第二十五話 十二月の新件
暖房が効きすぎているのか、十二月の昼の東京地方裁判所の裁判官室は暖かい。
弁当箱の蓋を開けた時に、冷たいはずの卵焼きまで少し柔らかく感じる。朝、次男が「卵焼きはもっと甘く」と注文を付けてきた。弁当用の卵焼きをいくつも作るはめになった。余った分は夜、旦那に消費させる。
次男は高校一年になり、体も大きくなったが、舌はお子様ままだ。
私は箸を取り、スタンドに立てたスマートフォンの音量を一つ下げた。左耳にだけ入れたイヤホンから、ニュース動画の音声が聞こえてくる。
相部屋の裁判官室では、誰も大きな音を出さない。この部屋には、三人分の机がある。それぞれパーティションで区切られているが、私の机が一番大きい。
スマートフォンの画面には、K町の邸宅が映っていた。朝のニュースがこうして昼には配信で見られるのはありがたい。
代わり映えしない映像素材には飽きてきたが、どうしても見入ってしまう。
【ヴァルガス氏相続税訴訟 国を提訴】
画面上部のテロップ。ここにきて新展開だ。
箸で鮭の身をほぐした。
「――くっそ!」
パーティションの向こうから、黒崎の声がした。
最近、黒崎はスマートフォンのポーカーゲームにはまっている。本人は無料のゲームだと言っているので、たぶん本当に無料なのだろう。ただ、ネット賭博の事件が増えている昨今、裁判官室でやるのは控えてほしい。
私は今年、三号に上がった。もちろん、給料も上がっている。責任も上がった。
そういうことなので、控えてほしい。
イヤホンの向こうで、司会者がいつもより硬い声で原稿を読んでいた。
『世界的実業家、故イーサン・ヴァルガス氏の相続税をめぐり、相続人側が国を相手取り、課税処分の取消しなどを求める訴えを起こしました。日本政府は、ヴァルガス氏が死亡時点で日本に生活の本拠を置いていたとして、国内外すべての財産を相続税の対象とする方針で――』
画面の横に、大きな数字が出た。
一五〇兆円と八十兆円の二つ。日本円に対して、なぜかドルマークのロゴ付き。
私は卵焼きを口に入れた。やはり甘い。
長男もお弁当の甘い卵焼きが好きだった。大学生になってから弁当を持っていかなくなった。寂しい反面、大変助かっている。
そういえば、今日は家で夕飯を食べると言っていた。米は、四合炊けば足りるだろう。
献立は、鍋にしよう。水炊きなら、手軽に作れて一汁三菜を賄える。
『国側は、ヴァルガス氏の全資産について保全措置に入ったということです。関連企業の株式、持株会社の持分、財団や信託、宇宙、通信、SNSと、影響は世界中に広がる可能性があります』
職業柄、報道の言い回しに、少し引っかかりを覚えた。
全資産の保全措置――差押え。
まだ確定もしていないのに、一五〇兆円もの全資産に鍵をかけるとは、国も前例のないことをやるものだ。
気がつくと、箸が止まっていた。
水炊きには白菜が必須だと思っている。安くなってきているのはありがたい。給料は上がったけど、抑えられる出費は抑えたい。その分、旅行で使える資金が増える。
年末年始は家族で台湾だ。海外は子供が小さい頃に一度行ったけど、「覚えていない」と言われて行かなくなった。小さいころに経験をさせた方がいいと言われているけど、覚えてないなら無駄でしかない。
弁当箱の隅に残ったきんぴらを、箸で角に寄せてすくった。
画面が切り替わり、女性の顔写真が出た。
【相続人側代理人 麻生奈緒弁護士】
事務所前だろうか。女性が雑居ビルの入り口で報道陣にマイクを向けられている。本人は答えず、眉間にしわを寄せたまま建物へ入っていく。
若いなぁ。
実際に若いのだろう。でも、もっと気楽にやらないと、すぐにしわが出てくる。出てから気づいたって遅い。
私は鮭を食べ終え、箸をいったん置いた。
午後は、合議が一つ。記録読みが一つ。夕方までに目を通しておきたい決定案が一つ。定時で出るのは無理でも、六時前には出たい。白菜のために一駅手前で降りるなら、なおさらだ。
ニュース動画は、アメリカとの関係の話に移っていた。
米国籍。遺産税。日米の課税権。世界経済。
それっぽい言葉が並ぶと、重く感じる。実際重いのだけど、スタジオで並ぶコメンテーターのうち、何人がその重さをわかっているのだろう。
黒崎のスマートフォンから、短い効果音が鳴った。
「よしっ!」
今度は勝ったらしい。
私は弁当箱のふたを閉め、箸をケースに入れた。まずは化粧室に行って、それから合議の準備。まだまだやることはある。
立ち上がろうとしたその時、裁判官室の扉が開いた。
「川端さん」
書記官の森田くんの声だ。
パーティションの合間から、手に記録を抱えてこちらに歩いてくるのが見える。新件だ、とすぐに分かった。
でも、返事はしない。
「川端さ――川端部総括」
「なあに」
森田くんは机の横まで来て、足を止めた。普段から表情に出る方ではないが、今日は少しだけ間を置いた。記録を渡す前に謝る人の顔をしている。
「すみません。新件です」
「はい」
私は手を出した。
森田くんは記録を渡しかけて、机の上のスマートフォンをちらちらと見た。
画面では、テロップが出たまま、コメンテーターたちがワイワイやっている。
「あ、気になる?」
イヤホンを外して動画を止めようとすると、森田くんは小さく首を振った。
「いえ、違います」
森田くんは、今度はスマートフォンの画面をしっかりと見た。画面には、同じ赤い帯が残っている。
【ヴァルガス氏相続税訴訟 国を提訴】
意味が分からないまま、新件の記録を受け取った。
「違うって、なにが?」
「それが、これなんです」
言われて、手にした記録を目の前まで引き寄せた。
老眼のせいで、かすんでよく見えない。できれば、見えないままの方がありがたい気もする。
相続税更正処分等取消請求事件
被告 国
目と記録の間に適切な距離を取った途端、いちばん目にしたくないところだけが、しっかりと入ってきた。
「いーやーだっ!!」
記録を森田くんに押し返した。
変な声が出るのは当然だ。だって、おかしい。ほんと、おかしい。
「国が被告で、相続税で、八十兆円? 十二月頭に来る新件じゃないよね? ていうか、なんで私? 年末に台湾行くんだけど!」
「私に言われましても……」
「こんな規模の案件、最高裁でやりなさいよ!」
「我が国は三審制なので」
「あー、もうっ! 誰の仕業?!」
森田くんが申し訳なさそうにしている。こっちも申し訳ない気もするけど、さすがにこれはない。
「振ったというか、配点です。民事の所長代行から、川端部で受ける形で、と」
「所長代行……」
「後ほど説明があるそうです」
私は記録を机に置き、両手で頭を抱えた。
所長代行から説明があるということは、もう私の知らないところで、私の部の事件になっている。押し返して戻る段階は、とっくに過ぎているということだ。
「説明じゃなくて、台湾のキャンセル料を持ってきて……」
失礼します、という森田くんのか細い声が、頭の上を通った。
私はしばらく、頭を抱えたまま、机の板面を眺めた。
八十兆円。
国。
相続税。
台湾。
とりあえず、顔を洗おう。
このまま午後の合議に出たら、何かの拍子にまた変な声が出る。
私は椅子を引き、立ち上がった。
「……なによ」
パーティションの上から黒崎が顔を半分だけ出し、こちらを覗き込んでいる。
「眉間、しわ寄ってますよ」
言うだけ言って、黒崎の顔はすっと下へ消えた。
私は机の上の鏡を手に取り、その中にいる自分の顔を確認した。
眉間を見たら、いくつもしわが寄っていた。




