第二十九話 終の棲家
インターホンで呼び出されて、宅配便を受け取った節子さんが、分厚い封筒を抱えて戻ってきた。
「先生、裁判所からじゃなくて、国のほうからですよ」
「ありがとうございます。こっちにお願いします」
封筒が机の上に置かれると、机の脚がきしんだ音を立てた。私は読みかけの資料を脇に寄せ、カッターで封を切った。
必要最低限の情報が記された送付状、その下にあったのは被告第一準備書面。製本テープで綴じられた束を、いったん最後の頁までめくって全体の厚みを確かめてから、もう一度、最初に戻る。
構成は三つ。
第一、米国課税当局の見解について。第二、被相続人の死亡時住所について。第三、死亡の経緯に関する原告らの主張について。
第一の柱には、米国が来ていた。
IRSが、日本側の住所認定と課税手続きを、現時点で争わないと回答したこと。先月、対米投資の発表と同じ夜に届いた、あの回答。これを先頭に置かれると、後ろの主張の読み方が変わる。
第二は、住所論。そこにあるのは永住許可、生活用品の購入記録、滞在日数など。来て、生活して、時間を重ねた。国側は、それを生活と呼ぶ。
結論部で、手が止まった。
「被相続人が本邦を生活の本拠として選択していたことは、上記の各事実から明らかである。なお、被相続人の本邦滞在の性質については、追って主張を補充する」
補充する、とある。何を補充するのかは、書かれていない。
第三の項目に入って、頁をめくる速度が落ちた。死亡の経緯について、こちらはまだ何も正式には主張していない。それなのに、反論の置き場所だけは先に作られている。
丁寧、と言えば丁寧な内容だが、少しくどい。
私は書面から顔を上げた。窓の外は、よく晴れた冬の午後。日差しは机の端まで届いているのに、温度だけがどこかに置き忘れられている。事務室からは節子さんのワイドショーが低く流れていて、今季一番の冷え込みがどうとか言っている。
いつの間にか、湯気の立つカップが右手の横に置かれていた。一口飲むと、思っていたより喉が渇いていた。
『読みましたよ。骨のある書面だ』
森住先生に電話を入れると、すでに読み終えていたらしく、話は総括から入った。
受話器の向こうの声は、書面の出来をどこか喜んでいるようにも聞こえる。強い相手と書面で殴り合うのが、好きな人なのだろう。
「第二の結論部ですが、補充する、とあるのが気になっています。手の内なら、伏せたまま書けばいい。わざわざ席を空けて見せる意味が――」
『評価資料でしょう。住所論を補強する材料がある、そう言いたいんだと思いますよ。出てきたら潰す、それだけです』
「ただ、第三の断り書きも――」
言いかけて、やめた。どこが、と訊かれたら、答えられない。
『それより麻生先生、第二の住所論への反論、分担を決めましょう。財産区分の再整理はおたくで持ってもらえますか? 各事務所への割り振りは、私の方でメールで回しましょう』
「分かりました」
電話を切ってから、私はあかりを呼んだ。
「国側の理屈、組み立てが早すぎる気がするの。答弁書から今回まで、骨組みが最初から出来上がってる。下敷きがないか、元をたどってみて」
「元、ですか?」
「論文でも、研究会の報告でもいい。この形の議論を、誰かが先にやっていないか」
あかりは「探偵っぽいお仕事ですね」と言いながら、ノートパソコンを抱えて自分の席へ戻っていった。
それから、三日が経った。
夜の九時過ぎ、あかりが印刷した紙の束を持って、私のデスクの横に立った。
「先生、見つけました。……国側の住所論と、骨組みがほとんど同じです」
一番上の紙に、論文の題名があった。
『超高額国際相続事案における死亡時住所の認定と課税権の調整』
発表は三年前。財務省系の研究会の報告。
あかりが持ってきた束には、純資産税、デジタルサービス税、金融取引税、砂糖税。新たな税収を模索する類のレポートが並んでいる。
「レポートの作成者は、全部同じ人です。どれだけ税金取りたいんでしょうね」
「仕事としては、間違いじゃないわ。でも、本当に色々あるわね……」
その中の一つ、今回の事件に近いレポート。
外国籍の超高額資産家が、日本国内に生活拠点を持ち、日本で死亡した場合、死亡時住所をどう認定し、どこまで国外財産へ手を伸ばせるか。
国側の書面は、その論文の順番を、ほとんどそのまま利用しているように見える。
「なんか、予言書みたいで怖いです」
「内容はそこまでおかしいものじゃないわ。他のレポートも同じ熱量で書かれてるし、たまたま合致したとみるのが自然ね」
政策提案に持っていけるだけのものも多い。通るかどうかは別として。
私は題名の下にある発表年を見た。
「五年前から、税金を取れる場所をずっと探しているみたいね」
「はい。レポートのほとんどは五年前から二年前に集中しています」
それぞれのレポートの年表に目をやった。
「熱量が下がったのか、昇進したのか、どこかへ出向したのか――」
言いながら、私は著者の名前に目を落とした。
「……あかり、これはどこで見つけたの」
「え?」
「これを、どこで見つけたの」
言ってから、息を吸った。
「え、あの、財務総合政策研究所の過去報告です。普通に検索しても出なくて、国側書面の言い回しをいくつか削って検索したら、引っかかりました。PDFで公開されてます。……変なところから拾ったわけじゃないですよ」
「公開資料なのね」
「はい。研究会報告として普通に残ってました」
なぜだろう、いやな感覚が背中に張り付いて離れない。
「先生?」
表紙の白い余白に、あかりの髪の影が落ちた。
「お知り合いの方ですか?」
梅雨の斎場。白い菊の匂い。遺影の中の、眼鏡をかけた細面。父の元部下。涙を見せず毅然とした未亡人。
「……知っていた人、よ」
高橋雄幸。
確かめるように、二度読んだ。
◇ ◇ ◇
弁論準備手続は、法廷ではなく、楕円のテーブルを囲む小さな部屋で行われていた。
傍聴席はなく、カメラも入らない。双方の代理人と裁判官が、書面の頁を挟んで向かい合った。
窓には、薄いブラインドが下りていた。壁に、時計が一つ。テーブルには、双方の書面の束と、人数分のペットボトルの水が並んでいる。原告も被告も裁判官も、手を伸ばせば互いの書面に届きそうな距離に座っていた。
手続きは、淡々と進んだ。
今日の期日は、何かを大きく争う日ではない。前回までに双方が出した書面を確かめ、足りないものを次回までの宿題に振り分けていく。その段取りを組むための時間だった。
川端裁判長が、手元の書面を一枚ずつ繰っていく。ときおり顔を上げ、原告席と被告席に、提出の予定を確かめた。
「これは、次回まででよろしいですね」
「はい」
私が答える。川端裁判長は頷いて、また書面に目を戻した。
国側で答えるのは、菅野。
背を椅子に預けたまま、訊かれたことに短く答える。手元に広げた資料は、ほとんど見ていない。
川端裁判長が国側の提出予定を確かめたとき、菅野はペットボトルの水を一口飲んで、それからゆっくり答える。急ぐ様子も、こちらをうかがう様子もなかった。
部屋は静かだった。暖房の送風音と、頁をめくる音。ときおり、書記官がキーを打つ音が混じる。
ノートに次回の予定を書き写しながら、私は被告席をうかがった。菅野も、その両隣も、いつもと同じに見えた。今日も何も起きないまま終わる期日だ。そう思っていた。
川端裁判長が、次へ移ろうとした。
そのとき、伊藤さんの膝の上で、スマホが震えた。
「音が出ないようにしておけと言っているだろう!」
「すみません、でも」
叱責を受けて、伊藤さんが森住先生と菅野、二人の顔を交互に見た。
それから、森住先生の袖を、小さく引いた。
「後にしろと言っている」
森住先生は視線を書面に置いたまま、手の甲で軽く制した。
それでも、伊藤さんは引かなかった。スマホを持つ手を、森住先生の手元へ、もう一度寄せる。
その様子に、テーブルの向こうから声がかかった。
「どうぞ、ご確認なさってください」
菅野だった。
「当方は、構いません。どうでしょう、裁判長」
川端裁判長は「そうですね」と言って、手にした資料を机の上に置いた。
「本件に関わることであれば、手短に」
森住先生が、伊藤さんのスマホを受け取り、画面に目を落とす。
画面に向けた目を大きく見開き、指先がスワイプの動き見せて、ゆっくりと次の所作に移った。
森住先生は瞼を閉じ、空いた片手で顔を覆った。
「どうしましたか」
川端裁判長に問われて、森住先生は答えの代わりに、私の前にスマホを差し出した。
手元に引き寄せ、そこに映し出された内容は、知らないものだった。
『ヴァルガス氏に重篤な死に至る病 関係者語る』
文字の意味が、頭に入るまでに間があった。記事は短い。米国の複数の関係者によると、ヴァルガス氏は生前、重い病を抱えていた——それだけだった。病名も、いつからかも、書いていない。
「どうしましたか」
もう一度、川端裁判長に問われた。私は顔を上げた。けれど、言葉が出てこなかった。確かめてもいない依頼者の病を、この場で、私の口から言えるはずがなかった。
菅野が、こちらを見ていた。
「失礼」
菅野が隣の一人に手を伸ばす。差し出された一台に、目を落とした。ほんの数秒だった。
「裁判長。ヴァルガス氏には、重篤な、死に至る病があったそうです」
部屋が、静かになった。
「マスコミの、不確定情報ですね。――ですが、これが事実であれば、ヴァルガス氏はそのうえでこの国の永住許可を申請した、ということになります」
菅野は指で、卓上をトントンと叩いた。
私には目を向けず、菅野は裁判長だけを見て、書面を読むのと変わらない声で言った。
「これ以上の、理由が必要でしょうか」
卓上で鳴る菅野の指先は、準備書面の第三項目を指していた。




