第三十話 圏外
事務所に戻ったのは、夕方だった。あかりには通常の仕事に戻ってもらい、節子さんが帰ったあと、私は応接室で一人、エヴァとの通話をつないだ。
画面の中のエヴァは、私の報告を受けて静かに口を開いた。
「病は事実です」
用意していた答えのようだった。
「いつから、知っていたんですか」
「日本に来る前からです」
「……来る、前から」
眉間に手を当てかけて、止めた。
「知っていたのは米国の主治医団と、ごく限られた範囲です。私も、その中にいました」
「私たちは――」
声が、思っていたより強く出た。
「私たちは今日、あの部屋で初めて知りました。原告でありながら、被告と同じ場所で知ったんです」
エヴァは、何も言わなかった。
「違いますね……。国は、これを先に握っていた。私たちは、何も知らずに席に座っていた」
信じてもらえていないかもしれない。
「――情報をもらえなければ、戦えません。蚊帳の外に置かれたままでは、無理です」
それが一番悲しい。
言ってしまってから、息を整えた。責める相手を間違えていることに考えが及んでも、言葉は引っ込まなかった。
「申し訳ありません」
エヴァの声は、平らなままだった。それがかえって、こたえた。
「お伝えしなかったのは、私の判断です。急に死ぬ病ではない。裁判の争点にも関係しない。そう見ていました。……私の落ち度です」
「……順番に、確認させてください」
感情はいったん、脇へ置く。いつも通りに戻ればいい。
「報道は『死に至る病』と書いています。国も、同じ言い方をしました。死亡との関係は考えられますか?」
エヴァは静かに首を振った。
「ボスの病は、遅効性のものです。長くて十年、短くても五年は問題ないと医師たちは見ていました」
ヴァルガスを思い出すたびに見せる、寂しげな表情が顔をのぞかせた。
「延命治療を選べばそれ以上でしたが、ボスはそれを選びませんでした。世界を回っていたのは、死に場所を探すためではありません。残った時間の使い方を、自分で決めるという選択をしただけです」
私は、飄々としたヴァルガスの姿を思い出した。
「ですが、それを国に利用されました。その医療記録は、どこにありましたか」
「米国です。日本側に渡した覚えはありません。出どころがあるとすれば、医療関係者でしょう」
「その記録を、こちらにも共有してください」
エヴァが、少し目を上げた。
「国が持っているものと同じもの。できれば、それより詳しいものを」
私は、手元のノートを開いた。
「国は、こう言ってきます。重い病があった、だから日本で最期を迎えるつもりだった。報道の『死に至る病』も、それを強くする言葉です。曖昧な話には、こちらがもっと正確な事実をぶつけて潰します」
「正確な事実、ですか」
「いつ診断されて、医師が余命をどう見ていたか。ヴァルガスさんがどの治療を選ばなかったか。残った時間を、どこでどう使うつもりだったのか。国の持つ断片より精度の高い記録を、こちらが握ります」
「それを出せば、ボスの病が、より細かく世間に出ますね」
エヴァの視線が、二つを天秤にかけているように揺らいだ。
「選択のタイミングはもう逸しています。いまは、決断をください」
エヴァは、少し黙ってから頷いた。
「主治医団に当たります。診断の日付から、本人が断った治療の記録まで。揃うだけ、揃えます」
「お願いします。それを使って、反証を立てます」
私は、姿勢を正してエヴァに向いた。
「まだ時間はあった。永住許可にしても、複数の国籍を持つヴァルガスさんにとって、選択肢の一つでしかなかった。最期の場所を日本に決めていたわけではない、と」
「事実もその通りです」
「医療記録と渡航の記録の他にも、裏付けとなるものが無いか探してみてください」
エヴァは、画面の中で頷いた。
「記録を揃えます。データベースの権限を奈緒に付与しますので、気になるものがあれば、直接拾ってください」
「わかりました」
確認しておくことが、もうひとつ残っていた。
「エヴァさん。ほかに、私たちが知らないことは、ありませんか」
「もう、ありません」
はっきりした返事だった。それなのに、エヴァの言葉の一拍前の間に、引っ掛かりを覚えた。
「わかりました……。記録をお待ちしています」
私はそれ以上を口にしなかった。
PCの画面が、暗くなる。
私はしばらく、暗くなった画面を見ていた。あの一拍が、何だったのか。
考えても、答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
登山口の雪は締まっていた。
記帳所の箱には、用紙が湿らないようにビニールが掛けてあった。手袋を外し、ボールペンを取る。ペン先は凍えて、書き出しの一画がかすれた。余白で二度三度慣らしてから、氏名の欄に『倉持健司』と書く。職業の欄に、警護――と書きかけて、止まった。
依頼人を護りきれずに終わった警護です、とでも書くのか。
線を引いて消し、自営業、と書き直した。
夜のうちに冷え込んだのだろう。雪は表面だけが固く、踏むと一拍遅れて踵が沈む。吐いた息は白く流れ、すぐに消えた。駐車場に、車はほかに一台もなかった。
スマホを見た。アンテナの表示は、立っていない。圏外。麓のコンビニを過ぎたあたりから、ずっとこの表示のままだ。
もとより、ここから先で連絡を取る相手はいない。取らせないために、この場所が選ばれている。当面は必要ないと、スマホをザックの奥へ落とした。今日一日、私は誰からも届かない場所に入る。
車に戻り、ザックをあらためる。行動食と魔法瓶、アイゼン、ピッケル。背負うと肩に重さが食い込み、ベルトを締め直して腰へ移した。
護衛対象を喪って、三ヶ月になる。
警護の仕事の成果は、何も起きないことだ。何も起きない一日を積み上げ、何も起きないまま契約を終える。長いあいだ、私はそうやって数を重ねてきた。
その数が、不意に崩れた。
どうすれば防げたのか。崩れた日を思い出しては、手はなかったのかと自分に問う。答えは出ない。出ないと分かっていて、やめられずにいる。三ヶ月、ずっと。
普通の生活の中、ドアを背にして立たない、開けた場所を長く歩かない――護る相手はもういないのに、癖だけが律儀に残っていた。
その三ヶ月の終わりに、仕事が来た。受けるかどうか、迷う余地はなかった。
新しく重ねることをしなければ、失敗はいつまでたっても今に居座ったままだ。
樹林帯に入ると、雪は足首まで沈んだ。自分の足音と、ザックの軋む音だけがある。
倒木は跨がず、回り込む。雪の下の枝で足首をやれば、ここでは誰も助けてはくれない。
尾根に乗る手前で、雪の上に跡を見つけた。
小さい跡が二筋、並んで続いている。片方は歩幅が乱れ、引きずった細い筋が点々と残っていた。縁は風で丸くなっているが、埋まりかけてはいない。屈んで、靴の先で雪の硬さを確かめる。締まった面の上を、軽いものが通っている。
跡は、私が向かう方向へ続いていた。
その跡をたどって尾根を越えると、小屋がポツンとあった。谷からの風を尾根が遮る、斜面の陰。屋根の雪は片側だけ落とされ、戸口の前は踏み固められている。
「ウサギ……そうか、白ウサギか」
その小屋の戸口の前に、影があった。
二つ。どちらもまだ小さい。片方は、足を怪我していた。雪の上の引きずった筋は、そこで終わっていた。
私の呟きを敏感に拾い、こちらを見ている。お互いがお互いを守るようにして、身を寄せ合った。
「安心しろ、敵じゃない」
二羽の白いウサギは、逃げなかった。怪我をした足では、逃げられないのかもしれない。
両手を上げたまま、一歩を小さくして近づく。視線は半分だけ外しておく。声の届く距離で止まり、ゆっくり両手を下ろして膝をついた。雪の冷たさが、すぐに膝から上がってくる。
ザックを下ろし、携帯食の封を切る。最初の一口を、自分で食べた。
「毒は入っていない。いま、私が食べた」
残りを雪の上に置き、三歩下がる。
「ゆっくりでいい」
風はないのに、森は静かにならなかった。枝に積もった雪が、間を置いて落ちる。
二羽は、親の姿を探すように、周囲に目を運ばせている。
長い待ちになった。冷えは膝から腿へ上がっていく。
「また、来るよ」
応える声はない。二羽の白ウサギは戸口から動かず、こちらを見ていた。
下りは、登りと別の筋を選んだ。凍って滑る箇所と、雪の深い箇所を覚える。車を置ける平場を、もう一か所見つけた。荷が軽いぶん、足は速かった。山中を歩き回り、地形を確認しては、頭の中で計画を立てた。
駐車場に戻る頃には日が傾いて、空からの雪が戻ってきていた。記帳所で自分の名前だけが書かれたページを破り取り、車に戻った。
エンジンをかけ、暖房を入れる。吹き出し口からは、冷たい風しか出てこない。
少し待って、車を走らせた。
助手席に置いたザックに手を突っ込み、スマホを取り出した。
麓へ近づくにつれ、アンテナが一本、二本と戻ってくるはずだ。届かなかった三ヶ月が、また少しだけ動き出す。
考えはじめると、やるべきことは次から次へと増えていった。
吹き出し口の風が、いつの間にか熱を帯びていた。
「忙しくなりそうだ」




