第3話 看板に偽りはありませんが
「実家代行って、仕送りも出るの?」
「こっちが欲しい」
「実家も、だいたいそう言う」
ミナは看板の前でうなずいた。
宿の開業を手伝ってくれた女だ。俺が三年間働いていた食堂の元同僚で、一つ年上。茶色の髪を後ろでまとめ、肩には丈夫そうな買い物袋を掛けている。
元は冒険者で、食堂にいた頃は、注文を聞きながら釣り銭を数え、店主が隠した菓子まで見つけていた。
今朝も、見なくていいところまで見ている。
「一泊八枚で、実家代行が二枚。実家のほうが安いね」
「泊まる人への追加だから」
「じゃあ、縁談を断ってもらうのは?」
「やらない」
「畑の草取り」
「やらない」
「久しぶりに帰ったら、部屋が物置になってるやつ」
「それを頼む客がいるか」
ミナは少し笑って、看板の下の行を指した。
『飯。風呂。寝床。帰ったら、おかえり』
「前に見たときより、分かるようにはなった」
「おまえに言われて足したんだ」
「まだ、だいぶ広い」
開業二日目にして、うちの看板は二度目の検査を受けていた。
「今日はどうした?」
「東広場の古道具市。鍋を見に行く前に寄ったの」
「また買うのか」
「まだ見てるだけ。一つ、よさそうなのが出るって」
ミナは袋から折り畳んだ紙を出した。鍋の大きさと値段が、細かく書き込まれている。
自分の食堂を開く。
彼女は、前の店にいた頃からそう言っていた。
「肝心の店は?」
「探してる」
「鍋が先?」
「鍋は待ってくれないから」
妙にもっともらしく聞こえた。
俺は扉を開けた。
「入って。茶でも飲む? 昼飯は? パンなら焼けるけど。開業前、掃除を手伝ってもらったし、風呂も――」
「トーマ」
「何」
「まず、この扉の前からどいて」
俺は、入口の真ん中に立っていた。
*
ミナは食堂へ入ると、買い物袋を椅子の背に掛けた。
「今はお茶だけ。昼の鐘が鳴ったら行くから」
「分かった」
「で、お客さんは?」
「一人。三泊延長してくれた」
「へえ。初日から?」
目が丸くなった。
うれしくなって、俺はうなずいた。
「夜に戻ってくる」
「よかったね」
からかう声ではなかった。
それだけで、昨夜から働きっぱなしだった足が少し軽くなった気がした。
茶を出すと、ミナは両手で茶碗を包んだ。
「さっきの、毎回やるの?」
「何を」
「入口で、飯、風呂、パン、って」
「いや。疲れてるだろうと思って」
「疲れてるときに全部聞かれたら、たぶん全部うなずくよ、私」
青菜を口へ運んだレオンを思い出した。
朝、同じことをやったばかりだった。
「実家代行もさ。二枚払ったら、何をしてもらえるの?」
「帰ったら声を掛ける。朝は頼まれた時間に起こす。遅くなる日は、飯を取っておく」
「それ全部、毎日?」
「希望があれば」
ミナは茶碗を置いた。
「その『希望があれば』を、書けばいいんじゃない」
俺は扉のほうを見た。
看板には、肝心な言葉が一つ抜けていた。
*
帳場の引き出しから、余っていた小さな板を出した。
昨夜のうちに文字を練習しようと思っていたものだ。墨と筆も、まだそこにある。
「どれ」
ミナが椅子を寄せてきた。
「鍋はいいのか」
「まだ時間ある。下書きまでね」
彼女は裏の白い包み紙へ、さらさらと書いた。
『実家代行でできること』
「まず、出迎え」
「帰ったら、おかえり」
「起床」
「頼まれた時間に声を掛ける」
「寝坊したら?」
「もう一回、声を掛ける」
「それでも起きなかったら?」
考えた。
「……相談する」
「誰と」
眠っている客と相談する方法は、思いつかなかった。
「そこは、寝る前に決めとこう」
ミナは『朝の声掛け』とだけ書いた。
次は、夕飯の取り置き。
客が何時に帰ってくるか、今のところレオン一人分しか考えたことがない。
「遅くなっても温かいのを出したいんだ」
「何時まで?」
「帰ってくるまで」
「あんたは何時に寝るの」
答える前に、ミナが筆を置いた。
「できることを書いてるんだよね。できたらいいことじゃなくて」
俺は台所を見た。
昨夜は、一人を待っていただけだった。
「遅い時間は、先に相談してもらう。冷たいまま食べられるものに変えることもある」
「うん。それなら分かる」
包み紙の文字が三行になった。
ミナが、その下へもう一行足す。
『必要なものを選んでください』
俺は読み返した。
「これ、実家っぽくないな」
「私の実家より、ずっと話が通じる」
ミナは、さっきの鍋の紙を畳み直した。
「帰るたびに、家の店を継ぐ話になるんだ。夕飯が終わる前に」
俺は、何と言えばいいか迷った。
彼女の指が、紙についた折り目を押さえる。
「自分の店をやりたいって言うと、店ならあるでしょう、って」
「……そういうことじゃないのにな」
「そうなの」
ミナは短く答え、筆を俺へ渡した。
「帰ってくる人に何かさせなくても、いいんじゃない。ここでは」
墨のついた筆を受け取った。
帳場の隅に伏せた手紙へ、目が行った。
すぐに板へ戻した。
*
昼の鐘が鳴る前に、下書きはできた。
ミナは空になった茶碗を台所へ運び、袋を肩へ掛けた。
「ありがとな。字まで書いてもらって」
「板に清書するのは自分でやって」
「分かってる」
「夕方、鍋を見せに寄っていい? 買えたらだけど」
「もちろん。飯も食べていけよ」
彼女は目を細めた。
俺は、慌てて付け足した。
「食べたければ」
「食べたい。下書き代、それでいい?」
「安いな」
「おかわりするかもしれない」
「急に怖くなった」
ミナが笑った。
今度は俺が退く前に、彼女のほうから扉を開けた。
「いい鍋があるといいな」
「あるの。あとは、値段と私の財布の話し合い」
袋の口を叩き、古道具市のほうへ歩いていった。
俺は包み紙を板の横へ置いた。
書いてあることは、どれも特別ではない。
それでも、宿に来る人が、頼んでいいことを知っているのは悪くないと思った。
*
夕方、扉が開いた。
「ただいま」
レオンだった。
「おかえり」
言ってから、俺は少し待った。
朝飯はどうだったか。仕事は疲れなかったか。風呂にするか。
聞きたいことは、いくつもあった。
レオンが外套を脱いで、いつもの椅子へ向かう。
途中で、壁の新しい板に気づいた。
『実家代行でできること』
帰ったときの「おかえり」。
頼まれた時間の、朝の声掛け。
遅い日の夕飯の取り置き。時間と献立は相談。
必要なものを選んでください。
レオンは最後まで読み、それから振り返った。
「今夜、部屋で食べてもいいですか」
「もちろん。持っていくよ」
「いえ、運ぶのは自分で。少し、静かなところにいたくて」
俺はうなずいた。
うなずいたあとで、食卓を見てしまった。
今夜はミナも来る。三人で食べたら、賑やかになると思っていた。
「夕飯、嫌というわけでは」
レオンが言いかけた。
「分かってる。盆を出すね」
彼に、俺の顔色を見ながら説明を続けさせたくなかった。
台所で深い皿に肉団子と豆の煮込みをよそった。パンと水の入った小さな瓶も盆へ載せる。
盆を受け取る前に、レオンが壁の板をもう一度見た。
「朝の声掛けは、明日もお願いします。八つの鐘で」
「分かった」
「それと」
少しだけ声が小さくなる。
「帰ったときのは、毎日お願いしたいです」
俺は、盆を押さえていた手を離した。
「うん。おかえり」
「……ただいま」
二度目は、二人とも少し笑った。
*
そのあとに帰ってきたミナは、鍋を抱えていた。
「おかえり。買えたんだ」
「見て、この底」
挨拶より先に、鍋がひっくり返った。
「厚い」
「でしょ。煮込みに使える。取っ手もがたつかない」
彼女がなぞる鍋底には、長く使われた傷がいくつもあった。
その顔を見ていたら、店を見つけるより先に鍋を買う気持ちが、少し分かった。
「店を開けたら、それで何を作る?」
「牛すじと豆の煮込み。朝から煮て、夕方に出すの」
「食べに行くよ」
「ちゃんと客として来てね。台所をのぞきに来ないで」
「気をつける」
ミナは鍋の取っ手を、もう一度握った。
「試しに湯、沸かしていい?」
「飯のあとなら」
「じゃあ、先に食べる」
ミナは鍋を台へ置き、食卓についた。
俺も自分の皿を運ぶ。
「お客さんは?」
「今日は部屋で食べたいって」
「そう」
それだけ言って、ミナは肉団子を一つ割った。
立ち上った湯気が、二人の間に広がる。
「あの板、役に立ったよ」
「それはよかった」
「うん」
二階から、椅子を引く小さな音がした。
俺は肉団子の鍋に、ふたを戻した。おかわりが要るかもしれないから、まだ火は落とさないでおく。
ミナが壁の板を見上げた。
「最後の一行、字が小さいね」
「全部書いたら、場所がなくなった」
「肝心なところなのに」
「明日、直す」
そのとき、階段を下りる音がした。
レオンが盆を持って、食堂へ入ってくる。
「ごちそうさまでした」
ミナは、匙を持ち上げたまま動かなくなった。
肉団子から落ちた汁が、皿へ一滴はねた。
「トーマ」
「何」
「あんたの言ってた、お客さん一人って」
俺はうなずいた。
ミナは、開業初日に勇者が泊まったことを、まだ知らなかった。
レオンが、行儀よく頭を下げる。
「初めまして。レオンです」
「……ミナです。ここの宿主の、元同僚」
その返事だけ、妙に丁寧だった。
レオンは空いた皿を台へ置いた。それから、少しためらって俺を見た。
「おかわりは、できますか」
「できるよ。肉団子?」
「はい。二つ、お願いしたいです」
俺は盆に皿を戻し、鍋のふたを開けた。
ミナが、小声で言った。
「……思ってたより、仕込みが要るんじゃない?」
「今日の分は、まだある」
ミナは鍋をのぞき、残っている数を確かめた。それから自分の皿を、こちらへ差し出す。
「私も二つ」
残っていた四つが、ちょうど二つの皿へ収まった。
レオンの盆と、ミナの皿へ。それぞれ汁を足して渡す。
看板の下書き代は、きれいに払い終えた。




