第二十六話 白ウサギを追え
「その表のまま出したら、国側の整理をこちらが認めたように読まれます」
テレビのスピーカーから聞こえた声の主を確認するため、私は画面の名前欄を見た。
応接室のテレビには、八つの窓が並んでいる。私たち麻生事務所を含めた七の弁護士事務所に、エヴァ。
ノートパソコンの画面では足りず、テレビにつなげた。真新しいWEBカメラが、テレビの上部にポツンと乗っている。
画面に映っているのは、各事務所の代表者だけ。実際には、その後ろにそれぞれのチームがいる。
総勢三十二名の弁護団だ。
弁護士会からの推薦や、ヴァルガスの企業法務の選考の結果で集められた、国内で考えうる最適の布陣。
「麻生先生はどう思われますか?」
言われて、私は意識してカメラを向いた。
「出すべきものを出したうえで、要点を絞って争うしかないと考えています。表に関しては出すべきでしょう」
録画中を意味するテレビ画面の赤い丸が、小さく点滅した。議事録として録画し、後で文字起こししたものが各自に渡される。私の発言も、それに対しての反応も、すべて残る。
テーブルの端で、あかりのスマホが短く震えた。あかりは画面に目を落とし、何か言いかけた口を閉じて、スマホを伏せた。
「国の手を少しでも煩わせる。正論も正攻法も結構ですが、こういう裁判ではそういった駆け引きも必要なんですよ」
森住先生の声が、私の意識を会議に引き戻した。
国内でも指折りの弁護士事務所の所長。森住先生は、副代表格という扱いになっている。私が決めたというより、投票でこの形になった。税務訴訟の場数も、裁判所との距離感も、私とは違う。
「時間の短縮にはなりますね。裁判を、いや、差押えの解除はこちら側にとっては最優先事項です。長期化で争う戦略は、現状において適切ではない」
別の声が言った。私の発言の肯定というよりも、森住先生の案に異を唱える形だ。
最後まで、森住先生と副代表を争った人だ。
この場に、私は弁護団長という肩書きで座っている。エヴァの助けになりたい気持ちは本物だが、これだけの重鎮を前にすると、私の発言が軽視されることは多い。。
「遅滞戦術も使わず、相手が求めるものを素直に渡し、公判を保てると?」
「そうは言ってない。意味のない時間稼ぎは無駄だ、そう言ってるんです」
二人の声が熱を帯びた。これはいいことなのだろうか、という疑問が胸でうずいた。
『優先課題:全世界財産差押えの解除』
私の左隣で素早くキーを叩くあかり。その手元のノートパソコンの画面に、新たな一文が表示される。
その姿はカメラのフレームからわずかに外れ、右肩だけが画面に映っている。
「再度、前提を確認します」
エヴァの発言に、二人の応酬もマイクが拾う雑音も、一瞬にして息をひそめた。
「本件の目的はなんでしょうか?」
皆がエヴァの発言に集中する。私の発言とは違い、一言一言が重さを持って受け入れられる。自分が未熟なのはわかっていても、やはり考えてしまう。
「見誤らないでください。税を納めないことが目的ではなく、不当な処分を是正することが、最終的な目的です。もちろん、差押えの解除もその一つではありますが、本来の目的までの一つの段階にすぎません」
そこまで言って、エヴァが私の名を呼んだ。
「奈緒、お願いします」
私はうなずき、小さく息を吸って吐いてから続けた。
「故人の日本に帰属する財産については争いません。問題は、米国を主体とする企業、ならびに財団に関連する資産の扱いです。本来、企業関連財産については、米国側の一次的課税権が強いはずです。IRS管轄に戻して、適切なスキームで処理されるように持って行くことが重要だと考えます」
「しかし――」
私の発言の語尾にかかるようにして、森住先生は私に向けて言った。
「そのIRSが、日本に対して主張を明確にしていない。普通ならあり得ない。なぜ、米国は自身の権利を主張しない?」
「それはまだわかりません。日本の主張を崩して、米国が全世界財産への主張を整えている可能性もあると考えています。そういった意味では、米国が調整している間の時間稼ぎは必要です」
「米国のために時間を稼ぎつつ、米国の調整が整ったら時間をかけずに決着を急ぐ、というわけですか」
こう言ってはなんですがと、別の窓から発言が飛んだ。
「米国がおとなしくしている限り、主導権は日本側にあるのは明白です。こちらの思い通りの緩急に、相手が足並みを合わせてくれるとは思えませんね」
「そのための地裁への訴えです。国税不服審判所の裁決を待ってからでは、時間がかかりすぎます」
「その審判所ですが、三ヶ月、そこまでは待ってみてもよかったのではないのですか?」
私は傍らのあかりに指示を出して、会議画面に試算した数字を出した。
「全世界財産への処分制限、差押えによって、企業価値ならびにその活動に莫大な棄損が発生しています。幸い、訴状は受け付けられ、事件は地裁に係属しました」
会議画面に共有されたグラフを見た一同の、息をのむ音が聞こえた。
時間の経過とともに緩やかな曲線を描くことにはなるが、初期の三ヶ月の曲線は鋭角を示していて、その数値は兆の桁を示している。
「国が基としている資産価値は、故人が亡くなった時点のものです。すでに、その価値は三割下落しています。三か月後には、さらに一割の下落。このままでは納付タイミング次第では、納付可能な資産額を、税額が上回る可能性があります」
これまでも会議の中で、何度も説明してきた。ただ、エヴァから受け取った最新のデータをもとに、詳細な数値として提示したのはこれが初めてだ。
「世界一の資産が、相続税を前に全て消えるか――、失礼」
誰かが呟き、エヴァを気にして、そう整えた。
机に置いたペンが、カタカタと鳴る。一瞬、自分の震えかと思ったが、上階の工事だと分かって、安堵のため息が漏れた。
「米国をあてにせず、全世界課税を崩すには、結局のところ死亡時住所を争うしかないでしょう。K町は別荘利用だった。私生活の中心も米国だった。重要な資産管理意思決定は米国だった。そういったところで詰めていくしかない」
結局、振り出しに戻る。
皆が押し黙ったところで、あかりが伏せていたスマホを取り、私の左袖を二度、軽く引っ張った。
(先生、これ――)
あかりは手にしたスマホを指さし、小さく合図を送って来た。私はそのスマホ画面を確認して、カメラに向かって言った。
「ここで一度、休憩にしたいと思います。エヴァさん、確認ができたので、ちょっといいですか?」
「麻生先生、我々には?」
森住先生が不服そうに口を開く。
「本件との直接的な関係はありませんが、Zetterを確認していただければわかります」
その言葉で、画面の中の視線が動いた。
正面を向いていた顔が、ひとつ、またひとつと下を向く。
誰も、回線を切らない。
「……これ、本物ですか」
若い代表者の一人が、誰にともなく漏らした。答える声はない。
「予約投稿でしょう。本件には関係がない」
森住先生と副代表を争った人の声が、そう言い捨てた。その窓が、最初に黒くなる。残りの窓も、数秒遅れて、順に黒くなっていく。
最後に、森住先生の窓だけが残った。画面の中の森住先生は、フレームの外の誰かに短く何かを指示している。マイクの印は、もう黒い。やがて、映像も消えた。
録画停止の表示を確かめ、最後にマイクと映像をオフにした。あかりが作成した別のリンクで、エヴァと繋いだ。
「エヴァさん、見ましたか?」
「はい。……困ったものですね」
エヴァさんは画面の中で手元に顔を向けながら、少し寂しそうに言った。
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白ウサギを追え!
すでにこの世にないヴァルガスのアカウントから、そう発せられていた。
「これって予約投稿ですよね?」
あかりが言う。
「ボスは、これを見た人たちの反応が、楽しくて仕方ないんでしょう」
「……もう返信がこんなに」
更新をするたびに、投稿の下には新しい言葉が流れ込んでいく。政府への暗号だという者。帰って来たと喜ぶ者。反応は様々だ。
「『白ウサギを追え』って、何なんですか?」
「ボスが好きな作品の一節ですね」
あかりの問いに、エヴァは短く息を吐いた。
「よく、話に付き合わされました」
表情を柔らかくして、そう言った。
「エヴァさん、先ほどはありがとうございました」
言ってから、自分の声が思ったより小さく出たことに気づいた。
「――なぜ?」
テレビの画面には、ミュートになった黒い窓が並んでいる。そこに薄く映った自分の顔を見つけて、私は目線を外した。
「奈緒って、……私を名前で呼んでアピールしてくれたことです」
エヴァは少し黙った。
「気づいていましたか」
「それは気づきますよ」
「私が弁護団長だと言っても、実際には皆さんの方がずっと経験があります。いまの私じゃ……」
「いまの、ですよね」
エヴァの言葉に意味が分からず、問い返すように目を向けた。
「いまの、と思ってくれているのであれば問題ありません。これから、も含まれていては困りますが」
優しい姉のような表情を浮かべて、エヴァは続けた。
「私も同じようなことがありました」
「……」
「私や、会社を見てください。少なくとも、ボスの見る目は悪くありません」
愛嬌のある言葉に不意を打たれて、私は返事を失った。
「そのボスが、奈緒を選びました。私も、その判断は間違っていないと思っています」
「……ありがとうございます」
さっきまでとは違う種類の熱が、顔に上がるのが分かる。
「がんばります」
結局、出てきたのはそれだけだ。
隣で、あかりが黙って画面を見ている。茶化すでもなく、笑うでもなく。それがまた、恥ずかしい。
「先生、また増えてます」
あかりがマウスを動かし、画面を更新した。
白ウサギを追え。
短い一文の下に、知らない言葉だけが、増えていった。
◇ ◇ ◇
「真壁さん」
官房スタッフが、会議の流れを止めないよう声は落としながら、私の席の横に立った。
声の主と、差し出されたタブレットを交互に見たところで、スタッフが言った。
「総理に」
差し出されたタブレットを受け取り、画面を確認する。
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白ウサギを追え!
投稿時刻は、数分前。
アカウント名は、イーサン・ヴァルガス。
投稿の下には、返信が続いている。投稿だけが見える位置まで戻してから渡すべきか。一瞬考えて、やめた。どうせ、すぐにわかることだ。
タブレットを片手に立ち上がり、会議室の端から中央の総理席まで、目立たないように歩いた。
「総理、こちらを」
永井総理は、私には目を向けずにタブレットを横目で確認した。
「ヴァルガス氏のアカウントから、新しい投稿です」
総理はそこで一度、目を閉じた。
総理の手元の机の上には、開きかけの資料がいくつもある。地方交付税、国会日程、補正予算。随所に赤が入り、説明途中のページにペンが転がっている。
「インターネットでは、死者が喋るわけ?」
まったく、と言葉にないニュアンスが聞いて取れた。
閣僚を含めた会議室の面々が、総理の言葉に変化を感じて押し黙る。
総理の次の反応を待っている私の背後に、気配を感じる。
振り返ると、九条次長がいる。
「予約投稿と思われます」
総理の手が、ヴァルガスの投稿の下に続く返信を探っていく。
そのいくつかのコメントを目にして、顔色が変わっていくのがわかる。
「――不謹慎ね」
コメントの中には『日本に殺された』『永住許可は罠だった』といった、政府に対して否定的なものがいくつもあった。
私は、総理の手元から視線を外した。
正面のモニターには、まだ前の議題の資料が映っている。白地に青い棒グラフ、右肩に小さく入った省庁名、下段には説明用の注釈。なんとか関係のないもので意識を埋めようとしたが、無理だった。
視界の端々に入る会議参加者はみな、手元のスマホに目を向けている。そこには同じように、政府に対して否定的なコメントが並んでいるはずだ。
ヴァルガスの死後、ネットを中心に、日本政府と死を結びつける話題が広がり、ワイドショーのいくつかはそれを面白おかしく拾う。
タイミングがタイミングだったこともあり、致し方ない面もあったが、それも落ち着きかけてきたところで、この投稿だ。総理でなくても、頭が痛くなる。
「対応を考えなさい」
「では、ヴァルガスのアカウントを止めます」
九条次長が迷うことなく答えた。そんなことが、可能なのだろうか。そう思ったところで、小宮山幹事長が皆の疑問を代弁した。
「可能ですか?」
「米国に対し、条件を一行加えるだけです。交渉にあたっている経産省幹部に連絡を取り、差し込みます」
九条次長はそれだけ言うと、深くはない礼として必要な角度だけを、正確に取ったお辞儀を残してその場を後にした。
扉の近くにいた官房スタッフが慌てて身を引きながら扉を開き、それすらも計算していたかのように、九条次長は足を止めず、振り返ることもなく部屋を出ていく。
扉の向こうから、中とは違う柔和な光が差し込んだが、閉まると同時にそれは消えた。
米国、条件、差し込む。会議室には、九条次長の言葉だけが残った。
何人かが手元の資料をめくり、九条次長の言葉の意味を探している。
そこにはないことを知っている私と小宮山幹事長、永井総理は誰とも顔を見合わせない。
「続けて」
総理のその一言で、止まっていた会議が再び動き出した。




