
香玉を運び込んだ香料係は拘束された。部屋からは、摂政時代の古い副印が押された指示書と、同じ香玉が三つ見つかった。敵は皇帝の部屋へ香を運び込む役目と、残りの薬を失った。
だが、すでに吸い込んだ薬までは取り出せない。いつ命令が身体を支配するのかも、どれほどの力を引き出すのかも分からなかった。
翌日の午前二時、私たちは暖炉も火鉢もない石室にいた。
壁も床も冷え切り、吐く息が白い。皇帝の両手は革帯で椅子へ固定され、剣は鞘ごと私が預かっている。近衛兵が四方に立ち、私は革帯の届かない場所から彼を見守った。
互いに何度も確かめた手順が、頭の中で繰り返される。異変が起きても刃物は使わない。私が近づくときは腰に命綱を結ぶ。危険なら兵がただちに引き離す。
一つ目の鐘が鳴った。
重い音が石壁を震わせ、皇帝の頭が垂れた。
「陛下」
返事はない。呼吸は続いているのに、私の声は届かなかった。
二つ目の鐘が鳴る。
彼の身体が突然起き上がった。
革帯が軋み、椅子の脚が石床を削る。閉じた瞼の下で眼球だけが激しく動いていた。首筋には血管が浮かび、押し殺した呻きが歯の隙間から漏れる。
「反逆者を……殺せ」
朝と同じ声だった。
皇帝は手首が赤く裂けても、帯を引き千切ろうとした。革へ血が滲み、金具が一度ごとに悲鳴を上げる。
「押さえます!」
兵が駆け寄ろうとする。
「待ってください!」
力ずくで押さえれば、彼の腕を折るかもしれない。私は震える指で腰へ命綱を結び、その端を兵へ渡した。
「私が合図したら、すぐ引いてください」
皇帝の前へ進む。
足音が石床へ響くたび、逃げろと身体が訴えた。恐怖で足が止まりそうになった。けれど、私は彼の耳元へ届く距離まで近づいた。
「陛下。命綱です」
第八話の北塔で決めた、二人だけの合言葉。
偽の命令には決して入らない、皇帝と私だけが知る一語だった。命令ではなく、助けを求めてもよいのだと互いに認めた言葉。
反応はなかった。
胸の奥で希望が細く軋む。それでも、聞こえていないとは限らない。
もう一歩近づいた瞬間、革帯の留め金が弾けた。
皇帝の両手が私の首へ掛かる。
背筋に衝撃が走り、息が塞がれた。指が喉へ食い込み、視界の端から暗く揺れる。兵が命綱を引くより早く、私は彼の手首をつかんだ。
振りほどくためではない。この手の奥にいる彼へ、触れていると伝えるために。
「命綱……私を、落とさないで」
北塔で彼が私を引き上げたときと同じ言葉を、潰れかけた声にした。
首へ食い込んでいた指が止まる。
ほんの一瞬だった。けれど、命令に従うだけの手が、確かに迷った。
皇帝の瞼が開いた。
灰色の瞳が私を映す。そこに驚愕と恐怖が戻り、次の瞬間、両手が離れた。
私は命綱で後ろへ引かれ、石床へ膝をついた。咳き込みながら喉を押さえる。焼けつくような空気が肺へ戻る痛みの向こうで、皇帝も床へ崩れ落ちた。
「ミレイユ」
今度は、はっきりと彼自身の声だった。
「ここにいます」
涙で滲む視界の中、私は震える手を伸ばした。彼も手を上げかけたが、私の喉に残る赤い痕を見て動きを止める。
彼は触れずに待った。
選ぶのは私だと、その沈黙が告げていた。
私から、その手を取った。血の滲んだ手首も、冷たい指先も、紛れもなく彼のものだった。
二時の鐘が鳴り終わったあとも、私の脈は手のひらの下で打ち続けていた。
封書に実行者が記されていても、その者に殺意があるとは限らない。薬で意識を奪われ、他人の命令を実行させられることもある。
皇帝は私を殺そうとはしなかった。
そして私は、彼の手を恐れた自分を責めず、それでももう一度取ることを選べた。
翌朝、十五通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午前十時、皇帝の七度の投薬を目撃した近衛兵は西棟の昇降機の墜落によって死亡する』
室内にいた近衛兵の一人が、兜を脱いだ。強張った顔にも、覚悟だけははっきりと浮かんでいる。
「その近衛兵は私です。――そして今朝、昇降機の点検を命じる書状が届きました」
(第15話へ続く)




