第二十四話 死者の値段
目隠しを外されたとき、まず視界に飛び込んだのは光。目が慣れるにしたがって、それが卓上ライトの光だとわかった。
机の上には俺の上着、ベルト、靴紐、財布、煙草。たわいもない物ばかりだが、手が届く位置にはない。
それ以前に、手を動かす自由はない。
椅子の背越しに、親指と手首に拘束を感じる。結束バンドか、それに類する何かだろうが、確認はできない。
「これもあるぞ」
俺は、声のした方へ目を細めた。ライトの明かりがこちらに向けられていて、声の主の顔はいまいちわからない。輪郭、声質、俺よりは上だろう。
その手の中にあるものは理解できた。俺が所持していた、古いマカロフ。
「――裏潜りからの愛用品か。物持ちがいいな」
机の向こうには二人。マカロフを持つ男が正面、左の壁際にもう一人。壁際の男は微動だにせず、俺を凝視している。もしもの時の抑え役だろうか。
同業のにおいを感じる。
警備部か、内調か、それに近い別の系統か。そこまでは分からない。分かったところで、この拘束具が外れるわけでもなかった。
「弾は抜いてある」
正面の男が、机の上にマカロフを置いた。
「佐伯勇吾」
「――いまは早瀬だ」
「潜入時使用名、早瀬。以後、同名を継続使用」
男は律儀に訂正を加え、先を続けた。
「警視庁採用。交番勤務を経て、所轄刑事課へ異動。刑事課在籍中、強盗、傷害、詐欺、組織犯罪周辺事件を担当」
遠い昔、いや、年月の話じゃないな。遠い世界にいたころの話だ。
「本庁捜査一課へ異動」
声は淡々としている。自分の過去を読み上げられる気分は、いいとは言い難い。俺が扱った犯罪者たちも、きっと同じ気持ちだったことだろう。
「捜査一課在籍中、家庭内の監護状況に関する通報記録あり。近隣通報、学校からの確認、児童相談所への連絡」
俺の素性には、いつでも同じような文言が並ぶ。すでに消し去られているはずなのに、いつまでたっても。
「同件を契機に、監察および人事上の確認。警察学校教官へ異動」
さあ、山場だ。どうせ、ため息をつくんだろう?
「教官在任中、家族関係者への傷害被疑事件を起こす。当初は任意聴取、のち被疑者取調べへ移行」
男は、ため息と一緒に予想通りの顔をし、俺はしてやったりと笑みで返した。
「子供の名前は出すな」
「調書の残る取り調べだと思っているのか? ――まあいい」
言って、男は俺を覗き込むように身を乗り出した。
「女房が憎いか?」
その言葉を聞いて、今更ながらに思う。憎い、そう思ったことは一度もなかった。
「記録では、妻による児童への加害現場に遭遇。そのうえで、妻に暴行を働いた」
玄関の扉を開けたとき、室内が目に入るよりも早く、何かが当たる音が耳に入った。
二度、三度と、音は鳴り続ける。
薄明かりの中、音のありかをたどるように、リビングに足を踏み入れた。
泣いている。
息子はソファの横にうずくまり、腕で頭を抱え、膝を腹に寄せ、できるだけ小さくなりながら、声を出さずに泣いている。
俺は振り上げる手を掴み、何をしていると妻に声をかけた。
妻は自分の腕がなぜ振り下ろせないのか理解できず、何度も力を入れ、息を切らせ、やっと俺を見た。
『ああ、いたの』
その後のことはよく覚えていない。
気づいたときには妻は床に倒れ、息子は離れたところで俺を見ている。視線が合ったところでまた顔を伏せ、体を丸めた。
『お母さん』でもなく、『お父さん』でもなく、俺たち夫婦から身を守った。
憎いはずもない。
俺たちは共犯だ。
「被疑者は取調べ中に自殺。その後、遺体確認を経て、警察職員として死亡退職。記録上の佐伯勇吾はそこで終了している。――間違いないな?」
「黙秘するよ」
「死亡処理後、早瀬名義で非公開実働系統へ移行。初期任務は暴力団組織への潜入。五年の潜入期間ののち、港湾地区における摘発に関与。同日、別作戦へ移行」
「五年を一行でまとめられるのは寂しいね」
「次だ、聞け」
なぜ、当たり前のことを口にするのか。派閥争いでもあるまい。
「イーサン・ヴァルガスに対しての監視活動。死亡時、K町N区邸宅へ潜入し隠蔽活動」
そこで、男は初めて大きく息を吸って、言った。
「作戦の主目的は、イーサン・ヴァルガスの暗殺」
「ああ。だけど、先を越された」
まだ動く時期ではなかった。
決行は半年先か、一年先か。状況次第ではさらに後ろへ送られるはずだった。誰が先に手をつけたのかは知らないが、あの夜に死なれるのは早すぎる。
永住許可が下りて数週間。そこへ、あの規模の相続税の話だ。馬鹿でもなければ、国の関与を疑う。
ただ、そう思わせたい連中からすれば、絶好のタイミングだったのも確かだ。
男は、そこで顔つきを変えた。
笑ったわけではない。怒ったわけでもない。憐れんだような顔だった。
「まだ分からないのか? それは任務じゃない」
使い捨て、いや、違う。はなから俺たちは使い捨てだ。わざわざ国の関与を否定する必要はない。
する必要のない否定をする理由は――
「乗せられたんだよ」
◇ ◇ ◇
背後で扉の閉まる重い音が聞こえる。
目隠しは外され、少し離れた別室に、手首と親指の拘束は残ったまま連れてこられた。
足元は自由だが、靴から紐ははずされたままで、歩くたびに脱げそうで心もとない。
事前に引かれた椅子に腰を下ろす。
俺を連れてきた男は、一言も発せず、壁際に身を預けて立った。
部屋はさっきより少し広い。窓はない。俺のために空けられていた椅子の前に、先ほどと同じ型の机。そして、その机を挟んでもう一脚。
そこに丹羽がいた。
「どういうことだ」
上着はなく、靴紐もない。両手は背の後ろで留められている。鏡合わせのような状態で、向かい合った。
丹羽は、遠くを見ている。
目の前に俺がいるのに、それを通り越して、どこか遠くの方を見ている。それが、無性に腹に立つ。
「俺たちは、何に乗った」
「上からの命令だ」
丹羽の声はいつもと変わらなかった。
「いまさら命令だと?」
「命令であることは、確かだ」
部屋のドアが開き、男が丹羽に近づいた。手にしたニッパーで拘束具を解く。丹羽は手の状態を確認するように、片方の手でもう一方をさすった。
「誰の――」
男が今度は俺の後ろに回った。親指にかかっていた締め付けが緩む。手首も自由になった。血が戻る感覚はあった。
「知らんよ」
丹羽は、外された手を膝の上に置いたまま言った。
「正規の任務ではないことは初めから分かっていた。こんな杜撰な作戦が、正規のはずがない」
「だったら、なんで」
「おまえは、『この任務は正規のものですか』と上に聞くのか」
俺は次の言葉を失った。
俺たちは、上の命令で動く。それがどんなに理不尽でも、与えられた命令に疑問を挟まず、ただ実行する。
表ではない、裏の俺たちは、そうでなくてはならない。そのために死に、生かされている。
別の男が、俺たちの所持品を持って現れた。上着、ベルト、財布、煙草、ライター。少し遅れて、むき出しのマカロフも机の上に置かれた。
「仕事は継続だ」
丹羽は椅子に腰を下ろしたまま身をかがめ、靴紐を結んだ。
「監視対象は麻生奈緒。監視および情報収集を行い、その行動を逐一報告。特に事務所に出入りする人間は、取りこぼすな」
丹羽は、上着に腕を通しながら立ち上がった。
麻生奈緒、税務弁護士。ヴァルガスの日本側担当。
「いい加減にしろ」
声が少し大きくなった。
丹羽は、こちらを見ない。上着の着心地を整えるようにしてから、男に差し出された身分証を受け取り、首から下げた。
「今度は違う」
「何が」
部屋の壁に背を預けていた男が、そこで初めて動いた。扉を開ける。出ろとも、続けろとも言わない。
「上からの、正式な任務だ」
言って、丹羽は男たちとともに部屋を去った。扉は開け放たれたまま。
麻生奈緒。
国が相続税を取りに来るなら、正面に立つ人間。その正面を、これから俺が見張る。
机の上のマカロフに手を伸ばし、弾倉を確認する。八発。薬室に装填は無い。
ヴァルガスの死には、国が欲しがるだけの値段がついている。国が目の色を変える数字が、死んだあの男の上に積まれている。
俺の死には、別の値段がある。
戸籍にいない。表に出ない。失敗しても切り離しやすい。そんな、都合よく使えるだけの価値。
弾倉を戻し、スライドを引く。手を離すと、一発目が薬室に入った。
数は変わらない。ただ、使える状態になった。
<第三章 了>
次回より 第四章 浄化




