第三十一話 あかりの海
ノートパソコンのデスクトップに、新しく空のフォルダを六つ作った。
評価補助Aから始まって、Fで終わるフォルダ。
それぞれのフォルダの中身は、まだない。空のフォルダを全て閉じてノートパソコンごと横にずらした。
暖房は効いているはずなのに、足元は冷たい。冬の短い午後は、三時を過ぎて、事務所の奥から先に暗くなっている。
視線を机の向かいに移すと、あかりが肩にカーディガンを羽織り直し、画面に顔を寄せている。
机の空いたスペースに、三つの紙束を置いた。
第一準備書面。病を報じた記事の印刷。あかりが見つけてきた、高橋雄幸名義の研究会報告。
国側の早い動きに、違和感を覚えた。
いや、早いだけなら、説明はつく。問題は、早く、そして正確なことだ。
私は、高橋レポートの束をめくった。外国籍の超高額資産家が日本国内に生活拠点を持ち、日本で死亡した場合、死亡時住所をどう認定し、国外財産へどこまで手を伸ばせるか。
永住、一時滞在、長期滞在。それぞれのパターンで可能性を模索している。永住とした国側の住所論は、この報告の順番をほとんどなぞっていると言ってもいい。
本当によくできている。
この下敷きがあるなら、国の組み立てが速いのは当たり前だ。まず、早さはこれで片づく。
次に、病の報道記事。
国側の準備書面は、この報道が出る前に作成され、提出されたはずなのに、ちょうどそれを受け止める場所に、断り書きの席が空けてあった。
『追って主張を補充する』
病の報道は、ぴたりとそこへ収まった。
偶然、と書いてしまえば、そこで終わる。けれど、私の感覚は、それを偶然と飲み込むことを拒んでいる。これは違うと、喉元でつっかえる。
こちらが手を伸ばす前に、手を伸ばした先で待っている。
受けて、潰して、また受ける。答弁書が来て、準備書面が来て、報道が来る。
こちらが顔をあげるたびに、国は待ってましたと頭を叩く。
もう一度、レポートの束を引き寄せ、表紙の作成者の名前を眺めた。
高橋雄幸。
どんな人だったんだろう。
瞼を閉じても、遺影の面影も思い出せない。浮かぶのは未亡人の立ち姿と、梅雨の斎場、白百合の匂い。そして、父の元部下という事実だけ。
その人の組んだ理屈の上を、国がなぞって歩いてくる。
ノックの音がして、節子さんが湯気の立つカップを置いていった。
「少し休憩を取ったほうが、いいアイデアが浮かぶかも知れませんよ」
「ありがとうございます。ちょうど、そう思ってました」
「お茶、濃くしてあります」
節子さんはそう言って、机の上の邪魔にならない位置に湯呑を置いた。
「頂き物です。お茶請けにどうぞ」
湯呑の横の菓子皿に、上品に並んだ羊羹が二切れ。
湯呑に口をつけて、思っていたより喉が渇いていたことに気づいた。苦みが口の中に広がる。羊羹は菓子切りで大きさを整え、口に運んだ。
「これ、美味しいです」
見ると、あかりがこちらに顔を向け、目を輝かせて羊羹を頬張っていた。
「……ほんとだ」
甘さが、さっきまでの苦みのあとに広がって、体の強張りが少しほどけた。
「きっと高級品ですよ」
あかりが、二切れ目に手を伸ばしながら言う。
「お返し、しなきゃね」
「私が選びます。美味しいところ、見つけたんですよ」
「お願いね」
湯呑を置く。指先に残っていた温みが、机の冷たさに吸われていく。私は画面に目を戻した。並んだままの、まだ中身のない六つのフォルダ。
「その前に、もう一つお願い」
ノートパソコンを開き、あかりに目をやる。
あかりは、残った羊羹を口に放り込み、まだ咀嚼しながら椅子を立った。ちょうど私の横に来た時に、飲み込む音が聞こえた。
「これ、何ですか」
「空のフォルダが六つ」
モニターには、評価補助AからFまでのフォルダが並んでいる。中身はまだない。
私はその隣に、国側の評価額の根拠をまとめたファイルを開いた。数字の列が、画面の半分を埋めた。
「国は、ヴァルガスさんの財産にこの値段を貼ってる。これが高すぎるって争う」
「たしか、いまは大きく下がっていて、このままだと税金払ったらほとんどなくなっちゃうわけですよね? でも、相続税は死亡時点の額面からの算出が基本だから……」
あかりは謎ときでもするように、片手で顎を包むようにして、もう一方の腕を胸の前で組んだ。
「でも、それだと詰んでません? 死亡時点が一番高いんだから」
「だから、死亡時点そのものを争う」
「どういうことですか?」
あかりの目が、画面から私に戻った。
「死亡時点の値段が、そもそも高すぎたって言うの。下がったから安くしろ、じゃない。下がる前の、その死亡時点で、すでに値段を支えてたものが一部抜けたの」
「……わかりません、降参です」
「抜けているのは、ヴァルガスさん本人」
私は、国側の評価メモの一行を指した。関連企業群の合算額。
「ここに書かれている百五十兆。本人がいる前提で世界が付けた値段。どこに投資するか、誰が集まるか、どの国が手を組むか。その多くが、会社じゃなくて本人に付いてた」
「それが、亡くなって……」
「そう、消えたの。残ったのは、工場も株も契約も、形のあるもの。でも、その形に値段を付けてた頭脳は、もういない」
「でも国は、消える前の、本人の価値も含めた値段で計算してる」
「普通の相続なら、それでいいの。土地があって、建物があって、株がある。式に乗せれば答えが出る」
私は画面の合算額を、もう一度見た。
「でも、ここに並んでるのは、普通の資産じゃない。車も、通信も、宇宙も、研究所も、一人の人間がトップダウンで動かしてた。その一人がいなくなった会社を、いる前提の数式にそのまま乗せて、答えが出るわけがない」
「ヴァルガスさん自身が、百五十兆の価値の大半……」
「そう。だから、一人の人間に依存した価値を、画一的な数式で測るのは著しく不適当だ、って」
私は画面から目を上げた。
「それが、キーマンディスカウント」
あかりは、口の中で「キーマンディスカウント」と何度か繰り返してから、言った。
「これなら、いけそうじゃないですか」
私はあかりの言葉を受けて、首を振って応えた。
「ごめんね。実はそう上手くはいかないの」
「えぇ……」
あかりが、わざとらしく不満の表情を作る。
「ごめんごめん。筋は通ってるのよ? でも、こういう評価を、国は避けたがるの。条文に書いてないことは、まず認めたがらないから」
「じゃあ、ダメって事じゃないですか」
「正面からぶつければ、厳しいと思う。でも今回は、世界中の誰が見てももっともだという、これ以上ないキーマンディスカウントの典型例。だから、この本命を通すために、別の角度を六つ用意する」
私は、空のままの六つのフォルダを指さした。
「それが、これ」
「これ……空ですよね?」
「うん。これを今から、あかりが考える」
あかりの動きが止まった。それから裏返った声で言った。
「無理ですよ! これ以上のもの、私に出せません!」
「強くなくていいの。これは、勝つための六つじゃない。相手を散らすための六つ」
あかりが、まだ分からないという顔で私を見ている。
「本命に正面から構えてくる相手を、六つの方向から少しずつ突く。どこに、どう反応するか。それを見たい。だから、一つずつが弱くても、それはいいの」
「それなら」と、あかりの肩から、少し力が抜けた。
それに対し、私は「でもね」と続けた。
「弱いものを形にできる人は、そんなにいない。あかりには、それができるようになってほしい。このさき、一人で海原に出たとき、やって行けるように――本気で、勝つつもりでやって」
私は、できるとは聞かなかった。代わりに、あかりの目を、まっすぐ見据えた。
あかりは、その目を、逸らさずに見返している。
それから、はっきりと頷いた。
「全力でやります」
私とあかりのやり取りの間、節子さんはこちらに目を向けず、背中で静かに見守ってくれていた。
◇ ◇ ◇
「先生、あと一時間だけ」
あかりは、モニターと資料を前に苦戦し続けていた。書いては消してを繰り返して、いつまでも帰ろうとしなかった。
最後は、節子さんがなだめて、半ば引きずるように連れて帰っていった。
私は手元の資料に戻った。区切りまで進めて顔を上げると、時計の針はかなり進んでいた。
エヴァのいるアメリカの時間を数えた。向こうは、ちょうど動き出す時間。短くメッセージを送ると、間を置かずに返事が来た。
ノートパソコンに、エヴァとつなぐリンクを開いた。
いつものガラス張りの会議室ではなかった。背後にあるのは、生活感のある部屋の壁。
画面ごしの顔色は、よくない。手元のミネラルウォーターのボトルは、ほとんど飲み切っているようだった。
ひととおり話し終えると、エヴァはしばらく黙っていた。
「確かに、その懸念はあり得るかもしれませんね……」
思考を巡らす一時の間の後、エヴァは頷いた。
「キーマンディスカウントを軸に、それでいきましょう」
エヴァは、また少し黙ってから言った。
「任せっきりで、すみません」
私は、画面の向こうのエヴァに訊いた。
「エヴァさん、その後、体調はどうですか」
「だいぶ落ち着きました」
エヴァはそれだけ言うと、手元の水に口をつけ、残りが無いことに気づいてまた戻した。
この一週間、エヴァは体調を崩し、定例のWEBミーティングにも欠席していた。良くなったの報を受けて、今回、進捗を話し合うために時間を取った。
「ただ、あまり休んでばかりもいられません。やることも多いですし」
疲れのせいか、普段なら頬に落ちているはずのエヴァの端正な輪郭の陰が、今日は浅い。私とのこの会話も、何件かこなした後なのかもしれない。
「エヴァさんは、休めるときに休んでください。何かあれば、必ず連絡します」
「ありがとうございます」
エヴァは少し間を置いて、続けた。
「……正直に言うと、人に疲れているのかもしれません。ボスが遺したものを、お金としか見ていない人が、思っていたより多くて。連絡をくれる相手の、ほとんどがそうです」
画面の向こうで、エヴァが一度だけ目を伏せた。
「生前もいましたが、こうもそんな相手ばかりだと、さすがに」
ある意味、国は一貫しているのかもしれない。生前も、今も、国はヴァルガスの莫大な資産しか見ていない。
「……わかる気がします」
私が言うと、エヴァはわずかに表情をゆるめた。
「ただ、全員ではありません。ボスがやろうとしていたことを続けたいと言ってくる人も、数えるほどですが、います。その人たちがいるから、まだやれている気がします」
かける言葉もないまま、会話は終わった。
ノートパソコンを閉じながら、遠いアメリカで戦うエヴァの事を想った。




