第4話 帰る時刻は、だいたいで
「荷物は無事。濡れてるのは私だけ」
そう言って、配達人は水を垂らした。
開業三日目の昼過ぎだった。
朝には晴れていた空が、いつの間にか暗くなっている。入口の向こうでは、雨粒が石畳に跳ねていた。
配達人は若い娘だった。短く切った髪が頬に張りついている。肩から大きな革鞄を下げ、その上を油布で二重に覆っていた。
「トーマさん?」
「俺です」
「麻布、一巻。受け取りの印をここへ」
寝具の繕いに使おうと注文していた品だ。
彼女が差し出した包みには、水滴一つついていなかった。
俺は帳場に包みを置き、届けの紙へ名前を書いた。
「よく濡らさずに来られたね」
「私が前に立ってたから」
「それで、そんなに?」
「風が、ずっと真正面。私に用があるみたいだった」
袖口から、また一滴落ちた。
俺は乾いた布を取りに行った。
*
「これ、使って」
差し出した布を、彼女はまず鞄の底に敷いた。
「ああ。そっちにも要るか」
「床、濡らすから」
「今さらだよ。自分を拭く分も持ってくる」
「じゃあ、もう一枚だけ」
今度の布では、顔を拭いた。
ほっとしたのも束の間、彼女は濡れた手袋を外して懐へ戻そうとする。
「それは干したほうが」
「これ以上、荷物を広げるつもりは――」
外で雨の音が強くなった。
彼女は扉を見た。
俺も見た。
「……少し、広げる」
手袋が、布の上へ置かれた。
俺はかまどから少し離れた椅子を引いた。
「座って待てば? 雨が弱くなるまで」
彼女は食堂を見渡した。
椅子が十二。客は誰もいない。
レオンは朝飯を食べ、八つの鐘のあとに出かけていた。今日は夕飯までに戻ると聞いている。
彼女は、入口に近い椅子へ腰を下ろした。
鞄は膝の上だった。
「宿なんだよね、ここ」
「そう。おかえり亭」
「一泊八枚?」
外の料金板も見たらしい。
「夕飯と風呂つきで八枚。実家代行をつけるなら、あと二枚」
彼女が眉を上げた。
「本当にやってるんだ」
「本当にって」
「名前だけかと思った。『竜の巣亭』に泊まったとき、竜はいなかったし」
「いたら困るだろ」
「宿主のいびきは、それっぽかった」
俺は笑いかけて、自分のいびきを思い出そうとした。
聞いたことがないので、比較はできなかった。
彼女は壁の板へ目を向けた。
朝、約束どおり書き直したものだ。
『必要なものを選んでください』
今度は、その一行を別の板に大きく書いた。ほかの文字を追いやらずに済むように。
「遅くなった日の夕飯、残しておいてもらえるの?」
「先に相談してくれれば」
「じゃあ、それ。一晩だけ。明日のことは、明日決める」
彼女は鞄の内側から財布を出し、銅貨を十枚数えた。
「名前は?」
「リッカ」
宿帳へ書きながら、俺は聞いた。
「今日は何時に帰ってくる?」
机の上に残っていた彼女の指が、銅貨を一枚押さえた。
「……決めないと、泊まれない?」
*
俺はペンを止めた。
「夕飯を、いつ用意すればいいかと思って」
「配達次第だから。分からない」
「だいたいでいいよ」
リッカは答えなかった。
鞄の留め金を、親指で押している。
「誰に会って、どこを回るかも言うの?」
「それは要らない。仕事の話だろ」
「じゃあ、何が要る?」
俺は台所を見た。
知りたいことを、考え直す。
「夕飯を食べるかどうか。遅くなるなら、温め直せるものにするか、冷たくても食べられるものにするか」
「遅れたら?」
「用意の仕方を変える」
彼女の指が、銅貨から離れた。
「待ってる人がいるから急げって言われるの、苦手なんだ」
その一言だけ、さっきまでより平たい声だった。
「配達先で、待ってくれって言われることもあるから」
「うん。俺の晩飯に合わせて走らなくていい」
言ってから、付け足した。
「ただ、夜の九つの鐘で戸は閉める。それより遅くなりそうなら、出かける前に鍵を渡しておくよ」
「それは、今もらっておきたい」
「分かった」
俺は入口の鍵を一つ、宿帳の横へ置いた。
帰ってくる時刻の欄は、空けておいた。
*
湯を出すと、リッカは鞄を片手で抱えたまま飲んだ。
残りの片手で小さな帳面を開き、短い線を引いては消している。
俺は向かいへ座らず、台所の布巾を畳んだ。
「まだ何件かあるの?」
「あと四つ。雨のせいで、順番を変えないと」
「近いところから回るんじゃないんだ」
「近い店は、今の時間、主人がいない。先にそこへ行くと待つことになる。橋の向こうを先にして、その人が戻る頃にこっちへ来る」
彼女は帳面の端を、爪で軽く叩いた。
「速く走るより、待たないほうが早いこともある」
「なるほど」
「坂道を二回上るのも嫌だし」
「そっちが本音?」
「どっちも本音」
リッカは残りの湯を飲み、鞄の覆いを掛け直した。
俺は窓を見た。
雨は少し弱まっていた。
「夕飯、取り置きなら、きのことチーズの包み焼きにしようと思う。冷めても食べられるから」
「それ、温かいのも食べられる?」
「八つの鐘くらいまでに戻るなら、帰ってから焼けるよ。そのあとは、先に焼いておく」
リッカは、さっき鍵を入れた場所を一度確かめた。
「七つには戻れるつもり。無理なら、同じ配達所の人に伝言を頼む。ここ、通り道だから」
「何て?」
「『先に焼いて』で、分かる?」
「分かる」
「伝言が届かなかったら、八つで焼いておいて。仕事で立ち寄れないこともあるから」
「分かった。夕飯は一人分、取っておく」
リッカは、小さくうなずいた。
鞄を肩へ掛け、立ち上がる。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。――あ、手袋」
布の上に、一組残っていた。
リッカは足を止めた。
手袋を見る。
「乾かしてもらってた」
「うん」
「忘れたわけじゃない」
「うん」
取りに戻ってきた彼女へ、手袋を渡した。
小さな帳面の段取りには、自分の手袋までは載っていなかったらしい。
*
夜の七つの鐘が鳴った。
リッカは、まだ戻っていなかった。
先に帰っていたレオンと夕飯を食べ、俺は台所へ戻った。今日はレオンも食堂の席を選んでいた。
残りの生地に、炒めたきのこと玉ねぎを載せる。チーズを散らし、半分に折り畳んで端を押さえた。
火へ掛ける前に、もう一度だけ時計の針を見る。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
開けると、配達所の帽子をかぶった男が立っていた。
「リッカから。『先に焼いて』だそうだ」
「はい。承りました」
男は一拍置いた。
「……本当に、それだけで分かるんだな」
「夕飯の話です」
「よかった。こっちには何を焼くのか教えないものだから」
帽子のつばを引き、彼は自分の配達へ戻っていった。
俺は包んだ生地を焼き始めた。
表面に薄く塗った卵が色づき、中のチーズの匂いが立つ。
皿へ移して覆いを掛け、火を落とす。
あとは、床を拭いておこう。
あの革鞄は無事でも、本人はまた濡れてくるかもしれない。
*
八つの鐘を過ぎて少しした頃、扉が開いた。
「戻った」
リッカだった。
「おかえり」
俺は布巾を畳んで、台へ置いた。
彼女は入口で立ち止まっていた。
「七つって言ったけど」
「伝言、受け取ったよ」
「最後の一軒が――」
「うん。――鞄、先に下ろす?」
リッカが、こちらを見た。
俺は入口に近い椅子を引いた。昼間、彼女が座っていた席だ。
「夕飯、今にする? 風呂のあとにする?」
「今」
返事は早かった。
俺は手を洗うための水を出し、用意しておいた皿を運んだ。
覆いを取ると、リッカが少し身を乗り出す。
「ちゃんと、ある」
「あるよ」
「冷めてるかと思った」
湯気はもう見えないが、生地にはぬくもりが残っていた。
彼女は椅子へ座った。
鞄を膝へ載せかけ、それから俺を見た。
「この椅子の背に、掛けてもいい?」
「いいよ。落ちそうなら、隣の椅子も使って」
リッカは鞄の肩紐を、背もたれへ回した。
留め金を一度だけ確かめる。
「今日は、全部届けたの?」
「全部」
彼女の口元が、わずかに上がった。
「誰もいない家が一軒あったけど、戻るまで別のを回って、もう一回行った」
「ご苦労さま」
「坂、二回上った」
「それは、ご苦労さま」
リッカは、肩を小さく落として笑った。
昼の鞄の下に敷いた布は、もう乾いていた。
俺はそれを畳んで、棚へ戻した。
「いただきます」
リッカが、両手で包み焼きを割った。




