第2話 勇者様、嫌いなものはありますか
「勇者様、お目覚めの時間です」
扉を叩いてから、自分の声に驚いた。
八つの鐘で起こす約束はした。こんな声を出す約束はしていない。
少しして、扉が細く開いた。
金色の髪が片側だけ跳ねている。レオンは俺の顔を見て、それから廊下の左右を見た。
「……宿、変わりました?」
「変わってません」
「よかった」
変わったのは、俺のほうだった。
芋を多めに洗うところまでは、よかったのだ。着替えの包みを持って階段を上がるうちに、相手がどれほど偉いのか分からなくなってきた。
勇者を呼び捨てにしていいのか。部屋へ入るときは頭を下げるのか。下げた頭は、誰の許しで上げればいいのか。
食堂勤めの三年間で、そんなことは教わらなかった。
「朝、護衛の方が来まして。これを」
包みを差し出すと、レオンは両手で受け取った。
「ありがとうございます。昨夜、頼んでいたんです」
そこで一度、言葉を切った。
「それで、ご存じに」
「はい」
「そうですか」
包みを抱える腕に、少し力が入った。
俺は、昨夜の食卓を思い出した。
十二の席を見比べて、どこへ座ればいいか分からなかった客だ。
「ええと。朝飯、できてるよ」
言い直すと、レオンが顔を上げた。
「はい」
「着替えたら下りてきて。あと、髪」
自分の右側を指す。
レオンが逆側を押さえた。
「そっちじゃなくて」
「こちらですか」
「そう。そこだけ元気です」
何度かなでても、金色の毛先は立ったままだった。
さすがに、それを倒す手伝いまではしなかった。
*
朝食は、焼いた芋と卵、それに青菜の炒め物だった。
芋は茹でてから厚めに切り、脂を薄く引いた鍋で両面を焼く。表面はこんがり色づき、中は串がすっと通るほど柔らかい。
卵だけは、客が下りてきてから焼くつもりでいた。
レオンは、昨夜と同じ、かまどに近い席へ座った。
今朝は、どこがいいかとは聞かなかった。
「卵は目玉焼きにする? それとも、芋と一緒に卵焼きにする?」
「トーマさんの、作りやすいほうで」
「どっちも作れるよ」
「では、おすすめのほうで」
ずいぶん手ごわい注文だった。
俺は、まだ卵を割っていない手を見た。
これ以上聞いたら、朝飯が昼飯になる。
「じゃあ今日は目玉焼きにしよう。焼いた芋と合うから」
「お願いします」
卵の縁が白く固まり始める。火を弱め、焼き上がった芋を皿へ移した。
青菜を添え、最後に卵を滑らせる。
「こちら、勇者様のお芋です」
レオンが皿を見た。
俺を見た。
もう一度、皿を見た。
「……芋にも、何か」
「何もありません。焼いただけです」
また変な言い方をした。
勇者だと聞く前は、普通にしゃべれていたのに。
「レオンで、いいです」
彼は、皿から俺へ目を戻した。
「ここでは。その、昨日みたいに」
「分かった。レオン」
「はい」
「芋です」
「はい」
二人で、少し笑った。
俺も自分の皿を持って、向かいに座った。
*
レオンは、焼いた芋を一切れ口へ運んだ。
次にパンをちぎり、卵の黄身を少しつけて食べた。
それから、また芋。
パン。
芋。
皿の端に、青菜だけが残っていく。
気になった。
気にするな、と思うほど気になった。
昨夜、食べられないものはないと言っていた。とはいえ、味付けが口に合わなかったのかもしれない。塩はいつもと同じ量だったが、今日は勇者の朝飯だと思って、葉を多めに盛っていた。
丈夫な体を作るには、きっと野菜がいる。
母さんなら、そう言う。
実家代行という看板も出したことだし。
「ほら、野菜も――」
俺が言いかけると、レオンはすぐに青菜をすくった。
あまりに素直な動きだった。
口へ入れて、噛む。
ほんの一瞬だけ、眉の間にしわが寄った。
「……残さず、食べます」
俺は、手に持ったパンを皿へ置いた。
それは俺が言わせた返事だった。
「ごめん。まず聞くべきだった」
「何をですか」
「それ、苦手?」
レオンが青菜を見下ろす。
「食べられます」
「うん。でも、好きかどうか」
「……体にいいので」
理由は聞いていなかったけれど、俺もさっき、同じことを考えていた。
皿の青菜を一口食べる。
少し苦い。脂と塩を吸った茎は甘いが、葉の後味は舌に残る。
俺は好きだった。
目の前の客がどうかは、盛る前に一度も考えていなかった。
「残していいよ」
レオンの手が止まった。
「ですが、作っていただいたので」
「俺が勝手に多く盛ったんだ。次の参考にしたいから、教えてほしい」
すぐには返事がなかった。
窓の外で、荷車の車輪が石畳を鳴らした。
「この葉が」
レオンは、少し声を落とした。
「苦いのが、あまり」
「うん」
「嫌い、です」
言い終えると、俺の顔を見た。
俺はうなずいた。
「じゃあ、次は少なくする。まったく入れないほうがいい?」
「あ、茎は好きです。甘いので」
「茎は好き。葉は苦手」
「はい」
「分かった」
それで済んだ。
レオンは、何か続きがあると思ったのか、しばらく待っていた。
「芋、冷めるよ」
「あ。はい」
残りの一切れへ、手が伸びた。
*
食後に湯を沸かしながら、俺は茶碗を取ろうとした。
隣には、自分の皿を下げに来たレオンがいた。
棚の奥に、昨日洗って伏せておいたものがある。手前の布巾を引いたら、上に載っていた小皿まで滑った。
「あっ」
割れる、と思った。
レオンの手が伸びた。
床へ落ちる前の皿を受け止め、そのまま台へ置く。
もう片方の手では、自分の皿を持っていた。
「ここで、大丈夫ですか」
「……はい」
勝手に敬語が戻った。
あれだけ速く手が出る人が、青菜の葉を断るのには、あんなに時間が掛かったのだ。
「ありがとう。助かった」
「いえ」
レオンは席へ戻った。
俺は皿の置き方を直した。助けてもらえるからといって、毎朝落としていいわけではない。
湯気の立つ茶碗を運ぶと、レオンは少し迷ってから口を開いた。
「嫌いなものを聞かれたの、久しぶりでした」
「そうなの?」
「食事を用意していただくことは、多いんです。でも、誰かが隣で待っていたり、料理について説明してくださったり」
膝の上で、両手を組み直す。
「おいしいです、と言うと、皆さん安心されるので」
言ってから、慌てて顔を上げた。
「昨夜の煮込みは、本当に」
「分かってる。二杯食べた」
「はい」
「芋を多めに」
「……はい」
レオンが茶碗を両手で包んだ。
俺は、空になった芋の皿と、残った青菜を重ねた。
全部食べたから満足したとも、残したから嫌だったとも限らないのだろう。三年も食堂で働いていたのに、客一人の朝飯で分からないことが増えていく。
「明日は、別のにしよう」
そう言うと、レオンが小さく首を振った。
「芋は、今日のがいいです」
「焼いたやつ?」
「はい。卵も、これで」
さっきは選べなかった朝飯が、明日の注文になった。
「分かった。じゃあ葉っぱを減らして、同じものを」
レオンはうなずきかけて、止まった。
「あの」
「うん?」
「明日も、いていいでしょうか」
俺は、帳場の宿帳を見た。
書いてある名前は一つだけだった。
「部屋は空いてるよ」
「国境協議の間、あと三日はこの町にいる予定で。宿泊先を変えることはできます。仕事の時間は、詰所に確認してきます」
「じゃあ、戻ったら教えて。朝が早い日は、それに合わせて焼くから」
レオンは背筋を伸ばし、すぐに少しだけ緩めた。
「お願いします」
*
出かける前、レオンは玄関で髪をなでていた。
片側の毛先は、まだ立っている。
「直ってますか」
「だいたい」
「だいたい」
「勇者に必要なところは、直ってると思う」
俺に必要なところが分かるわけもないが、レオンは笑った。
それから、扉に手を掛けたまま振り返った。
「昼は、向こうで食べます。夕飯は、こちらで」
「分かった」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
戸が閉まってから、俺は宿帳を開いた。
レオンの名前の横に、三泊延長と書く。朝食の希望は別の紙へ。
『焼いた芋。目玉焼き。青菜は葉を少なく』
少し考えて、最後に足した。
『茎は好き』
帳場の端には、母さんへの手紙がまだ伏せてある。
今なら、何か一つくらい書けそうな気がした。
紙を返して、ペンを持つ。
『母さん。元気でやっています』
その下に、一行。
『この町に、芋の好きな知り合いができました』
誰にどんな朝飯を作っているのかは、まだ書けなかった。
でも、その一行は消さずに置いた。




