第二十八話 高い買い物
腕時計の針は、午前七時を少し回ったところだった。
官邸のエントランスには、昨夜の熱がまだ残っている。ロビーのモニターは朝のニュースに替わっていたが、流れている中身は、昨夜の九時から変わらない。対米投資合意。三十兆円。日米。画面の右上で、時刻の表示だけが進んでいた。
途中、記者に捕まった。
「真壁副長官、一つだけ」
顔は知っていた。経済部から官邸クラブに回されて、二年目の若手だ。手帳もレコーダーも出していない。
「昨日の発表ですが。時刻は、どちらが決めたんですか」
「先方との調整の結果です」
「米国側の都合、ということでしょうか」
「調整の結果です」
同じ答えを二度使うと、記者はそれ以上踏み込まなかった。若い記者は一礼して、もといた方へ戻っていった。
発表の時刻は、私が決めた。というよりも、そこしかなかった。
法廷が閉じるのを待ち、市場が閉じるのを待って、夜に流した。報道は速報として世に出たが、速報になるように出しただけだ。順番は偶然ではない。偶然ではないと気づいている報道陣が、少なくとも一人いたことになる。
執務室の机には、今朝の各紙が揃えてあった。一面はどこも対米投資合意だ。三十兆円。雇用。経済安全保障。社会面まで進むと、昨日の第一回口頭弁論が出てくる。同じ新聞の中で、二つの記事は十数ページ離れていた。
一紙だけ、政治面の下に小さな囲みがあった。五百字ほどの枠に、見出しは「同じ日の、二つの発表」。断定はどこにもない。事実が並べてあるだけだ。並べるだけで足りると知っている書き手の文章。
私はその囲みに付箋を貼り、会議資料の下に挟んで、小会議室へ向かった。
会議室では、官房スタッフが資料の差し替えを終えたところだった。
先月まで別紙一だった表は、今日の束では参考資料に下がっている。入れ替わりに前へ戻ってきた表の数字は、最初の会議で一度だけ大きく扱われ、それきり奥へ押し込まれていたものだ。米国との調整を織り込むたびに欄が後ろへ移り、注記が増え、前提条件の文字が小さくなっていった、あの八十二という数字だった。
元通りではない。企業群の維持、相続人側の処理、二重課税、外国税額控除。逃げ道を塞ぐような注記は、むしろ増えている。それでも、別紙の番号が入れ替わった。この部屋の人間に、それ以上の説明は要らない。
永井総理は、束の一枚目をめくって言った。
「間に合ったわね」
誰も、何に間に合ったのかを訊かなかった。私はノートの隅に、昨夜の発表時刻だけを書き写した。
会議が動き出して間もなく、官房スタッフが一人、扉の内側で足を止めた。配って回るのではなく、机を回り込んで、九条次長の後ろに立つ。
財務省主計局次長、九条和彦。官邸の会議で長く話す人間ではない。その九条が振り向かずに右手を少し空け、スタッフはそこへ、二つ折りの紙を二枚、重ねて置いた。
九条は上の一枚だけを開き、数行に視線を運び、何かを確かめて閉じた。
「技術担当を。議題の最後に」
下の一枚は、開かれなかった。九条はそれを、背広の胸ポケットへ滑り込ませた。
米国の件は、九条が一人で報告した。
「受け口の確認のため、現地には担当者を複数入れました。米国の要望は、近い筋からそれぞれ拾い、先方が表に出したいものと、出せない事情を分けました。死亡直後に米国側のスキームに乗っていた処理は、先方の現政権の既定路線ではありませんでしたので、こちらの思惑と合致しています。結果として、日本側の死亡時住所認定と課税手続を、現時点で正面から争わないという回答を得ています」
外務省の担当者が、膝の上の紙を一枚押さえた。領分を奪われた顔ではない。自分の手元と九条の報告に差異が無いことを、ただ確かめている顔だった。
九条は紙の報告はそれで終わった。どこにどう働きかけ、引き出したのか、細かくは言わなかった。
永井総理は、外向けの頁と、その下の別紙を見比べるようにしてから、短く言った。
「高い買い物ね」
九条は答えなかった。
この一手が三十兆円までに萎んだ日本の取り分を、逆転させたことは確かだった。
「表では、ヴァルガス氏の相続税とは切り離します。日米経済安全保障と、米国内雇用への貢献。党内も、その線で。相続税の件と並べて使われるのは、我々にとっても米国にとってもよろしくない」
小宮山幹事長の言葉に、永井総理は口元を少しだけ歪めたが、何も言わなかった。
訴訟対応チームの席で、菅野が書面を開いた。法廷で、国側として立っている男だ。
「次回の準備書面は予定通り、米国側回答を前面に出します。原告側は米国籍と米国遺産税を前面に出してくる準備をしていたようですが、この発表で塞げました。次に寄せてくるとすれば、死亡時の映像、死亡経緯、財産区分、評価資料のいずれかです」
警察庁側の担当者が、手元のメモを少しだけ前へ出した。余白の多い書式に、麻生事務所周辺の動き、報道対応、出入りした人物、車両、と項目が並んでいるのが、席の角度から見えた。
「原告側は現時点で、疑問点の整理段階。具体的な主張には至っていないようです」
菅野の書面と、警察庁のメモは、同じ内容に見えた。書式が違い、管轄も違うが、情報経路の共有はあるのかもしれない。
永井総理は、その報告に興味を示さなかった。彼女が知りたいのは裁判の細部ではなく、火元を迅速に処理できるかだ。
九条が菅野に言った。
「準備書面案は、提出タイミングを見計らうのが得策かと」
「承知しました」
議題が尽きかけた頃、技術担当が入ってきた。内閣府の技術系の男だろうか。緩いネクタイの結び目が、こういった場には似つかわしくなかった。
「ヴァルガス氏のZetterアカウントについて、停止処理が完了しました。形式上は、Zetter社の判断です。二度目の死後投稿で関連銘柄が動きましたので、市場への影響懸念がある。そういった判断のもとに行われた形となっています。過去の投稿はそのままで、今後の投稿権限、予約機能、外部連携を止めています」
過去の投稿は、そのまま。あの「死んだンゴ」や「白ウサギ」は、これからも死者の固定された一言として残り続ける。消せば消したで、別の燃え方をするのだから、燃えカスだけは残しておいた方が適切だろう。
「停止作業の過程で、予約されていた投稿が確認されました。投稿済みのものを含めて、総数は四十二件ありました」
「四十二件……」
永井総理は、数だけを繰り返した。
会議室の何人かが目を合わせた。死んだ人間のアカウントに残っていた数としては、多すぎる気がする。
「分類上は、短文が中心でした。アニメや食べ物の話題など、ほとんどが意味のない内容でしたが、念のため解析に回しています」
死んだ富豪のアニメの予約投稿を、国家が止めた。
その事実に、小宮山の口元が少しだけ動いたが、自嘲にまで進むことは無かった。
「この件は、終わったとみていいのね」
「技術処理としては、完了報告を受けています」
技術担当が頭を下げて出て行った。
菅野が「Zetterの件は、原告側が触れた場合の反論で足ります」と言い、九条が「そうしてください」と返した。
議題は、そこで終わるはずだった。
新たな議題は、九条の胸ポケットから舞い込んだ。
取り出したメモに向けられ九条の目線は小さく動き、一度、二度と、内容を吟味するように上下した。それから、外務省側へ顔を向けた。
バトンを受けた外務省担当者が答えた。
「米国は信ぴょう性の高い情報と見ています」
「何の話?」
この会議で総理が口にした、初めての、答えを知らない問いだった。
九条は、メモを閉じないまま言った。
「ヴァルガス氏本人に関する、米国側の未公表資料です。原告側が死亡経緯に寄せてくるなら、材料にはなるでしょう」
場内の、紙をめくる音が止まった。
九条は立ち上がらず、手にしたメモを隣へ送った。二人のスタッフの手を経て、永井総理の前に置かれた。
総理は、最初の数行で止まった。一度、二度と、目線は九条と同じ動きをした。それから、小宮山へ渡した。
小宮山は、読み終えても何も言わなかった。一瞥された紙は机を回って、菅野の前へ行った。
「本物なら、早く出しなさい。くだらない陰謀説も、これで止まるはずでしょ」
「現在、裏取り作業を継続しています」
外務省の担当者が答えた。メモを手にした菅野は、すぐには頷かなかった。
「マスコミにリークすることはできます。原告側から出る前に使えば、住所認定の補強材料として裁判でも優位に立てます。ただ、未公表の資料です。我々が持ち出せば、入手の経緯を必ず問われます」
小宮山が言った。
「順番を間違えると、高くつきますね。国会で聞かれれば係争中で通しますが、出所は別経由のほうがいい。それも、適したタイミングで出ることが望ましい」
国税庁の担当者が、身を乗り出した。
「それを出す前提であれば、住所側の別紙は強めに書けます。生活実態だけでなく、なぜ日本にいたのか、疑問に思われることもないでしょう」
「裁判資料には載せずにいきましょう」
菅野が遮った。大きな声ではない。だが、紙を受け取る前より、確かに前へ出ていた。
「我々の主張を後から裏付ける情報が出た、という形で利用した方が効果があります」
菅野は、もう一度だけ紙面に目を走らせてから、その一枚を机へ戻した。行きとは違うスタッフの手を経て、メモは九条の手元へ帰っていく。
一周して戻ったメモの上に目を落としたまま、九条が言った。
「お任せします」
メモを二つ折りにした九条が顔を上げる。
「ヴァルガス氏の個人的な情報が、たまたまマスコミから出る。菅野さん、いつ頃がよろしいですか?」
「次回期日の直前、もしくは最中に」
「では、それまでこれは存在しません」
九条は、二つ折りのメモを縦に引き裂き、傍らに控えていた官房スタッフに手渡した。
「処分してください。――厳重に」
「承知しました」
◇ ◇ ◇
夕方、執務室で想定問答を打った。
問。対米投資合意の目的如何。
答。日米の経済安全保障と、先端産業分野における協力の強化である。
問。投資の規模が過大ではないか。
答。中長期の経済効果を総合的に勘案したものである。
問。対米投資合意と、ヴァルガス氏相続税訴訟との関連如何。
答。両者は別個の事柄であり、係属中の訴訟に関わる事柄についてはお答えを差し控える。
指が、そこで一度止まった。
問。三十兆円は、何を試算に
そこまで打って、消した。
この問いに、答えは用意しない。政権として妥当と判断した――それだけで通す。用意のいい答えは、用意していたことまで伝えてしまう。
机の電話が鳴った。官邸クラブからの取り次ぎで、朝の若い記者だとわかった。
『夜分にすみません。一つだけ』
「どうぞ」
『三十兆の見返りは、取れそうですか』
「……投資は、それ自体が目的だ。見返りという整理は、していない」
記者は黙った。メモを取る音もしない。何秒かの沈黙があった。
『また、うかがいます』
受話器を置き、机の上の各紙を重ね直す。政治面の小さな囲みに貼った付箋は、剥がさずにおいた。




