第1話 おかえり、銅貨二枚
「『おかえり』を一回、頼めますか」
最初の客は、夕飯より先に妙な注文をした。
春だというのに、外は冷たい雨だった。入口に立つ青年の外套から、水がぽたぽた落ちている。金色の髪が額に張りつき、背中には布で巻いた細長い荷物。
顔立ちは整っていた。ただし、目の下には、うちの鍋底に似た色のくまがある。
「看板を見て来たんですが」
青年が、開けたままの扉を振り返った。
そこには俺が今朝書いた板が掛かっている。
『おかえり亭 本日開業』
その下に、少し小さく。
『実家代行、承ります』
昨日、開業準備を手伝ってくれたミナには言われた。
『何をする店か、分かるようで分からない』
だから、その下に説明を足した。
『飯。風呂。寝床。帰ったら、おかえり』
青年は最後の一行を指さした。
「これを」
「ああ。はい。あります」
魚でも売るみたいに答えてしまった。
俺は布巾を置いた。
それから、帳場に広げていた手紙を裏返した。母さん宛ての、まだ半分しか書けていない手紙だった。
「ただ、実家代行は、泊まる方への追加のサービスでして。夕飯と風呂と一泊が銅貨八枚。それに二枚追加で、朝に起こしたり、夕飯を取り置いたり、帰ったときに声を掛けたりします」
「全部お願いします」
返事が早かった。
「夕飯、何か希望はありますか」
今度は返事がなかった。
青年は、何か大変な問題を出されたような顔をした。
「何でも」
「食べられないものは?」
「ありません」
「嫌いなものは?」
「大丈夫です」
大丈夫という野菜は知らない。
けれど、入口で聞き続けることでもなかった。客の外套から落ちた水が、もう床板の溝を伝っている。
「まず入ってください。寒いでしょう」
「あの、その前に」
「はい」
青年は少しだけ顎を引いた。
「どうすれば、言ってもらえますか」
「何を」
「おかえり、を」
こんなに切実に注文されるとは思っていなかった。
俺は咳払いした。
「ええと。じゃあ、ただいま、と言ってみてください」
青年は背筋を伸ばした。
「ただいま帰還いたしました」
俺も、つられて背筋を伸ばした。
「ご苦労さまです」
違う。
何かの報告所になった。
雨の音だけがした。
「すみません」
「いや、こちらこそ。俺も初日なので」
「もう一度、外から入り直したほうが」
「これ以上濡れると、風呂より先に床の水拭きを頼むことになります」
青年が口元を緩めた。
ようやく、少し年相応に見えた。二十歳をいくらか過ぎたくらいだろう。俺よりは若い。
「俺はトーマです。ここの宿主」
「レオンです」
「じゃあ、レオン。荷物を置いて。飯は、もうすぐできます」
彼は小さくうなずいて、ようやく扉を閉めた。
帳場で宿帳に名前を書いてもらい、銅貨を十枚受け取る。
うちの、最初の売上だった。
*
今夜は鶏と根菜の煮込みだった。
作り方は、食堂勤めで覚えたものと、母さんに教わったものを半分ずつ。母さんは煮崩れた芋で汁をとろりとさせる。俺は、食べる分の芋を後から足す。
理由は単純で、形の残った芋が好きだからだ。
レオンの外套を干して戻ると、彼は椅子の横に立っていた。
「座らないんですか」
「どちらに?」
「好きなところに」
また考え込んだ。
十二ある席を、順番に見ている。
「そこ、暖かいですよ」
かまどに近い席を指すと、やっと腰を下ろした。
俺は彼の前に椀とパンを置いた。
「熱いので、気をつけて」
「いただきます」
レオンは匙を取った。
けれど、口には運ばなかった。
「どうしました」
「いえ。ほかの皆さんを」
「いません。今日の客は、あなた一人です」
「そうでしたか」
少し間が空いた。
「トーマさんは?」
「俺は、あとで」
「一緒に食べるのは、追加になりますか」
俺は鍋を見た。
勢いで作りすぎた煮込みが、まだたっぷり残っていた。
「それは助かるほうです」
自分の椀を持って、斜め向かいに座った。
レオンが、ようやく一口目を食べた。
ずいぶんゆっくり噛んだ。
飲み込んで、もう一口食べた。
俺も食べた。
雨の音に、匙が椀に当たる音が混ざった。
「……おいしいです」
「よかった」
「ええ。本当に」
それからしばらく、彼は何も言わなかった。
俺も、何の仕事か、どこから来たのかは聞かなかった。椀が空になったので、おかわりは要るかとだけ聞いた。
「いただいても?」
「そのために聞きました」
「では」
差し出された椀を受け取る。
レオンが、わずかに身を乗り出した。
「できれば」
「はい」
「芋を、多めに」
俺は鍋の中から、形の残ったものを二つ拾った。
*
風呂から上がったレオンに部屋を案内して、俺は食堂へ戻った。
帳場の手紙は伏せたままだった。
ひっくり返す。
『母さん。元気でやっています』
その先が、続かない。
冒険者を三日で辞めてから、三年になる。
食堂で働いて金を貯めた。こうして宿も開いた。
けれど母さんは、俺が今も剣を振って暮らしていると思っている。前の手紙には、魔物を追い払ったと書いた。実際に追い払ったのは、厨房に入ってきた野良猫だった。
帰ればきっと冒険の話を聞かれる。話せることは、一つもなかった。
ペンを持って、置いた。
食堂の椅子を整え、火を落としかけたところで、二階から足音がした。
「すみません」
レオンだった。
「寒いですか。毛布、もう一枚ありますよ」
「いえ。少し、連絡をしてきます」
外では、雨が上がっていた。
「戸締まり、何時でしょう」
「九つの鐘です。それより遅くなりそうなら、今、鍵を渡します」
「すぐ戻ります」
レオンはそう言って出ていった。
俺は夕飯の残りを小鍋へ移した。
帳場に戻る気にはならず、持ち手の緩んだお玉を直していると、扉が開いた。
ずいぶん早かった。
レオンは入口に立っていた。
何か言おうとして、口を閉じた。
俺は待った。
「……ただいま」
今度は、帰還の報告ではなかった。
「おかえり。冷えた?」
「少し」
「煮込み、温め直そうか」
レオンはうなずきかけ、それから首を振った。
「いえ。今ので」
彼は扉を閉めた。
「十分です」
手の中のお玉が、妙に気になった。
こんなものを持って出迎えたのは、少し間抜けだったかもしれない。
でもレオンは、俺の手元を見て笑っていた。
「朝、起こしていただけますか」
「何時に?」
「……八つの鐘で」
「はい。朝飯もその頃に」
彼が階段を上がりきってから、俺は帳場に戻った。
手紙の続きを書こうとした。
何も書けなかった。
客にはずいぶん簡単に言えたのに、と思った。
俺は自分が帰るための言葉を、一行も書けなかった。
*
翌朝、七つの鐘が鳴る少し前。
玄関を控えめに叩く音がした。
扉を開けると、制服姿の男が二人立っていた。一人は頬に傷があり、もう一人は抱えた包みを濡らさないよう外套で覆っている。
「早朝に失礼する。昨夜、レオンという青年がこちらに泊まったはずだが」
俺は二人を見比べた。
「どういったご用件で」
「頼まれていた着替えを。……我々は、勇者レオン様の護衛だ」
寝起きでもないのに、言葉が頭へ入るまで時間が掛かった。
勇者。
あの、芋を多めにしてほしいと言った青年が。
「昨夜、ご本人が近くの詰所へ知らせに来られた。お休みのところを起こすつもりはない。包みだけ預かっていただけるか」
そういえば、連絡をしてくると言っていた。
俺は両手で包みを受け取った。
「分かりました」
頬に傷のある男が、少しためらってから聞いた。
「昨夜は、食事を?」
「食べました。二杯」
「二杯」
「芋を多めに」
二人の肩が、少しだけ下がった。
「それは、よかった」
男たちは、通りの向こうへ戻っていった。
俺は扉を閉め、包みを帳場へ置いた。
勇者に食わせる朝飯なんて、考えたこともない。
けれど昨日のレオンは、自分の食べたいものを、最後には一つだけ言っていた。
俺は台所へ戻った。
芋を、いつもより一つ多く洗った。




