第二十七話 飛ばない矢
地下鉄の駅にほぼ隣接する形で、東京地方裁判所はある。私たちを乗せたタクシーは、日比谷公園を回り込む形で、地方裁判所前へ向かった。
視界の右側を皇居外苑が流れ、大きく左に曲がる。人だかりが見えたところで、私は首を引いた。
人だかりから少し離れたところでタクシーは止まる。降りると、靴裏で「シャリ」という落ち葉が砕ける音と感覚があった。
待ち構えていた報道陣が列をなし、容赦のないシャッター音を浴びせてくる。無骨なテレビカメラのレンズが、じっとこちらに向けられていることで、さらに力が入る。
報道陣の壁の間を、まず森住先生が進んだ。顔を上げ、うっすらと笑みを浮かべ、大股に進む。その後を私と、森住先生の助手の伊藤さんが続く。
「類を見ない大型裁判ですが、どのように戦われるおつもりですか」
「イーサン・ヴァルガス氏の死因について一言」
マイクを持ったレポーターとカメラマンが、じりじりと道を細くしていく。道が完全に閉じきる前に、なんとか裁判所の敷地内に入ることができた。
ほっと肩を落とした瞬間、背後から報道陣の声があがった。
「相続税は、義務じゃないんですか? 金持ちは義務を果たさなくていいということですか?!」
振り返り、一言言ってやりたい気持ちを抑え、自動ドアをくぐった。庁舎内の暖房の熱が、体にまとわりつく。
「麻生先生、今からそんなに力が入っていてはこの先、身が持ちませんよ」
「森住先生は、国と争ったご経験があるんですよね」
「三回、やりましたよ。二回は和解となりましたが、実質勝ちのようなものです。一回は――依頼人が取り下げなければ、勝っていたんです」
そこからは、誰も口を開かなかった。
手続きを終え、準備をし、普段の裁判と同じようにして、原告代理人の席に座る。
違うのは、傍らに控えるのがあかりではないこと。
裁判官席に近い位置に私、中央寄りに森住先生。助手の伊藤さんは森住先生の左後ろで、書類の入ったスーツケースを横倒しにして置いている。
深呼吸をし、目を閉じる。瞼の裏に、法廷前の掲示が浮かぶ。
事件番号に続いて、事件名。
相続税更正処分等取消請求事件。
原告 イーサン・ヴァルガス相続人ら。
被告 国。
私は目を閉じたまま、いつも通り、いつも通りと自分に言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
「原告ら、訴状を陳述しますか?」
川端裁判長の声が、正面の裁判官席からこちらへ向いた。抑揚の無い大多数の裁判官とは、どこかが違う。
森住先生が、私より早く口を開く。
「陳述します」
その言葉で、訴状は法廷に出た。
百ページを超える訴状の中身は、すでに裁判所に渡っている。その内容を、私たちは主張するという、宣言。
傍聴席には何人かの報道関係者の姿が見える。注目に対して席が埋まっていないのは、報道各社も行政裁判の地味さを知っているからだろう。いち早く結果が出ることでもない。
川端裁判長は、手元の記録に視線を落とした。
「被告、答弁書を陳述しますか?」
「陳述します」
国側の中央に座っていた男が、ちらりとこちらを見てから言った。国側の指定代理人の一人、書類には『菅野』と記されている。
「原告らの請求をいずれも棄却する、との判決を求めるということでよろしいですね」
「はい。答弁書記載のとおりです」
川端裁判長は続けた。
「請求原因事実の認否について、相当部分を追って認否としつつ、本件被相続人が死亡時点で日本国内に住所を有していた。被告、その理解でよろしいですか」
「はい」
菅野は用意していた紙を見ることなく、続けた。
「本件では、国内法上、相続税の課税対象は国内財産に限定されず、国外財産を含む取得財産全体に及ぶものと考えております」
私はノートにすでに記していた『国側基本立場』と、『請求棄却』に〇をつけた。
国側の姿勢は、審判所段階から変わっていない。
私たちは第一回口頭弁論前に、米国から何らかの意思表示が来るのではないか、そう考えている。
事務所を出る間際にもエヴァに確認したが、米国からは何も出てきていない、という確認しか取れない。
静かすぎる。沈黙そのものが、もう何かの回答なのではないか。
よぎった考えを、打ち消した。今は、目の前の法廷だ。
川端裁判長の言葉は、次に原告席に向く。手元の記録を指でなぞりながら、主位的には課税処分全体の取消し、予備的には国内財産に限定した再計算と、確かめるように読み上げていった。
「――という理解でよろしいですね」
「はい」
私は被告席を見ながら答えた。
川端裁判長は頷いた。
「現時点で裁判所が把握している主な争点は、第一に、被相続人の死亡時住所を日本国内と認定できるか――、えー」
言葉を途中で止めた川端裁判長に、私も含めた全員が視線を向けた。
「和解――争点整理の道は?」
「「ありえない!!」」
菅野と森住先生は机に手を置き、同じようにして立ち上がった。
私は立ち上がることなく、川端裁判長に発言を向けた。
「裁判長、私たちはあくまで相続税そのものを否定しているのではなくて、全世界財産への課税処分が誤りではないかと考えています。もし、国側がその点を――」
「ヴァルガス氏は日本に住むと言って、永住許可を自ら望んで取った。日本で暮らし、そして亡くなった。全世界財産に課税を行うこと自体、適法だ!!」
「あー、静粛に」
言って、川端裁判長は両手を前にして、抑えてと身振りで示した。
興奮しながら腰を下ろした森住先生は、「何が静粛にだ、だいたい」とブツブツ言っている。
「じゃあ、原告らは財産区分ごとの整理資料を提出してください。被告は、それに対する認否及び必要性、相当性に関する反論を提出してください」
私は裁判長の言葉に、うなずきで返した。
森住先生はすでに手元の資料を重ね、帰る準備を始めている。
「提出期限についてですが」
「――裁判長」
「どうしました、被告代理人」
「本件は長引かせるものではありません。原告側もすでに資料は整えているでしょうし、ここは早い期限設定を求めます」
菅野は、隣に並ぶ代理人たちを見もせずに言い切った。日付まで、もう決まっているような口ぶりだった。
なぜ、国側は急ぐ?
「……原告代理人、どうしますか?」
川端裁判長の視線がこちらへ向いた。
本来なら、ここから先は書面の往復になる。その間に、米国が動いてくれれば、国にとっても考え直さざるを得ないはず。エヴァが動く時間を、どれだけ見積もるのが正解か……。
「さ――」
「いいでしょう!」
私の出足を、森住先生の言葉が遮った。
森住先生は、私を見ずに続ける。
「原告側としても、いたずらに長期化させるつもりはありません。すでに整理資料は用意済みです」
「では、二週間後でいいですね?」
森住先生と菅野がうなずく。いくらなんでも、早すぎる。
待って。
これでは、エヴァが動く時間が取れない。
「森住先生」
制止の名前を口に出したところで、森住先生の邪魔だと言わんばかりの右腕が、私の肩に当たった。
痛みにしびれた肩を押さえ、見上げた先で、森住先生の有無を言わせぬ言葉が待っていた。
「私に任せておけばいい」
「でも――」
事件が、私の前から遠ざかる。
私の前で、話が進んでいく。法廷は私ではなく、森住先生を見ている。
川端裁判長が口を開く。
「では、次回弁論準備手続期日は――」
◇ ◇ ◇
映像は、ヴァルガスの右斜め上から、カウンターごと体を俯瞰していた。
ヴァルガスは上半身をカウンターに預け、右腕に顔を隠す形で動かない。その腕の周りに、アイスのカップがいくつも残っている。蓋の外れたもの、スプーンが刺さったままのもの、半分ほど残っているもの。少し離れたところに、白いタオルがあった。
画面の右上には時刻。左下にはカメラ番号。
日本側から提供された映像は、以前、エヴァと執務室で見たものの長尺版だった。邸宅スタッフが発見するところまで入っている。
いま見ているのは、エヴァから送られてきた別角度のファイルだ。前の映像では分かりにくかったヴァルガスの腕の周囲と、カウンターの上が近く見えた。
画面の端で、黒い影が動く。
最初はノイズかと思った。
小さな影が、画面の右上から入ってくる。一度去り、もう一度戻ってきて、カメラに張り付いて、視界を大きくぼやけさせた。
「――蛾?」
私は再生を止めた。
ノートパソコンの画面に、応接室の照明が映り込んでいる。画面の暗い部分に、私の顔と、背後に立つあかりの腕が薄く重なって見える。
蛾の影が、反射でよく見えない。
私は右手をマウスに置いたまま、左手を伸ばした。ノートパソコンのモニター部分に指をかけ、角度を少し変えようとする。右手も離して、両手で画面を傾けた。
左肩に、軽い痛みが走る。
「動いちゃだめですよ」
背後から、あかりの声が飛んでくる。
「見えないのよ」
「画面は私が動かします。先生は肩を動かさない」
あかりはそう言うと、私の手をどかし、ノートパソコンの画面を少しだけ倒した。照明の映り込みがずれて、蛾の影が見やすくなる。
そのまま、あかりは私の左肩にやさしく手を添え「ここですね」と口にした。ひんやりとした掌の感触が、心地よかった。
「たぶん……」
「たぶんじゃないです。赤くなってます」
手のひらとは違う、粘り気のある冷たい感触が、肩の上に貼られていく。
「診断書が出たら傷害ですよ。ですよね?」
法廷で、私が口を開こうとした瞬間。森住先生は、こちらを見ずに右腕を出した。意味のある動きだったのか、ただ前に出ただけだったのかは分からない。けれど、その腕は私の肩に当たり、私の言葉より先に、森住先生の返事が原告側の返事として扱われた。
「あかりは傷害罪として立件できると思う?」
「暴行の事実は立証できるので、次に診断書です。それから因果関係。あとは――」
「この場合、あとは、故意。もっと正確に言うと、傷害の故意じゃなくて、暴行の故意ね」
あまり扱わない案件だが、弁護士としての基礎知識として答える。
「腕を出せば、私の肩に当たるかもしれない。それを分かっていたかどうか」
「偶然なら?」
「過失。傷害罪とは別の話になる」
「面倒ですね。じゃあ、やり返しましょう!!」
「それこそ、傷害罪になっちゃうわよ」
言って、二人で笑いあった。肩の痛みも、幾分引いた気がする。
笑いに目を細めた視界に、モニターの赤い点滅が入った。画面の右下に、エヴァの名前が表示されていた。
「私のほうで操作しますね。先生は肩、隠してください」
言われて、慌てて服の乱れを整えた。一番上のボタンを留めたのと同時に、あかりの手がマウスを動かし、通話を受けた。
「データ、ありがとうございます。日本のものとは別角度だったので」
「奈緒、やられました」
エヴァは、険しい表情でそう言った。その声は、普段より低い。
「URLを送ります」
エヴァがカメラの中で手元に目を落とすと、通話画面の横に、共有欄が開く。URLが一つ表示される。米国の主要メディアのものだ。
嫌な胸騒ぎがする。
「――お願い」
あかりは返事をせず、私の肩に触れないように身を乗り出した。マウスを握る手が素早く動き、通話画面の横に出たURLへカーソルを合わせ、迷わずクリックした。
ブラウザが立ち上がる。
画面の上部に、英語の見出しが大きく表示された。
『Japan drops $200B on massive U.S. investment deal』
見出しの下には、日米の政府関係者らしき人物が握手をする写真があった。
私は、口の中で「二千億ドル……」とその意味を考える。
「――テレビをつけて!!」
あかりがリモコンを手に取ると、一拍の後に画面が明るくなり、ニュース番組のスタジオが映る。司会者は手元の原稿に視線を落とした、顔をあげてから言った。
『日本政府は先ほど、米国政府との間で、総額二千億ドル規模の対米投資に合意したと発表しました』
画面の下には、ブラウザに表示されていた内容が咀嚼され、日本語で表示されている。
【約30兆円規模の対米投資で合意】
『今回の合意には、米国内の雇用創出と、先端産業分野における日米の経済安全保障を強化する狙いがあるということです。日米両政府は両国間の――』
司会者の声を耳にしながら、画面の中に向き直ると、エヴァは続けた。
「IRSから、正式回答が来ました」
浅い吐息を吐いて、努めて事務的にエヴァは言った。
「日本側の死亡時住所認定と課税手続について、現時点で争わない。日本の主張を認めたうえで、今後の推移を見守る、と」
エヴァが下唇を噛む。
テレビでは、官邸前の記者が、日米経済協力の意義を説明している。何を言っているのか、思考が追い付かない。それでも、そのどれもが、今日の法廷で出したばかりの主張が根底から失われたことを意味している。
「先生、これってどういうことなんですか?」
「……アメリカは、日本を止めに来ないということ」
拳に力が入る。肩の痛みが、思い出したように疼いた。
その意味を受け入れたくないと、私とエヴァはお互いに目線をそらした。
「日本は、全世界財産の課税権を、三十兆円で買ったのよ」




